友達

 忌々しい声がする。


「……ゆい……ゆい! 朝ご飯できてるわよ」


 長い前髪を撫でつけて身体を起こし、今しがた目覚めたふりをする。

 ――わかってるよ母さん。だから、名前を呼ばないで。


「もう、いつまで経っても子供なんだから」


 文句とは裏腹に、手間を慈しむような呆れた薄笑いで。そうしてまた、呪いの言葉を口にする。


「あんたも女の子だったら可愛かったのにね」


    * * *


 昨夜キザキに殴られた顔がじんじんと痛む。

 利き手の左手じゃなかったのはキザキなりの加減だったのか。ボクシングを習っている彼が本気の不意打ちで殴れば、渉の顔は歯も欠けてさらに腫れぼったく、血まみれになっていただろう。

 朝一番に、萩野が心配して声をかけてくれたが、嘘をつくのが嫌いな渉は「いろいろあったんだよ……でも俺は手を出してないからな」と誤魔化した。後半を加えたばかりに、何らかの喧嘩に巻きこまれたことが安易に察せてしまうのは渉のミスだ。


 午前の授業が終了したのち、


「望月……このあといい?」


 前の席に座っている杉野が、渉を廊下に呼び出した。隣に並んで一階に行き、ひとけのない空き教室前で立ち止まる。


「昨日は……ごめん、ありがとう。怪我……その、俺のせいで……ごめん」


 しどろもどろに言って、杉野は申し訳なさそうに頭を下げる。

 ドッペルゲンガー探しで杉野と遭遇したのは偶然だった。だが助けに入ったのは反射的であって、渉は杉野の謝罪に首を振る。


「ううん、悪いのはあいつらで……杉野は――」


 杉野は、昨日何をしていたんだろう。そんな疑問を察したように、杉野はゆっくりと答える。


「昨日いたのは……中学の知り合い。日龍高校に通ってて、今でもたまに絡んでくる。唯ちゃん、唯ちゃん……って」

「……唯ちゃん?」


 杉野はこくりと頷くが、


「って……誰?」


 聞き覚えのない人名を唐突に出されても話が繋がらず、渉は小首を傾げる。が、それは渉が覚えていないだけ。

 杉野はきゅっと口角を上げて言った。


「俺の名前。杉野唯だから……唯ちゃんって、よくいじられるんだ。女みたいだなって」

「あ……そうだったか」


 杉野唯。それが杉野の本名だった。いつも杉野と呼んでいるし、周りも苗字呼びばかりで覚えてなかった。

 確かに男にしては珍しい名だが、そんなに気にすることだろうか。杉野は自嘲的に笑う。


「俺の母親は、女の子が欲しかったんだ。女の子に付けたかった名前を俺はそのまま貰ったんだって、小学生の頃に聞いたよ」

「あー……そんな宿題あったな」


 渉の由来は、どんなに険しい道も渡っていける強い子でありますように、という願いだった。意味と漢字の成り立ちから決めたらしい。

 けれど、杉野の由来は否定的だ。女の子が欲しかった、女の子に付けたかった。そんな望みを親に言われては、コンプレックスにもなるだろう。自分は女の子として生まれるべきだった、という強迫観念にも繋がる。

 杉野が長い前髪で目元を隠しているのも、周りから見られたくない、目立ちたくないという防衛本能ゆえか。


「ダサいよな。男らしくなりたくても……いつまでもいじられてばっかで」

「そんなことねえよ」


 渉はかぶりを振ってきっぱりと言い切る。


「杉野はダサくなんかない。杉野はいつだって優しくて、いつだって俺の味方でいてくれただろ。一番男らしいのは、そういう心優しい奴だと俺は思うよ」

「そ、そうかな……」

「ああ、そうだよ。ダサいのは日龍の奴らだ」


 それと……、


「そんな奴にムキになる俺も……」


 最後のほうは雨音に掻き消されるくらいの声量だった。

 因縁の相手に会って、殴られて、気が立って。怒りが湧いて、周りに迷惑をかけて……。挙句の果て、大好きな子に見られて軽蔑された。格好悪い。こんな自分は凛に相応しくない。フラれて当然だ。

 渉はため息をついて窓の外を見る。雨は昨日からやまない。こんな格好悪い自分でも、杉野の役に立てることがあるだろうか。名前に悩む友人のために。そして、格好悪い自分を挽回するために。


「よし……俺がプロデュースしてやる」

「え――? わっ!」


 ドンッと壁に手をつき、渉は杉野に顔を寄せる。杉野は、長い前髪の向こう側でそわそわと視線を動かし、「えっとぉ……」と目の前の友達を窺った。


「俺が杉野をプロデュースしてやるよ」

「プ、プロデュース?」

「男らしくなりたいんだろ。だったらまずは筋トレ、運動、体力作り。毎日腕立て、腹筋、スクワットを各三十回ツーセット。ランニングは朝と夜やることだ」


 杉野は追い詰められた兎のように震え上がる。


「む、無理だよぉ……俺、腹筋十回もできないのに」

「少しずつでいいんだよ。毎日やればできるようになる」

「ううーん……」

「――そりゃいくら何でも脳筋すぎるんじゃねえかぁ、わーたーるー?」


 突然、横から聞き慣れた声がしたかと思えば、そこには響弥と清水と柿沼とゴウが――いつメン全員お揃いで、角から覗いていた。


「うおっ!」


 渉は慌てて杉野から離れる。


「なんよなんよ。面白そうなことやってんじゃんよぉ」と清水が目を光らせ、「浮気現場だな」と柿沼がニヤつき、「昨日は楽しかったぁ?」とゴウが和ませ、「ぐぬぬぬぬ……」と響弥が唸る。


