第十二話
相棒
昨夜のできごとは嘘だったんじゃないか。幻で、悪夢で、すべて『なかった』のではないか。
『ネコメの容態は聞きましたか? 事情も詳しく聞きたいので、今から病院に来いと……来てもいい、とのことです』
壊れたスマホが発する灰本の声は聞き取りづらく、ぷつぷつと途切れていた。
長海は「わかった」と言い、電話を切る。機械的な声だった。謹慎中にも関わらず、すでに出かける準備はできている。ユキの餌を補充し、一人きりの家を出た。
視界がぼやぼやと歪んで見え、心は宙を彷徨い、地に足がついていない。それでもハンドルを握り、悪夢の街を駆け抜ける。
時刻は午前十時半。朝の捜査会議を終えた頃だ。病院へ向かい、その途中で第一発見者の長海を呼び出す流れになったのだろう。
病院に到着すると、眼鏡をかけた同期――灰本刑事が受付まで迎えに来た。視線で挨拶を交わして、足早にエレベーターへと乗りこむ。
同期は珍しく寡黙だった。彼お得意の軽口も、余計な一言も一切なく、ネコメの入院する階に着く。廊下から女性の、
「なんで六階なんですか、班長! あのネコメですよ、せめて二階じゃないと、また……」
綾瀬は
灰本がスライドドアを開け、長海は吸いこまれるように入室する。
個室の中心。ベッドに横たわるネコメを見た。手術を終えた入院着姿で、彼は目を閉じていた。
顔半分を覆う酸素マスクが、白く曇っては波のように引いていく。点滴と電極とバイタル。いくつもの管が、彼の手と指先と胴体に繋がっていた。
左目は包帯で厚く覆われ、状態を確認できない。灰本に「片目が」と言われるまで、長海は発見から今に至るまでずっと、治るものだと思っていた。
「片目が、取られていたと」
霞んでいた思考が、はっきりと色を取り戻し、霧を晴らして長海の顔に薄暗い影を落とす。ぶるり、と一瞬身体が震え、顎先に力が入った。鼻根が痙攣し、見開かれた目の焦点がネコメではないどこかに集中する。瞬きひとつしなかった。
爪先から額まで衝動が駆け巡る。知りたくもない、怒りを超越した殺意だった。
「暴れないでくださいよ」
灰本が長海の顔色に釘を刺すが、それを皮切りに長海は踵を返す。扉の前ですれ違った綾瀬は、「待て待て待て、待てって!」と長海の腕を掴んで止めた。思わず振り払おうとして、寸前で抑える。
「どこ行く気だよ。お前にも事情を聞けって、言われてんだよ」
「俺は謹慎中の身です。離してください」
「気持ちはわか――」
「わかりませんよ」
長海はぴしゃりと言い切って振り向き、血走った目を向けた。
「わからないですよ、誰にも」
うろたえるように綾瀬の瞳が揺れる。そしてぐっと息を呑み、「……お前……」と言葉を絞り出した。
「目ぇ、覚ませよ……お前がそんなんでどうすんだよ。鏡見ろ……! それは、刑事のツラじゃねえ!」
綾瀬は長海の腕を握り、目に薄っすらと涙の膜を張って言い募る。病室を出た灰本も、綾瀬の言葉に賛同するようにまっすぐ長海を見つめた。
長海はゆっくりと、窓に反射する己の顔を振り返る。そこにあったのは殺意に取り憑かれて暴走寸前の、黒く塗り潰された般若のような、目も当てられないほど哀れな男の顔だった。
「怒りも悲しみも同じですよ、長海。自分も、綾瀬さんも。これ以上ないくらい怒りを覚えています。だからこそ落ち着かなきゃいけない、そうでしょう?」
「……。ああ……」
同期の言葉に、身体の力が抜けていく。
長海たちは同じ班の仲間だ。仲間が一人、意識不明の重体で見つかって、綾瀬も灰本もこらえきれない怒りを腹の底に抱いている。
熱くなりやすい長海を、いつも抑えるのはネコメだった。彼のいない今は、班の仲間が自分をセーブしてくれる。
「話を、落ち着いた場所でしましょう。担当は自分たちです。昨夜の状況をもう一度」
淡々と言って、「長海の意見を聞かせてください」と灰本は続ける。
ネコメを発見したときの経緯と状況は、すでに一度聴取を受けていた。夜遅くだったこともあり、謹慎中の長海は一度家に帰れたが、綾瀬と灰本は寝ずの働き詰めだろう。
綾瀬は長海の腕を解放し、「行くぞ」と二人を置いてエレベーターに向かう。別の階の談話室に移る三人の様子を、風田は遠巻きに眺めていた。
病院には長海たちのほかに警察幹部の姿もあった。本庁刑事部長、捜査管理官、係長。ネコメの意識を奪った犯人を、警察は総出で追っている。
三人は座って話せる場所に腰を下ろし、話し合いを進めた。
「無言電話が、かかってきたんだ」
「それ、壊れたって聞きましたが」
「ああ……電話だけできる。が、ノイズが酷い」
「今のうちに買い替えとけよ」
今のうちというのは謹慎中という意味だろうが、綾瀬はそこまで皮肉屋ではない。単に長海の状態を案じて言ったことだ。長海は「はい……」と、重々しく首肯する。
鑑識課が丸一日を費やしても、長海のスマホが完全に直ることはなかった。ファイルは破損していて空っぽ。一番重要なビデオ電話のデータは跡形もなく消えていた。
電話帳もところどころ抜けてボロボロだが、ネコメの――『あいつ』の連絡先は生きていた。
「んで……その相手が
