ドッペルゲンガー

 予報どおり放課後は雨に見舞われた。先に行くよう響弥たちに連絡し、渉は少し遅れて昇降口に向かう。

 すでにお揃いの響弥、清水、柿沼を前に、渉は隣に並ぶ男子を親指でさした。


「A組の朝霧あさぎりだ」


 ――昼休み、渉は遊園地の土産物を渡そうとA組の朝霧を訪ねた。

 凛たちは菓子類のほかに、キーホルダーやタオルなどの日用品を買っていたが、観覧車で意気消沈中の渉に土産物を選ぶ余裕はゼロ。家族に対しても、もちろん自分に対してもだ。

 そこで一番最初に目についたのが菓子の詰め合わせ。誰に対してでもなく適当に購入し、あとあとこれは朝霧に渡すべきだろうとぼんやり思ってやってきた。

 渉は廊下に朝霧を呼び出し、持っていた紙袋を差し出す。


「遊園地の土産。チケット貰ったから……一応」

「……ああ、わざわざいいのに。ありがとう」


 朝霧は小さく笑みをこぼす。ぴんとこなかったのか、貰えるとは思ってなかったような反応だ。


『――僕と、きみが? どうして。友達でもないのに、遊園地なんて行く?』


 彼を誘ったときはそんなせせら笑いに落ちこんで逃げ帰ったが、こうして受け取られると怒りやショックよりも安心感が勝る。


「開けてもいい?」

「あ、うん」


 早々に帰る気だった渉を引き止めるように、朝霧は紙袋のなかを開ける。


「クッキーだ。消費できて助かるよ」

「……うん」

「望月くんはもう食べた?」


 名前を呼ばれてどきりとしながら顔を上げると、朝霧の窺うようなまっすぐな瞳とかち合う。渉は言葉を失って、ううんとだけ首を振った。これ以外買ってないなんて言ったら、変な目で見られるに決まっている。


「そう……じゃあ一緒に食べる?」


 なんてね、と続きそうな冗談めいた誘いを真に受けて、渉はさらに全力で首を振った。案の定、「冗談だよ」と笑う朝霧の吐息が前髪を撫でた。

 どう会話を切り上げようか考えているうちに朝霧は渉の顔を覗きこんでいて、キスでもされるんじゃないかというくらい間近に迫っていた彼の表情に思わず後ずさる。


「な……」

「眠れてないの?」


 朝霧は寝不足なのも承知で、元気がないのも見透かしていた。そして返答に困っている渉を、鋭利な洞察力で崖っぷちへと追いやる。


「遊園地……楽しくなかった?」

「い、いや……!」


 気を使わせまいと、渉は首と一緒にぶるぶると両手を振る。喉に魚の骨が引っかかったような痛みが走り、声がどうしても出しづらい。頭のなかを漂う黒いもやが熱く疼く。


「ゆ、遊園地は……楽しかったよ。今日はちょっと、寝不足で……」

「百井さんと何かあった?」

「っ――」


 一瞬にして言い当てられ、視界がチカチカと明滅する。渉はもつれながら後ずさり、廊下の壁に背中を預けた。


「だ……誰かに聞いたの?」

「聞いた? 何を?」

「凛の……その……」


 自分は今どんな引きつった表情をしているのだろう。目の前にいるはずの朝霧の顔も見えない。嫌な思考が目まぐるしく湧き出てきて、渉の心と脳を圧迫する。

 どうして知っているんだ。まさか噂になっているのか。凛が、千里が、芽亜凛が、渉の知らないところで悪口を……。いいや、まさか、そんなはずはない。凛はそんなこと絶対にしない。でも、もしも、自覚がないだけでずっと前から嫌われていたとしたら……。


「何も聞いてないよ。でも図星なのバレバレだね。誰にも言わないけど」


 朝霧は軽やかに笑って教室に入り、土産を置いてすぐに戻ってきた。

 渉の反応は至極読み取りやすいものだ。考えれば考えるほど胸の奥が苦しくなって呼吸が浅くなり、吐き気を催し、冷や汗が滲む。頭のなかが真っ白になって、全身が痺れたみたいに動かなくなる。

 けれど、様々な可能性を省いて凛との関連を言い当てたのは彼の頭の回転の速さゆえ。朝霧は渉の背中にそっと手を添えて、「顔色真っ青だよ。少し寝たほうがいい」と保健室に行くことを促した。


