先輩の家
渉と朝霧は、一度学校へ戻って四月朔日と合流し、徒歩で先輩の家に向かうことになった。渉が朝乗ってきた自転車には、一晩だけ駐輪場で寝てもらうとする。
四月朔日は戻ってきた後輩の手持ちを見て、「いっぱいこうてきたなぁ」と袋の中を覗いた。二人の両手を塞ぐ四つの袋には、宿泊で必要になりそうな日用品と夕飯、学生ならではの菓子類と、
「なんじゃこのぬいぐるみの量は」
「ゲーセンで取った景品です。はい――」
渉は、大型から中型までぎっしり詰まった景品袋を四月朔日に引き渡した。四月朔日は感動で目を潤ませる。
「わ、わしにくれるんか?」
「いえ、それ全部朝霧がくれたものなので、うちまで持って行ってください」
「……ワタ公が取ったもんは?」
「お菓子を少しだけ」
「わしにゃぁ何もないんか!」
喚きつつも四月朔日は荷物を預かった。と言ってもまずはこのまま四月朔日の家に行くのだが。
「もう繋がなくていいの?」
渉に顔を近づけた朝霧は耳元で囁いた。柔らかに耳たぶを掠めた吐息の感触にびくりと肩が跳ねる。
「調子に乗るな」
機嫌の悪さを目元に集中させて、渉は菓子の詰まった袋を朝霧から引ったくる。買ったものもあるが、ほとんどはゲームセンターの景品だ。しかも、大半は朝霧が取ったものである。
「持ってくれるんだ、優しいね」
「おう。繋ぎたいならヌギ先輩とどうぞ」
「照れてるの?」
「照れてねえ」
一歩前を進む四月朔日は振り返り、「そこ、何コソコソしとるんじゃ」と朝霧だけを睨む。「怒られちゃった」と渉に耳打ちすると、四月朔日の眉間のしわはさらに濃くなった。
三人はまともな会話もしないまま、四月朔日の住む三階建てのアパートへと到着する。なかはリビングとキッチンと風呂場だけの、いかにも一人暮らしの家という感じ。
玄関に入って早々、渉は「トイレ借りていいっすか」と荷物を下ろした。買い物に夢中で、ショッピングモールでは用を足しに行けなかったのだ。
「おう、はよ行ってこい」
「あざっす」
四月朔日の快い了承も得て渉はトイレへ駆けこむ。
部屋の中央に置かれたテーブルに買い物袋を運ぶさなか、四月朔日は朝霧の腕を掴み、「おい」と低く唸った。
「お前いったい何を考えとる? ワタ公巻きこんだなぁ計算どおりじゃろ」
渉がいなくなった途端これか。朝霧は内心呆れながら、さも快活に笑った。「信用ないですね」
四月朔日は朝霧を振り向かせて、今度は胸ぐらに掴みかかる。瑠璃色の光沢を宿す、暗く深い瞳がギラギラと光る。
「わしはお前みたいな嘘つきが一番嫌いじゃ。いつもへらへらして、ええ子ぶっとるのが気に食わん。そのツラの下はドブみたいに濁っとるんじゃろう思えてしゃあない。反吐が出る」
何だよこの人、野生の勘か? 朝霧は鬱陶しがりながらも、「誤解ですよ」とあくまで優等生を演じきる。この心が生きていれば嘘泣きのひとつでもしてみせるのに。
「四月朔日先輩に嫌われている自覚はあります。だから先輩の好きな望月くんが僕と親しくなるのは、先輩も不本意とは思いますよ。でも、四月朔日先輩が考えているような、計算? とかはありません」
「じゃあなんでわしのところに来た? ワタ公に近づくためじゃろ?」
「偶然ですよ。被害妄想が過ぎるなぁ」
ぎぎぎ、と四月朔日は歯軋りした。
「わしの弟に手ェ出してみろ。東京湾に沈めちゃる」
「……」
朝霧は前方からの気配を察知して眉尻を下げる。四月朔日は気づいていないようだ。朝霧はそちらに視線を移さぬようにして、「あんまり目くじらを立てると、望月くんに嫌われちゃいますよ」と内緒話のように声を殺した。
「お前に言われる筋合いない」
「怖いなぁ……今日泊めてくれたお礼に、先輩の悩み事をひとつ解消してあげるつもりなんですよ?」
「はあ? お前に頼むことなんて何もない」
「酷い……僕は先輩を思って言ってるのに」と、ここだけは声のボリュームを高めて、次はぼそりと呟いた。
「三年A組の落ちこぼれはストレス溜まってるんですかね」
四月朔日の瞼が見開かれ、眼球は血走る。胸ぐらを掴む手が上に持ち上がったのを合図に、朝霧は「うっ、」と苦しげに呻いて、壁の陰に隠れていた渉に視線を送った。
「ヌ、ヌギ先輩!」
渉はハッと我に返って陰から飛び出し、四月朔日を朝霧から引き剥がした。朝霧は大げさにゲホゲホと咳きこむ。