「そうとしか思えません」
「釈放されてすぐだもんな……タイミングがよすぎて、あたしは逆に違うんじゃないかって疑っちまうが」
長海は、テーブルの下で拳を握った。もしも響弥の犯行だったら――その『もしも』を長海は疑う余地なく感じている。
――奴の
誤認逮捕で釈放された響弥の振る舞いを。あの孤独感と行き場のない感情の渦を、肌で覚えている。
人畜無害な顔で被害者ぶり、長海を追い詰めたように。奴は警察を嘲笑い、弄んでいるのだ。
「自分は取り調べにはいなかったので、彼の様子も人間性も掴めませんが、一度調べてみる必要はあるかと。学校の成績や授業態度を含めて捜査してみましょう。今ならテスト期間で、教師も時間を空けやすいです」
「だな……。一度逃してるんだ、本人に聞くのは難しいだろうな」
「外堀から埋めていくしかないですね」
「ああ、決定的な証拠がないと動けない」
捜査方針を固めて、ふと綾瀬は息を詰めた。そして「悪かった」と、頭を下げた。
「お前のこと、信じてやれなくて悪かった。お前とネコメが必死にやってた証拠集めを、今あたしらがやろうとしてる。同じ立場になって――仲間がやられて気づくなんて、駄目だな……」
綾瀬は自嘲気味に、瞼を閉じる。長海は彼女の後悔を否定せず、正面から受け止めた。
「俺とあいつで、二人で決めたことです」
批判されても仕方のないことだとわかっている。その原因を作ったのは神永響弥……彼の手のひらで、長海も綾瀬も踊らされていたのだ。
「水くさいですよ。同じ班の仲間なのに頼ってくれないなんて。ね、綾瀬さん」
相棒の励ましに綾瀬は顔を上げ、神妙な面持ちで「ああ」と頷いた。
「あたしらも協力する。お前はまだ動けないだろうからな、あたしらが足になるよ」
「神永響弥の異常性が認められれば、長海の謹慎も解けるはずです」
長海は唇を噛み、お辞儀するかのようにうつむいた。
綾瀬と灰本に動いてもらうのは助かる。ありがたいことでもある。だがこの胸のしこりは、相棒がやられてもなお動けない自分への苛立ちだった。長海は響弥に、手出しできない。
「二人は雑誌記者の他殺も疑ってましたね。あのときも、かかってきたのは無言電話です」
「同じ手口……ますます怪しいな。自分が犯人だって言ってるようなものだろ? 単なる馬鹿か、それともわざとか」
「どちらにしろですね」
「学校に行って聞くしかねえな。証言で一番早いのは、ネコメの意識が戻ったときと、拉致被害者のめぐみさんが頼りだ」
「ほかの捜査員は
長海が坂折公園に駆けつけたとき、発信元のネコメのスマホはすでになかった。あのスマホには長海のものと同様、響弥と
持ち去られたのは悪用するためではなく、完全にこの世から消すため。今頃はスクラップになっているだろう。辿り着くのは困難だ。
綾瀬は周囲に目を配り、三人だけに聞こえるような声で「なあ」と。
「お前らが追ってた奴に、マユカっていたな。字わかるか?」
何か心当たりがあるのか。問うよりも先に、長海は手帳を広げてボールペンを走らせた。
「マツリカの茉に……結ぶに、華やか。これで茉結華だと聞きました」
「誰に聞いた?」
「ネ……
綾瀬は天を仰ぎ、はあ……と肩で息をする。ネコメがどうやってその名を入手したかは長海とて不明である。が、問題はそこではなかった。
「綾瀬さんは彼について何か知ってるんですか?」
「……あたしが知ってるのは、彼じゃなくて彼女だ。偶然とは言え、字まで一致してるとはな」
「どういうことですか?」
長海は思わず身を乗り出し、眉間にしわを寄せる。綾瀬は再びため息をついた。
「誰にも言うなよ」
灰本は長海を一瞥し、同時に頷く。班内で、綾瀬だけが知っている話だった。
「班長が……バツイチだってのは聞いてるよな。その前の奥さんとの間にできた子が『茉結華』って名前で。女の子だって聞いた」
「班長の子供……?」
綾瀬は否定的に首を振り、
「偶然だ、こんな話……。でもお前らが――長海とネコメが取調室で話してるとき、名前を聞いて、まさかなって驚いた」
マユカという名前。漢字の一致。性別の不一致。響弥と茉結華……。
駄目だ、長海はかぶりを振った。手がかりが少なすぎる。こんなデリケートな話題を、班長に直接聞くわけにもいかない。
偶然の一致。偶然の……。本当に、偶然にしてしまっていいのだろうか。
長海は内ポケットの、電話のみが許されたスマホに指先で触れた。綾瀬とフォルダを探しているときは、問題なく使えていたスマートフォン。壊れる前、最後にこの携帯に触れたのは、風田班長だ。
班長が証拠を潰した? 自分の子供を守るために?
ありえない、と一蹴したい。上司を疑うなんてどうかしている。誰よりも頼りになる、風田班長を疑うなど。
だが。
この不信感は、見過ごせない。ネコメならきっと疑う。相手を疑い、自分自身を疑いながら、『何もなかった安心感』を得るために徹底するだろう。白だと言い切るための捜査だ。
長海は、謹慎中に行うべき自分の役目と、決意を固めた。
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