「大丈夫。僕でよければ相談に乗るから」


 あんなに突き放していた彼はどこへ行ったのやら。今の朝霧は優しさの塊で、つい甘えたくなる引力がある。

 遊園地のことは響弥たちに言えないし、話していない。凛との一件で深く傷つき、呆けた渉の頭でも、彼女たちと交わした約束は健在だった。


『誰にも言っちゃ駄目だからね。遊園地に行くことは四人だけの秘密』


 だから遊園地に行ったことも、凛にフラれたこともまだ誰にも話していない。千里と芽亜凛にだって、悟られていたとしても直接的には黙ったままだ。言えば気を悪くしてしまうし、凛にも伝わるだろう。

 吐き出せる場所は、どこにもなかった。


 唯一、朝霧には話してもいいのだろうか。チケットをくれた張本人だし、凛との障壁を悟られてしまったし――

 だが朝霧は、垂らした蜘蛛の糸を切るかのように、「なんてね」と薄い笑みを浮かべる。


「僕よりも友達に話したほうがいいか……神永くんとか、松葉さんとか」


 正直者の渉は歩みを止めて、ちらりと朝霧を見上げた。媚びるような視線になってしまっただろうか。朝霧は子供の話を聞くように「うん?」と耳を傾け渉の言葉を引き出す。


「聞いてくれるなら……お前がいい」

「うん、いつでもいいよ。放課後はどう?」

「今日は、用事が……」

「神永くんたちとカラオケか」

「いや、ドッペルゲンガー探し」


 そうして――、朝霧も来るかという話になり、響弥たちとの合流を果たした。保健室で午後の授業を休んだおかげか、隈は消えなくとも渉の顔色は幾分もマシになっていた。


「なんでイケメンが一緒なんだよ」


 傘を差した響弥は不機嫌そうに呟いて、渉を肘で小突く。


「顔で文句言うなよ……」

「俺はイケメンアレルギーなんだぞ。あの教育実習生だってムカつくのに」

「そんな理不尽な……」


 脇で陰口を叩かれているとは露知らず、朝霧は「見たら死ぬドッペルゲンガー探し。面白そうだね」とうきうきしていた。

 清水は「えっと……あの朝霧だよな?」と訝しみ、柿沼は「どういう関係だ?」と渉に問う。


「まあ……ちょっとした友達っつーか」


 呟いた途端、朝霧は瞳だけで渉を見たが、誰もその視線には気づかない。


「マジで? 成績一位の男だぞ、知ってんの?」

「そうなの?」

「おうよ。そんなすげえ奴連れてきてんだぞ。どこで拾ってきたんだよ。子犬じゃねえんだぞ」


 顔もいいし頭もいいし高身長だし、他人を気遣える優しい心の持ち主か。天は二物を与えずと言うが、彼はいくつ貰っているのだろう。そりゃ響弥が本能的に嫌うわけだ……と渉は納得してしまった。


「褒められてるのか貶されているのか、微妙によくわからないね」


 朝霧は苦笑いをして、四人を導くように先頭を歩く。続いて清水と柿沼、渉と響弥の順に連なって門を出た。


林原はやしばらくんは一緒じゃないんだね」

「見たら死ぬから留守番させた」

「並べたほうが一目瞭然じゃない?」

「お前ゴウを殺す気か」

「あはは、死なないと思うけどなぁ」


 朝霧は二人に先を譲って渉の前に来る。傘越しに振り返り、


「望月くんは――僕の友達?」


 と、改まって不思議な質問を投げかけた。

 渉は「ああ、うん……」と曖昧に頷いた。朝霧はふっと口元を緩めて、満足気に前を歩いた。




 街は徐々に夕暮れの薄暗さが顔を出しつつあった。雨の影響で人通りは少なく、代わりに狭い歩道では傘が通行の邪魔になる。すでに明るく点ったいくつか街灯を目印に、五人ははぐれないようできるだけ人混みを避けてデパートへ向かった。


