希死念慮
未覚醒の脳に刺激を与えるのは危険です、言動にはくれぐれも注意してくださいと、医者はきつく念を押した。刑事たちは酷く混乱しながらも、顔だけでも見せてほしいと頼み、ベッドの上のネコメと再会する。見れば記憶が戻るかもしれないと、淡い期待を抱いて。
ネコメは麻酔で感覚が鈍いらしく、包帯から覗く片目は寝起きそのもので、緩慢な視線を長海たちに向けた。
酔っ払ったネコメも以前こんな動きをしていたなと、長海の脳裏にネコメの不敵な笑みが蘇る。とろんと潤んだ紅い両目。紅潮した頬。主張が通らず
あの頃の相棒はまだ、眠ったままだ。
綾瀬、灰本、長海の順にネコメはじっとりと視線を送った。彼と目が合ったとき、長海は反射的に顔を伏せてしまった。薬品の臭いと清掃された部屋の爽やかな苦味が、鼻を抜ける。居心地が、悪かった。
「ネコメ」綾瀬が注意深く呼ぶと、ネコメは不思議そうな顔で目線を落とした。「ネコメってのはお前のあだ名で、職業は刑事、あたしたちは同じ班の仲間だ」
綾瀬がそう語りかける間に、長海は耳を塞いで病室を出た。医者、警察、カウンセラー。顔見知りに出くわす前にここを離れる。ネコメと交わす他人行儀な自己紹介に耐えられず、逃げ帰ったと言ってもいいだろう。
向かった先は家ではなく、渕岡花のつてで知った風田の同級生のもと。同じ高校だったというその男は街外れの工場に勤務していて、溶接作業をしながら話した。
「風田はいい奴でしたよ。頭もよくて運動もできて。女子が放っておかなかったですね」
「人間関係はどんなふうでしたか?」
「普通でしたね、広く浅い付き合いをするタイプ。でも嫌な感じはなかったですよ、クラスのお調子者を陰で支えるスポーツマンって感じで」
「神永詠策とエヤミツクルについては何かご存知ですか?」
「神永?」
男は手を止めて、外した溶接ヘルメットからしかめっ面を見せた。
渕岡花によると、風田と詠策は小学校から高校までの仲。エヤミはひとつ年下の、渕岡花の同級生だ。
「知らねえなぁ……いや、知ってはいるけど関わりたくない相手っていうんですかね。風田は気にしてたけど……あいつはいい奴だったから」
「風田慈朗と神永詠策は親友だったと聞きましたが」
「ないない。今で言う陽キャと陰キャっすよ。誰も友達いなかったんじゃないかな……」
次に向かったのは渕岡花の旧友のもと。家電屋に勤める旧友の女は、時間を作って調査に応じてくれた。女は中学が一緒の仲だった。
「風田慈朗と神永詠策、それとエヤミという人物について調査をしています」
長海が問うと、「えっ、何かやったんですか?」と女は間髪入れず反応した。
「慈朗さんは花の元旦那さんって知ってるけど、あとの二人は有名人よ。特に、エヤミ? 変な名前だったからよく覚えてるわ」
「どんな人物でしたか?」
「変な子だったわよ。クラスに一人はいるでしょ。あ、関わりたくないなって子。彼は特別浮いてたわね」
「なぜ浮いていたんでしょう」
女は休憩所のドアを一瞥し、ひとけを気にして声をひそめる。
「詳しくは知らないんだけど、いつの間にかそういう空気ができてたっていうか……。私も避けてました、怖くて……」
怖い? やはり悪友だったという評判は本物らしい。
女は「うちにアルバムありますよ、見ますか?」と自ら話を持ちかけた。長海はもちろん承諾し、彼女の仕事終わりに伺うことを約束した。
その間に訪れた三件目も同じ中学出身である。風田の同級生という運搬ドライバーの男は、高校時代とさして変わらぬ話をした。風田と神永詠策は対照的な人物で、風田は明るく真面目で友達も多かったが、詠策は下ばかり見ている暗い雰囲気の生徒だったという。
