朗報と悲報
スマホの買い替えを進めながら、役所で風田の戸籍を請求する。一日が過ぎ、今日も役所に足を運ぶ。
単独行動は順調だった。ネコメと組んで茉結華を追っているうちに、身内に気づかれぬよう行動するのがうまくなったようだ。街を行き交う捜査車両の死角に潜りこみ、現場となった公園とその近隣には寄らないよう注意する。見られていても、わざわざ苦言を呈する者がいないだけかもしれないが。
ネコメを襲った容疑者探しで捜査本部は大わらわ、身内の失態に目くじらを立てる暇はないのだ。
――自宅謹慎とは言われていない。揚げ足取りでもなんでも、この際、思い切り自由にやらせてもらうとしよう。
開示請求に少々手間取ったが、長海は捜査一課の権限を最大限に活用して、役所で風田
「
長海は、風田の元妻に当たる名を口のなかで呟いた。
婚姻したのは、二十年前の一九九九年。配偶者は渕岡花という、風田よりひとつ年下の女性であった。離婚したのは、その三年後の二〇〇二年。
「三年で離婚……?」
長海が驚いたのは、三年という数字だった。
夫婦がうまく行かなくなる原因は様々だ、価値観の違いはもちろん、経済的な問題も挙げられる。数ヶ月で別れる場合もあれば、還暦を過ぎて別れるいわゆる熟年離婚だってある。夫婦の数だけ事情があり、歴の長さをとやかく言う気は毛頭ない。
だが風田班長は――今でも薬指に指輪を嵌めている。長年外していないと思われる、食いこんだ指輪だ。
それはつまり、三年の結婚生活に終止符を打ってもなお、この十七年間指輪を外さずにいるということではないか。二年前に別れた、と言われたほうがまだ納得がいった。
(今でも班長は奥さんを愛している。三年……三年で何があった……? 十七年間思い続ける相手となぜ別れた?)
十七年前という数字は、神永響弥の生まれ年と一致する。彼は捨て子で、神永分寺に預けられた。茉結華は彼の別名で、双子説はネコメの下調べによって否定されている。神永響弥イコール茉結華は揺るがず、年齢まで一致するとなると――
風田慈朗が、響弥の実の父親……?
長海の内ポケットで、新しいスマホがバイブレーションを響かせる。耳を当てて「お疲れ様です」と言う前に、鼻息荒くした綾瀬の声が明瞭に聞こえた。
『長海、朗報だぞ。
「本当ですか!」
『これから令状を取ってガサ入れする。ネコメ襲撃の疑いもあるからな、釈放日時と照らし合わせて通してやる。高校生同士のトラブルで済ますかよ』
思わず飛び上がった長海は周りの目を気にして身体を縮め、綾瀬の報告を咀嚼した。神永響弥を、正式に逮捕できる。
『お前は間違ってなかった。ネコメが襲われた証拠も出てくるかもな』
綾瀬の弾んだ声は闘志に燃えていた。
長海は電話を終えて安堵に胸を撫で下ろし、しかし喜ぶにはまだ早い……と心を鎮める。むしろここからが勝負だと気を引き締め直して、渕岡花の現住所を調べた。
風田慈朗の元妻、渕岡花は、『しらゆき』という花屋を営んでいた。こぢんまりとした商店街の一角にある、二階建ての民家を店舗に改築した小さな花屋。ガラス張りの店構えから明るい店内の様子が見え、長海は客がいなくなるまで電柱の陰に隠れて待った。
三十代くらいの若い女性店員が一人、老夫婦に笑顔で接している。常連御用達、知る人ぞ知る名店といった雰囲気の、穏やかで温かなやり取りだった。
客が去り、「また来てくださいね」と彼女が外まで手を振って見送る。長海は後ろからそっと近づき、軽い会釈を交わした。
「……渕岡花さんはいらっしゃいますか?」
女性店員はきょとんと目を丸め、「いますよ」と口を大きく笑って答える。彼女に案内されて店に入ろうとし、長海は店頭を飾る風車のような形の白い花々に目を落とした。