「こんな雨の日にいるのか?」

「雨だから店で遊ぶんだろ」


 渉の率直な疑問を柿沼がさらりと返す。

 休日と平日とじゃ出没する時間も異なるんじゃないかと思うが。清水と柿沼は、どうしてもドッペルゲンガーの存在を信じさせたいようだ。


「二手に分かれるか。外とゲーセン周り、どっちにするよ」

「ゲーセンがいいに決まってんだろ……」

「望月はそうよなぁ……響弥は?」

「俺は渉に付いてく」

「朝霧は?」

「僕は別にどこでも」

「四人ゲーセン行きはさすがにまずいよな」


 清水は柿沼と目配せしてムムムと考えこむ。全員外にいたくない思考がダダ漏れである。公平にジャンケンで決めようかと言いかけた矢先、朝霧は腕時計を見て、


「ドッペルゲンガーが現れるのは一時間ほど後だと思うよ。無駄な時間を外で過ごすか、なかで過ごすか。答えは明白じゃない?」

「なんで一時間後ってわかるんだよ」と響弥が噛みつく。

「いや、俺らが見たのもそれくらいの時間帯か……?」


 自信なさげに柿沼はスマホを確認した。時刻は午後四時半を過ぎている。朝霧の予想は午後五時半ということだ。


「じゃあ……遊ぶか」

「遊ぶー!」


 響弥たちはガッツポーズで大々的に賛成した。傘を畳んだ三人は入り口目掛けて走り出し、渉と朝霧は保護者のごとく並んで後に続いた。


「うりゃうりゃー!」

「オラオラー!」


 清水と柿沼は得意のシューティングゲームで、敵を撃ち抜いてはスコアを伸ばしている。渉と響弥は格闘ゲームで対戦し、いい勝負を繰り広げた。

 格闘ゲーム、シューティングゲーム、コインゲーム、クレーンゲーム。あらゆるジャンルを遊び尽くして、気づけば一時間が経とうとしている。こんなことならゴウも呼べばよかったなと、彼を仲間外れにしたことをちょっとだけ後悔した。

 朝霧は向かいの本屋をぶらついていて、渉は隙を見て声をかけに行った。


「なあ、なんで一時間後だと思ったんだ?」


 渉の問いに朝霧は、「部活時間だよ」と難なく答える。


「部活時間?」

「ドッペルゲンガーなんてそうそう会えるもんじゃない。他人の空似と身内……どちらがより現実的かな」

「つまり……ドッペルゲンガーの正体はゴウの身内? で、そいつは部活をしてるから、大体一時間後に現れるだろうって?」

「そういうこと」

「そいつは朝霧の知り合い?」

「全然」


 あっさりと否定する朝霧に拍子抜けする。――全部予想かよ。それにしてはすべて把握しているような口ぶりで、最初から正体も知っている……みたいな。

 それから朝霧は、「僕なら世戸さんの後をつけるよ」とこっそり教えてくれた。正体不明のドッペルゲンガーを探すより、知れた女子生徒を追うほうが確実だよ、と。頭の切れる優等生は、ずる賢いことを平然と言ってのけるのだった。


 約束の時間になると朝霧の言葉どおり、ゲームセンターは男女問わず学生の姿が増えてきた。部活終わりの息抜きに来た生徒たちだ。

 清水は他校の女子生徒を目で追い、「ブレザーっていいよな」と鼻の下を伸ばす。しかしゴウに似た人物は見当たらず、五人はデパートの外に出た。


「結局ドッペルゲンガーなんていねえじゃん。見間違いだったんじゃねえのー?」

「くっ神永まで……俺ら友達だろ!」

「外っつってもさぁ、傘が邪魔でわかん……」


 わかんねえ、の言葉を引っこめて、響弥はある方向を二度見した。

 ひとつの傘に男女が二人。藤北の女子と他校の男子生徒だった。二人はデパートの向かいの路地裏を見つめていて、その奥には同じ制服の男子が二人と――


杉野すぎの……」


 同じクラスの杉野が、他校の男子に絡まれている。ぽつりと呟いた渉は駆け出した。ドッペルゲンガーの真偽など忘れて横断歩道を渡り、相合い傘の二人をかわして杉野の前に飛び出す。


「杉野! 大丈夫か?」

「も、望月……!」


 杉野は傘も差さずに狭い路地裏に追いやられていて、長い前髪からぽたぽたとしずくを垂らしている。濡れる足元を気にしながら、響弥たちも遅れてやってきた。

 清水と柿沼はキュキュッと急ブレーキするように止まって、「ドッペルゲンガー!」と声を揃えて指をさす。

 相合い傘をしていたのはE組の世戸優歌とそして、ゴウに瓜ふたつの少年。急に増えた男子の数に、世戸は「な、何?」と言って身をすくめる。渉は杉野に手を貸し、引っ張り上げた。