「一時期は酷いいじめに遭ってたけど、最終的には明るさみたいなものを見つけたようだよ。物騒な事件が続いてさ、詠策をいじめてたガキ大将が失踪して、仲間のうち一人は自殺だったかな……。あの頃は子供の失踪事件が多かったからねえ。町では神隠しだなんだと騒いでたよ」
「詠策本人が事件に関与していた疑いは?」
「いやぁ、あいつにそんな度胸は……」
男は一度口ごもり、「後輩とつるむようになってからか」と空を見上げてタバコをふかした。
「なんとかツクルっていう学校の有名人と、あいついつの間にかつるんでて、どういう関係だって思ったことはあったね。その頃にはいじめは止んでたと思うなぁ」
渕岡花を含め、彼らの話をまとめるとこうだ。風田は優等生で、詠策は人付き合いの悪い根暗な生徒だった。風田は詠策を気にかけていたが、詠策は後輩のエヤミとつるむようになり、徐々に心の明るい部分を取り戻していった。
だが高校に入って、詠策は再び暗い性格に戻ってしまった。エヤミと離れたことが原因のように思えた。彼にとってエヤミツクルは心の支えだったのだろう。
アルバムを見に家を訪ねる頃には、夜七時を回っていた。長海がインターホンを鳴らすと、手狭な玄関から女の顔が覗く。どうぞ入ってくださいと手招きするその後ろに、古びたダンボールが見えた。
「ごめんなさい、主人がいるので玄関先でいいですか?」
女は前置きして、箱から中学時代のアルバムを取り出す。リビングでは子供の笑い声と、賑やかなテレビ――おそらくバラエティ番組――が流れていた。
アルバムは風田と詠策のひとつ下、渕岡花の年代のものである。彼らの母校は、のどかな山沿いに建つ町外れの中学だ。長海はアルバムを拝借し、卒業写真からエヤミツクルを探した。
出席番号順ならすぐに見つかるはずだと、視線だけで追っていく。渕岡花の写真は二ページ目の、下から二段目の列にあった。まだ悲しみを知らぬ、あどけない少女の笑顔だ。
(エヤミ……エヤミ)
……見当たらない。もう一度。
一学年あたり六クラス編成の卒業生たちを、もう一度もう一度と指で一人ずつ確認する。しかし六ページに及ぶすべての卒業写真のなかに、エヤミツクルは見つからなかった。
「あの、エヤミはいないんでしょうか」
長海が堪らず訊くと、女は「え、いない?」と知らぬ様子でアルバムをめくった。
「あれ? 引っ越したんだっけ……もしかしたらそうだったかも。異常な家庭って噂はあったから……」
「異常な家庭ですか」
「母親が子供をそっちのけで遊んでるような人だったって」
アルバムから得られた情報はそれまでで、結局エヤミについては手がかりなしだった。劣悪な家庭環境で育った子供が凶行に走りやすいというのは、日本のみならず海外でも広く証明されているデータだ。風田は警察官で、詠策は餓死体として発見され、エヤミは今何をしているのだろう。
長海は女に礼を言って、その足で自宅へと帰った。神永詠策については警察も調査を進めているだろう、問題はエヤミツクル。詠策の悪友だというその男が裏で手を引いて、響弥の手助けをしている可能性は十分ある。そして風田班長は――
完全に白とは言い切れなかった。風田と詠策、その息子の響弥、茉結華。どんな関係であれ、繋がっているのは明白である。
(風田さんは神永響弥を……我が子のように思っているんじゃないか?)
長海は玄関で靴を脱ぎ、部屋の明かりをつけてソファーに転がりこむ。頭も身体もくたくただった。
(仮にそうだとして、俺はどうすればいい。風田さんになんて声をかければいい。この程度の証拠で、響弥の……茉結華の協力者と言い切れるのか?)