みずみずしく咲き乱れ、強い香りを放つ――マツリカという花だった。
「お姉ちゃーん、お客さんだってー」
彼女はただの店員ではなく、渕岡花の十個歳の離れた妹であった。二階へ続く階段に向けて間延びし、「ちょっと待ってくださいね」とその場で長海を待機させる。しばらくすると、とんとんと軽快な足音と一人の女性が下りてきて、「渕岡花さんですか?」と長海は上目遣いで問うた。
女性は、薄暗い階段の半ばで曖昧気味に頷いた。横に流したボブヘアの長い前髪が、さらりと音を立てたように揺れる。
「はじめまして、突然押しかけてすみません。自分は、風田さんの部下の長海と申します。刑事です」
「慈朗の……」
納得といった様子で今度ははっきりと首を縦に振り、彼女は「どうぞ」と二階へ長海を案内した。休憩中だったと見られる明るい座敷に招き入れ、午後のワイドショーが流れるテレビを恥ずかしげに消す。
長海は空いている座布団に腰を下ろし、注がれた熱いお茶をありがたく頂戴した。口にしつつ、切り出し方を思案する。
「花さんは風田さんの元奥さんとお伺いしました。その……どのような結婚生活を送っていたのか、お尋ねしたくて」
渕岡花は、四十代半ばの年相応に洗練された空気をまとう、気品溢れる人だった。店に出ればエプロンを着けなくても店主だとわかるだろう、自立した女性そのものといった凛々しさと華やかさを雰囲気で兼ね備えている。上司の元妻という点を省いても緊張してしまうかもしれない。
正座した膝の上に両手を重ねて、「ああ、ええ」と彼女はにこやかに相槌を打つ。左手薬指に、指輪はなかった。
「普通……でしたよ。慈朗は警察官として日夜働いて、私は実家の花屋を手伝って。何も悪いことなんてなかったですよ」
「風田さんが今でも指輪をしていることはご存知ですか?」
「ええ、知っています」
眉尻を下げて、困ったように彼女は笑う。
「たまに会うんですよ。食事の約束をして、近況報告をするだけですけれど。とっくに離婚したのに、あの人はずっと……」
ずっと、彼女のことを思い続けている。ほかの誰とも結婚せず、指に食いこむほど長く指輪を嵌めている。
「失礼ですが、離婚した理由をお伺いしても?」
「原因なら、私にあるわ。子供に恵まれなかったから……」
ぽつりと漏らした『子供』という言葉に、長海の心臓がどくんと跳ねた。
「それで離婚を?」
「ええ、そんなところです」
彼女は難なく肯定し、お茶をそっと静かに嚥下する。
原因が不妊治療……。だとしても、子供を諦め切るには、渕岡花はあまりにも若すぎるのではないか? 長海は意を決して、その名を口にした。
「茉結華というお子さんはいらっしゃいませんか?」
気品溢れる目の前の女性の両目が、大きく見開かれる。それは喉を痛めてコホッコホッとお茶でむせるくらいの慌てようだった。彼女は濡れた口元を手のひらで隠し、
「どうして、茉結華のことを?」
その名が出るのは、まったくの予想外だったようだ。長海とて、彼女がこんなに虚を衝かれるとは思ってもみなかった。
「お二人の、子供の名前だと」
「……そう。そんなことまで……」
彼女の目尻に、しずくが浮かんで見えた。落ちるのをこらえるよう、天井を見上げて唇を噛む。
渕岡花は『茉結華』の存在について独白した、「死産、でした」と。
「死産、でした。もともと子供に恵まれず、ようやくできた子が茉結華でした。病院のベッドで……私はもう、子供ができない身体になったと聞きました。あの人はそれでもいいと言ってくれた……。でも……慈朗には、あの人には幸せになってほしかったから」