「何覗き見してんだよ」


 反論したかったがここは一階。売店に来たついでに渉と杉野を見つけ、タイミングを窺って割りこんだのだろう。杉野からしてみれば救いの手か。


「そんな脳まで筋肉でできたメニューよりも、もっと楽にかっこよくできるだろ」

「誰が脳まで筋肉だよ」

「俺に任せろ。響弥、手伝い頼むぜ」


 渉の突っ込みを軽く流し、柿沼は自信満々に胸を張って杉野を空き教室に引っ張りこんだ。いったい何をはじめる気なのか。渉は、ゴウと清水にサンドイッチをひとつずつ貰って、その様子を見守った。


 杉野を椅子に座らせて、柿沼は胸ポケットからピンケースを、響弥はワックスを取り出す。適量のワックスを手のひらに広げて、響弥は杉野の髪全体を整えていく。

 柿沼は「ちょっと失礼」と指先で杉野の前髪を横に梳き、左右非対称アシンメトリーになるよう片方をヘアピンで留めた。普段からヘアセットに精を出す彼らならではの慣れた手付きだ。

 前髪がなくなって現れた杉野の顔は、いつもより明確で幼く見えた。杉野は恥ずかしそうにうつむく。


「し、視界が……」

「お前ほっせえからなー……上脱いで腕まくりしたほうが映えんじゃねえか?」

「ば、映え……?」


 杉野は戸惑いながらも上着を脱ぐが、下は半袖のカッターシャツ。柿沼は「はやと、チェンジだ」と臨機応変に清水に脱ぐよう促した。


「なんで俺!?」

「身長一番近いじゃん」

「長袖の腕まくりだしな」


 と、ゴウと渉もフォローに入る。清水は「へいへい……」と面倒くさそうに言いながら、杉野とカッターシャツを交換した。

 仕上げにアシンメトリーを保ったままヘアピンを追加すれば、できあがり。五人の男子高校生は「おおー……」と感嘆の声を上げた。


「なかなかいいな」

「男はイキって上等よ」

「俺ら美容師目指せるんじゃね?」

「杉野のもとがいいんだろうが」

「は、恥ずかしいよ……」


 うつむいて顔を隠そうとする杉野の前に、響弥は鏡を取り出して見せた。杉野は恐る恐る顔を上げる。

 そこには、少しだけ大人びて見える『男子高校生』がいた。前髪は片側に留められ、もう片方は流したまま。右耳の上の辺りに黒髪の束が揺れている。肘下で折り畳まれたシャツの袖は、女子受けと男らしさを同時演出していて――

 杉野は、ぽかんと口を開けていた。彼の変貌ぶりに、渉は思わず笑みを浮かべる。


「これが……俺……?」

「どうだ、杉野」

「すごい……」

「だろ?」

「望月プロデューサーは何もやってねえだろがい!」


 得意げな渉に清水が面白おかしく突っ込みを入れる。杉野は感動した様子で、自分の前髪に触れた。

 男らしくなりたい。それはコンプレックスゆえの願いだったはず。渉たち男子高校生の言う『男らしさ』など、見栄を張ったおしゃれに過ぎない。

 でもそれでいいのだ。

 それが、彼ら男子高校生の楽しみ方だから。胸を張って、今を全力で楽しめばいい。


「てか杉野、飯食った?」


 時計を見上げて柿沼が尋ねる。


「いや、まだ……」

「食え! 俺のおにぎり一個やるから食え! 今すぐ食うぞ!」

「俺も食ってねえよ、焼きそばパン!」


 空き教室の椅子を引っ張り出し、杉野と美容師組は遅い昼食を急いで取る。


「なんかいいな……こういうの」


 渉は、米やパンにがっつく必死の彼らを見て感慨深く呟いた。女子禁制のいつメンの空気が心地よい。

 響弥は焼きそばパンをもちゃもちゃ食いながら、


「杉野もいつメン入りだな」

「いつメン入り……?」

「ダチってことだよ」


 柿沼はサムズアップして臭い台詞を吐く。


「あとで聞かせろよー? 好きなものとか、好みのタイプとか」

「早く食え。時間ねえぞ」

「はいはい。望月プロデューサーは顔の怪我大丈夫でありますかー?」

「平気だ平気」

「そうだ、ドッペルゲンガーは? ゴウの弟の話、聞けてねえぞ!」


 清水の訴えを最後に、昼休み終了のチャイムが鳴る。また放課後だなと、渉はひっそりと楽しみに思った。

 杉野は口の端についた米粒をぺろりと舐め取って、


「俺が好きなのは、友達」


 照れ臭さの消えない頬を柔和に持ち上げて答える。


「筋トレも……苦手だけど、少しずつやってみる。望月、みんな、ありがとう」


 杉野唯のその笑顔は、今まで見たどんな表情よりも輝いていた。

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