「げにこいつはどうしようもない奴じゃ」
殴るか怒鳴るかと、朝霧は四月朔日を観察していたが、彼はどちらもしなかった。額に血管を浮かび上がらせて、冷たく吐き捨てる。
「ろくな死に方せんぞ」
渉の前だから理性を保っているのか。あの程度の煽りじゃ手出ししないか、と朝霧は残念に思った。
「わ、四月朔日先輩……僕は……」
「聞きとうない。わしはもう行く。二人で勝手に過ごせ」
ふい、と顔を背けて、四月朔日は自分の荷物を取っ掴む。「ヌギ先輩、何怒ってんの?」と玄関前まで駆け寄った渉にさえ目もくれない。
ばたん、と大きな音を立てて扉は閉められた。何だよあの態度、と渉は不貞腐れる。朝霧のこと嫌いすぎだろ。
「なんか、悪いな……。あの人、いつもはあんなふうじゃないんだけど」
「ううん、いいよ。望月くんを取られたくなくて必死なんだよ」
朝霧は優等生らしく先輩をフォローしつつ、テキパキと荷物を整理する。渉は買った部屋着を取り出して、ハサミでタグを切り取った。
楽しいはずのお泊り会は、出だしから不調すぎて、渉は自然とため息を漏らした。
* * *
夕飯はレトルトご飯とお惣菜で済ませ、先にシャワーを浴びて着替えた渉は、リビングに一人寝転んでいた。今は朝霧がシャワーを浴びている。『一緒に入る?』と言われたときは目が飛び出そうになったが、すぐに冗談だと気づいた。ああいう悪戯心がモテる秘訣なんだろうか、と考えなくもない。
渉はスマホに先輩のトーク画面を出して、『そっちはどう?』と送った。一秒後に既読が付いて、『楽しくやっとる!』と返ってくる。渉は画面越しにほくそ笑んだ。なんとか機嫌は直ったみたいだ。
「あんまりイチャつくなよ……っと」
送信したそのとき、
「先輩宛て?」
「うわっ!」
顔のすぐ横で聞こえた声に心臓が縮み上がる。渉の手を離れて宙で踊ったスマホを、朝霧の長い手がキャッチした。
「気配を消すな!」
「消してないよ」とスマホを差し出した朝霧はヘアバンドで髪をまとめていた。洗面所でスキンケアを終わらせたのか、物音ひとつ聞こえなかった。
「四月朔日先輩って、望月果奈先輩と付き合ってるんだ?」
だから弟か、と朝霧は独り言を呟き、納得した表情になる。
先輩とのトークでのやり取り――さっきのメッセージは見られていたか。渉は「誰にも言うなよ」と念を押した。
「俺も直接聞かされたわけじゃないんだから」
「ふーん。匂わせ?」
「まあ……二人を見てればわかるよ」
「へえ。同じだなんて、なんかいいね」
ドライヤー借りていい? と朝霧はヘアバンドを外した。もう興味が移り変わったらしい。よくはねーよ、とひとつ前の感想に反抗心を抱きつつ、渉は使い終わったドライヤーを手渡した。
いつもはセットされている朝霧の長い前髪が、ドライヤーに吹かれて無造作に揺れる。渉はその様子をまじまじと見ながら、感慨に耽った。
中学二年生だった四月朔日先輩は、地方出身の転校生だった。当時はまだ一人暮らしではなく、親戚の家から学校に通う毎日。訛り全開の口調もあって、クラスに溶けこむまで苦労したと思う。
四月朔日は突如渉のクラスに訪れて、こう言った。
『お前……ワタル言うんか? わしとおんなじじゃー! 今日からお前をワタ公と呼ぶぞ! ワタ公!』
二人が、付き合っている、と肯定することはない。だが、否定もしない。姉の果奈が、弟に知られたくないと思っているのかもしれない。だからヌギ先輩も、表立って肯定はしない。
(弟と同じ名前の奴と付き合うか……? って、これ何度も思ったな)
果奈が言い出せずにいる要因がそれかもしれないなと思いながら、渉は、二人が幸せそうならそれでいい、とスマホのトーク画面を閉じた。
「望月くんって……弱いよね」
「……ん? なんて?」
不意に言った朝霧の言葉は、ドライヤーの音に掻き消されて聞き取れず。
朝霧は電源をオフにして、もう少し近くにおいでと手招きした。そして、行儀悪く四つん這いで近づいた渉の耳めがけて、「えいっ」と横から冷風を当てる。
「……っ!」
渉はビクッと両肩を上げて飛び退き、耳を押さえた。朝霧はふふっと愉快そうに笑う。
「やっぱり。耳感じるの?」
「馬鹿かっ!」