頭を抱えて身悶えしていると、愛猫のユキが「なーお、なーお」と唸るような声で鳴いた。
「ユキ……?」
ユキの鳴き声は止まない。ソファーの傍らで長海を見上げて、低くこもった鳴き声で訴えかける。体調が悪いときに知らせてくる鳴き方と同じだった。
「どうした」と身体を起こすと、ユキは小走りでキッチンに向かった。餌がないのかと目を凝らしたが、自動給餌器はきちんと作動している。水もある。なら、いったい……。
ユキは冷蔵庫と長海を交互に見る。長海が近づくと、ユキはううぅ……と毛を逆立てて威嚇し、冷蔵庫から距離を取るように後ずさった。
――何か、とてつもなく嫌な予感がする。
長海は腹を決めて、冷蔵庫を覗いた。冷気とともに酸っぱい異臭が顔に吹きかかり、思わず鼻と口を腕で覆う。なかはほとんど空に近く、ビールが数本とつまみのパックが隅にあるだけ……のはずだった。
目が合った。
血の色が透けた、色素の薄い瞳が、丸い眼球が。淡黄色の液体に満ちた瓶のなかに沈んでいた。人間の一部を切り取り、瓶に入れて保管したおぞましい光景――ホルマリン漬け。
「うっ……」
理解が追いつかず立ちつくす長海を、胃の底からせり上がった吐き気と目眩が襲う。足が震え、肩で息をして、死んだように頭から血の気が引いていった。耐えきれず、シンクにうなだれた拍子に嘔吐する。黄色い胃液がびちゃびちゃと音を立てて流れていった。
みゃぁ……と足元で、心配そうにユキが鳴く。しばらくしてやっと口を開くことができた長海は、震える声で呟いた。
「神永響弥……お前を絶対に許さない」
俺はお前を逮捕する。何が何でも辿り着いて、必ずこの手で仕留めてみせる。
奪われたはずの相棒の片目は、意識を取り戻した記念日と言わんばかりに、長海の家に届けられた。眼球は腐敗分解を防止するホルマリン水溶液に浸されていたが、状態は非常に悪く、移植するのはほぼ不可能とのこと。瓶は片目ごと鑑識に回され、犯人逮捕の糸口になるか調査されることとなった。
聴取が終わったのは深夜一時。翌日は、朝から昼まで二度目の事情聴取、自宅は現場検証と指紋採取で捜査員が入り浸り、冷蔵庫は鑑識が丸ごと持っていった。
謹慎中に遠出していた件については、「一人になりたかったんだ」という理由で通した。捜査員は非難せず、「頭を下げれば解いてもらえるだろう、早く戻ってこい」と、疲労の溜まった笑みを浮かべた。
長海は警視庁を出て車に乗り、ハンドルに手を置いてため息を漏らす。一人きりの狭い空間が長海の心を安定させる。
響弥の誤認逮捕とネコメの発見、そして今回のホルマリン漬け。捜査する側の人間であるはずの自分が、この一週間で立て続けに聴取されている。やましいことはないとは言え、まるで犯人の手の上で転がされている気分だ。
――あの贈りものは宣戦布告の証。いいだろう、そっちがその気なら、化けの皮をすべて剥がして丸裸にしてやる。
そんな長海の闘争心を削ぐように、胸の内側でスマートフォンが震えた。画面に表示されているのは、非通知からの着信。
まさか、犯人からのメッセージか。無言電話か、坂折公園でまた事件発生か――、一瞬にして様々な可能性が浮かび上がり、長海は髪の毛が一本一本逆立つのを感じた。
録音機能をオンにして、「はい」と低い声で電話に出る。返ってきた声は、長海を別の意味で緊張させるものだった。
『あっ……、あの……長海さん、ですか?』
聞き慣れたはずの柔らかなテノールが、ひりひりと上擦った調子で耳に入ってくる。
「金古か……?」
『はい、そうです』
「病院の公衆電話か?」
『はい』
「俺の番号は――ほかの刑事から聞いたのか」
『はい、綾瀬さんから……』
「……歩けるのか」
『少しだけ』
長海は無愛想に「そうか」とだけ返し、しばしの沈黙を味わった。まるでかつての恋人と話すような気まずさだった。
ネコメは頭部と左目だけでなく、身体や足にまで暴行を受けた痕跡がある。まだ目覚めたばかりなのだから無理に動き回るなと言いたかったが、そうまでして自分に電話をかける必要があったと?