「お、おめえら……うちの生徒に何の用だよ!」

「こんなところに連れこんで、いじめか? やんのかよ、おい!」


 清水と柿沼は腰が引けながらもキャンキャン吠える。


「あたしとりっくんはちが……」

「はあ?」

「りっくん?」


 世戸は、ゴウのドッペルゲンガー――おそらく彼氏――の腕を取って怖がっている。普段のツンとした彼女からは想像できない、女の子らしい仕草が意外だった。

 杉野に絡んでいた男子二人は顎で合図して早急にずらかる。残されたのは渉たち五人と杉野、それに世戸優歌とドッペルゲンガーだ。


「きみは、林原りきくんだね、林原くんの双子の弟の」


 どこで仕入れた情報なのやら。朝霧の断言に、響弥たちは驚き飛びすさる。


「ふ、ふ、双子ぉ!?」


 リキは、ゴウよりも眠たげな瞳で目礼した。よく見るとその顔には、ゴウが昼休みに言っていた泣きぼくろが見当たらない。つるんとした茹で卵のような白い肌と顔立ちはそっくりなのに、どこか冷たく真面目そうな印象を与えるのもゴウとは異なる。


「え、ええ? あいつそんなこと一言も言ってねえよなぁ?」

「弟がいるとは聞いてたけど、まさか双子だったとは……」

「どこの学校だ? 緑色のブレザーって……」


 口々に喋り出す三人を横目に、朝霧は「日龍にちりゅう高校だよ」と補足する。


「にちりゅ……って……」


 察したように、三人は渉の顔を注目する。瞬く間に『彼』の名が頭をよぎり、渉は背後に迫りくる殺気に気づけなかった。

 肩を掴まれて振り向いた瞬間、渉の左頬を強い衝撃が襲う。姿を見る前にいきなり殴りつけられ、真っ暗な視界に星が散った。濡れたコンクリートの上に倒れこみ、雨水でカッターシャツが泥まみれになる。


「いっ……てぇ」


 口元を押さえて顔を上げると、身体中に響くような悪寒が走った。渉は目を見開き驚愕する。

 ――キザキ。

 渉が退学させた、元藤北の男子生徒。

 緑色のブレザーを着た因縁の相手が、怒りに燃える形相でこちらを見下ろしていた。


「……っ! と、トキテルか?」

「なんであいつがここに……」


 清水と柿沼はわかりやすく混乱を示し、響弥と杉野は倒れこんだ渉に駆け寄る。

 キザキは渉を睨みつけて、呪詛をはらませて言っていた。――お前のせいだ。

 お前のせいだ。お前が俺を退学にさせたんだ。何もかもお前のせいだ。恨んでやる。呪ってやる。殺してやる。

 お前がいなきゃ、俺は今でも藤北にいられたのに。


「……ざけんな……」


 渉は、拳を作ってゆらりと立ち上がる。


「ふざけんな……なんで俺が……殴られなきゃいけねえんだよ!」

「渉っ! まずいって!」


 飛びかかろうとする渉を響弥、清水、柿沼、杉野が四人がかりで羽交い締めにして止める。


「ふざけんな、何なんだよ。急に現れて急に殴りかかってきて。こっちは忘れようと必死なのに、何食わぬ顔して俺の前に出やがって。会ってすぐ殴る奴がこの世界のどこにいるってんだよ!」


 腹の底から湧き上がるどす黒い憤怒に任せて、渉は藻掻き叫んだ。恨みつらみの感情が洪水のように溢れ出てくる。頭のなかがぐちゃぐちゃだ。


「どーどーどー! 渉、ステイだ!」

「ここで喧嘩したら洒落にならねえって!」


 響弥と清水は、暴れ狂う渉をどうにか抑えようとする。

 キザキは冷酷な眼差しを向けるばかりで応じない。そして無言で傘を拾い上げると、渉に背を向けてそのまま雨のなかを去っていった。


「逃げんのかよ、おい! 言いたいことあるなら言えよ!」


 渉はキザキに向かって吠え続けるが、彼はとうとう振り返らなかった。遠くのほうで「なぁに? 喧嘩?」と不安そうな女のひそひそ声が聞こえる。渉は舌打ちを鳴らして、「くそ……」と悪態をついた。

 街の人の声がしたのはデパート側。隅で井戸端会議をする主婦たちが、ちらちらと視線を送っている。

 渉は、出入り口前にいた人物を見て血の気が引いた。


 両手で口元を隠し、軽蔑するような眼差しで。

 凛は、哀れな幼馴染の姿をじっと見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る