勢いよく立ち上がり、朝霧から距離を取る。「顔真っ赤だよ」と言われながら、渉は冷蔵庫から水を取り出し一気飲みした。――中学の頃、響弥に息を吹きかけられて本気で怒ったことはあるが、こんなからかいを受けたのははじめてだ。屈辱的すぎる。
「そんなに隅っこに行かないでくれよ。夜はこれからだよ」
「これからって言ったって何する気だよ、男二人で」
「恋バナでもする?」
「……好きな子いるの?」
「彼女みたいな子はいるよ」
「みたいなってなんだよ」
「望月くんは好きな子いる?」
「……まあ、それなりには」
「キスとかした?」
「キ……って、はあ!?」
いろいろすっ飛ばしすぎだろ! とは思うものの、幼稚園の頃にしたな……と思い出を振り返ってしまうのもまた事実。渉が口をもごつかせている間に、朝霧は使い終わったドライヤーを片付けた。
「望月くんって普段から料理するの? あ、水頂戴」
再び手招きしつつ、朝霧はテーブルの上で伸びる。もう怖いものはなくなったよー、だからおいでー、とその憎たらしい顔に書いてあった。渉は不服そうに新しい水を取り出すと、朝霧に投げてパスした。
「するけど、なんで?」
「手際がよかったからだよ」
夕飯の支度を言っているのだろう。「そ、そう?」と渉は小首を傾げた。褒められると満更でもない顔になってしまう。
「ほかに何か特技ってある? なんでもいいよ」
「なんでもって言われてもな……。そういう朝霧はどうなんだよ」
渉は、徐々に警戒心の薄れた野良猫のように、じわりじわりと朝霧に近づいて、テーブルの前に腰を下ろした。
朝霧は自分のこめかみを人差し指でトントンと指す。
「あー……A組だもんな、頭いいのか」
「ここしかよくないよ」
「そういう謙遜って逆効果だぞ」
「これ以外にいいところある?」
「顔、匂い。あと運動できそうだし、モテるだろ」
「性格は?」
「悪いだろ」
まさかの即答に、朝霧はくっくと含み笑いする。先ほどのドライヤーの一件で、彼を見る目がガラリと変わった。体育館で抱いた好青年やら、か弱いイメージはどこへ行った。こいつかなり性格悪いぞ。
よく言えば子供らしいというか、男子らしいというか。
「ねえ望月くん、僕らにしか通じないヒミツを作らない?」
渉は目を丸めてしばたたかせる。二人だけのヒミツ――?
恋バナだったり特技だったりと、話の吹っかけは最初からこれが目的だったのだろうか。朝霧の積極的な距離の詰め方には驚くが、別に悪い気はしない。
「それって、合言葉とか?」
「んー、例えばハンドサインとか、モールス信号とか……」
「モールス信号!」
渉は大きく反応した。「それ、好き」と賛同する。
「モールス信号わかるの?」
「昔洋画に影響されて覚えた」
「まさかSOSとか言わないよね」
「マジで覚えてるんだって! 本気で覚えたんだから」
短点と長音を組み合わせて表される、符号を用いた伝達方法――モールス信号。主に短点はトン、長音はツーと表現される。SOSの場合は、トントントン、ツーツーツー、トントントン。非常時に使えて、且つ最も覚えやすいことから、モールス信号の基礎中の基礎とも言えよう。
朝霧はスマホを取り出して、ライトをチカチカさせた。これで試そうと言うのか。
「やってみる?」
「いいよ、任せろ」
てか朝霧もわかるのかよ。渉の突っこみは、「じゃあ行くよ」という朝霧の合図に埋もれた。
スマホのライトが点滅する。最初に短点が二回。次に、トンツートントン、ツーツーツー、トントントンツー……、……。
「はい、わかった?」
「…………うん」
「答えは?」
言いたくなかった。だから代わりにため息をつく。
「……モールス信号のわかる彼女にやったら喜ばれるかもな」
「僕の彼女はわからないよ」
「やっぱ彼女いるんだ」
「最近よりを戻したって噂のカップルだよ」
「それどこかで聞いたかも」
ふわぁ、と渉はあくびをした。優等生のジョークに頭を働かせたら眠くなってきた。「もう寝る?」と尋ねる朝霧の声が子守唄のように聞こえる。
「布団敷こうか」
もちろん四月朔日の布団を借りることになるが。渉はうんと頷き、よろよろと立ち上がる。そう言えば、先輩は予備の布団を持っているのだろうか――?
渉の不安も虚しく、家にあった布団の数は、案の定ひとつだけだった。
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