だから、別れました、と。告白する間にほろほろと落ちた涙を、彼女は頬に擦りつけるように手のひらで拭った。
深く息をついて「ごめんなさい」と、彼女は誰にともなく呟き、祈るように指を組んだ。
店を出る前に、長海は「知り合いに神永という人はいましたか?」と、彼女に最後の質問を投げかけた。渕岡花は泣き腫らした赤い目で「エイちゃん?」と。
神永響弥の父、神永
翌日、朝から綾瀬の連絡を聞いて、長海は病院へと駆けつけた。ネコメの意識が戻ったとの知らせだった。
綾瀬と灰本と病室前で落ち合い、長海はバシッと背中を派手に叩かれる。
「何しけたツラしてんだ」
「来ていいものかと……」
「相棒だろ」
ネコメを助けることもできず、まんまと敵の罠に嵌った自分が、まだ相棒を名乗れるだろうか。運びこまれてから四日……これを短いと取るか、長いと取るか。目を覚ました相棒に、なんて声をかければいいのか。
深呼吸をしてスライドドアを開けると、ベッドに横たわったまま医者と話すネコメの、包帯に覆われた横顔が見えた。だがすぐさま視界は白く遮られて、
「すみません、今は診察中で……」
三人の刑事は看護師によって入室を止められ、仕方がなく退散した。灰本は病室前に残り、長海は綾瀬に呼ばれて自販機に向かう。
「落ち着いて聞けよ、黒だった」
缶コーヒーを買って、綾瀬は声のボリュームを下げる。
「昨日のガサ入れだよ、まだメディアには嗅ぎつけられてないが、……死体が出た」
「……それは」
「神永詠策――神永響弥の父親だ」
は? と喉から自然と否定的な声が漏れそうになった。二日続けて、神永詠策……その名を聞くとは思わなかった。生きている頃ではなく、たった一日で死の話が舞いこむ。
「遺体は死後半年ほどだが、不気味なほど状態がいい。餓死させたあと、地下で冷凍保存してやがった」
「地下?」
「ネコメを拷問したのもおそらくそこだ。部屋と階段を繋ぐ通路、ここはまだそんなに寒くない。問題の部屋は、あれはまるで業務用倉庫だな。奥に行くほど凍えるような冷気で、遺体は檻のなかにあった。大型犬用の頑丈な檻のなかに……傷ひとつねえ、丸ごとだ」
身も凍るような冷酷な真実に言葉を失う。指先が急激に冷えて、コーヒーを飲もうと蓋を開けるはずが痺れて持ち上がらなかった。ホットにすればよかったと後悔する。
「なぜ、そんな……」
「知るか」
綾瀬は投げやりに答えた。
「そんなの、本人とっ捕まえて聞くしかねえだろ」
「俺が行って開かなかった部屋は? 洗面所です」
「それな、床が真新しくなってた」
「血が付いたからか……」
「おそらくな」
ネコメの頭部を殴りつけた際に付着した血だ。十七歳の高校生が、ここまで用意周到に立ち回れるとは到底信じられない。
綾瀬は考えて、「間違いねえ、協力者がいる」と続けた。「はい」と長海は力強く肯定する。
「響弥のほかに誰かが住んでた痕跡がある」
「彼は今どこに?」
「帰ってきてねえ。学校には休学届が出てた。逃がすかよ」
缶コーヒーを飲み干して病室前に戻ると、ちょうど診察が終わったらしい医師たちが扉を開けて出てきた。泳ぐ視線、静かなため息、その表情を見て、刑事たちは悪い知らせだと瞬時に察する。
「意識は戻りました。しかし――」
記憶障害が……と、医師は濁しながら言った。
診察中、ネコメは年齢を訊かれて「十六歳です」と答えたそうだ。事件のことをまるで憶えていないどころか、この十年間の記憶がすっぽり抜け落ちている。
今のネコメは、高校生の金古
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