「用件はなんだ」
いつもの調子で端的な物言いをしてしまう。今のネコメは高校生……気を遣ってやりたいのは山々だが、長海は不器用に接してしまうのだった。
電話越しで、ネコメが小さく息を呑むのが聞こえた。言い方がまずかったかと、長海は内心焦りを見せる。
『……なんでもないです。なんでも』
「遠慮するな」
『いえ、ほんとに……なんでもないんです。すみません』
彼が何について謝っているのかわからなかった。ただ底知れない不安の渦が、長海の胸に押し寄せる。長海はネコメの言葉を待ち、ネコメもまた長海の言葉を待っていた。
『……切らないんですか?』
「お前からかけてきたんだろ。切るなら、お前から切れ」
『……はい』
電話越しでネコメの気配が離れていく。金古、と言いかけて開いた口は、プツッと途切れた回線の音に遮られた。
長海は行き場を失った声を呑みこみ、スマホを離してエンジンをかける。向かった先は、ネコメのいる病院だった。少なくとも、長海の知っている彼は、用がないのに電話してくるような男ではないのだ。
ネコメを信じて協力するだけの間柄は少しずつ変化していき、いつの間にか長海自身も敵を追うようになっている。彼と走り回った捜査期間を、二人で過ごした日々を、分かち合った憂いと喜びと屈辱とを思い出しながら――長海はアクセルを踏みこんだ。
病室の前には警備員が立っており、長海を見て「お疲れ様です!」とキレのある敬礼を交わした。ノックを鳴らしてスライドドアを開ける。風がふわりと吹きこんで、視界の端でレースのカーテンがひらりと舞った。
透けたカーテンの向こう側に、窓枠に膝をつくネコメの姿が見え……、
「――っ!」
長海は病室に踏みこんだ。言葉も思考も一切出てこない。本能のままに身体は動き、ネコメの二の腕を掴んで、
「馬ッ鹿野郎っ!」
喉の奥から怒号が流れ、ネコメを窓から引きずり下ろした。彼の腕を掴めたとき、死んでもこの腕は離さないと誓った。倒れこむネコメを、尻餅をつきながら抱き止める。
「お前は――っ」
死にてえのか、と続けた言葉は声にならず、長海は息を呑んでネコメを見た。
長い睫毛に縁取られた右目がぼろぼろと涙を流している。左目の包帯が真っ赤に染まっている。噛みしめた唇から嗚咽を漏らし、震えていた。
思わず彼の肩を抱く力を緩めると、ネコメは長海に相反して、ジャケットを掴む指先に力を入れてしがみつく。長海の胸にすっぽり収まってしまう彼の身体はこんなにも細いのだと痛感した。
「長海、さん……もっと強く、抱きしめて……っ。俺のこと、強く掴んで離さないで……!」
嗚咽混じりの懇願は、長海に悲哀と困惑を湧き立たせた。ネコメが血の涙を流して何に怯えているのか、長海に知るすべはない。けれどその背景に、彼の心を巣食う死神の影が色濃く浮かび上がって見えた。
騒ぎに気づいた警備員に、医者を呼ぶよう長海は伝える。人が駆けつけるまで長海はネコメを離さなかった。背中に腕を回し、手のひらでそっと撫でる。血と薬品の入り混じった苦い臭いが、ネコメを取り囲んでいた。
綾瀬たちと合流する頃には、ネコメは処置を終えてベッドで眠りについていた。おそらく痛みを和らげる麻酔が切れていたと、医師は言った。包帯を交換して、今は出血も治まっている。
丸椅子に座る長海は、ネコメの前で話すのは気が引けて、病室の外に出た。今のネコメを一人にするわけにはいくまいと、灰本が入れ替わるように着いてくれた。
綾瀬は腕を組み、廊下の壁にもたれかかる。
「前もあったんだよ。捜査中に、肋骨を折って入院したときに……窓から飛び降りやがった」
「どうして……」
「あたしが聞きてえよ。でもそのとき言ったのは……『怪我が治ると思った』ってよ」
長海は、この病室を訪ねた初日に聞いた綾瀬の苦言を思い出した。『なんで六階なんですか』と彼女は言っていた。『あのネコメですよ、せめて二階じゃないと、また……』
あれはネコメの自殺を案じてのことだったのか。
「こいつにとっては死んだほうが楽なんじゃねえの。あたしも信じたくねえけど、こいつはそういう、馬鹿な癖があるんだよ」
何も知らなかった。教えられていない、聞かされていない。いつも飄々としていて何を考えているのかわからないネコメに、そんな過去があったなんて。その悲しみも衝動も、笑顔で塗り潰してきたというのか。
「幸い雪の日で助かったけど、怪我は悪化するし足は折れるし大変だったんだよ」
綾瀬は苦いものを口にする顔で、否定的に首を左右に振る。
「少しの痛みなら耐えられる。けどそれが異常な痛みだと……自分の意志とは関係なく身体が動くんだとよ。死んだら楽になるって。こいつは、死にたがりなんだよ」
死にたがり。
痛みに弱い、死にたがりであると。
まるで一本のロープの上で綱渡りするかのように。ネコメの心のバランスは、刑事の誰よりも危うい状態を保っているのだと、長海は身にしみて感じた。
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