二年E組

 約束は、必ず果たさなければならない。そうでなければ、ただ相手を縛り付け、振り回すだけの毒となる。

 責任感の強い凛はそんなふうに考えていた。交わしたからには果たすべき。成し遂げなければ意味がない、と。


 ちょうど渉と響弥がC組に行っている頃だ。凛は急ぎ足でE組へ向かい、前方のドアから教室内を覗き見た。だが目視できたのは、人、人、人。女子生徒たちの後ろ姿ばかり。凛の視界は自分よりも背の高い人集りに遮られ、用がある芽亜凛の姿は確認できなかった。この中心に、彼女がいるはずなのに……。


 芽亜凛と校内案内を約束したのは、一限目がはじまる前だった。

『よろしくね橘さん。私、委員長の凛です』

 そう言って握手を交わして、名前をノートに書いてみせた。『凛』という字が、芽亜凛のものと同じことから、二人は自然と意気投合して、流れるように校内案内の予定を立てたのだ。

 しかし休み時間に入ってすぐ、凛は先生に頼まれて職員室へと呼び出されてしまった。芽亜凛にはすぐに戻ると告げたけれど、彼女の人気ぶりは予想の域を超えているらしい。


 凛はそんな約束事を思い返しながら、人集りのなかを前進した。


「ごめんねーちょっと通して、ちょっと通してー!」


 もぞもぞと押し退けていく女子たちに潰されながら、凛は隙間を掻い潜った。何このチビ、とでも言いたげな迷惑そうな目で見下される。視線が痛い。圧が苦しい。それでも凛は前を進んだ。水を差すようで悪いとは思っているが、この人集りを解消するためにも自分が動かなくては。

 人混みを掻き分け掻き分け、凛はようやく中心に辿り着くことができた。ぶはっと息を吐き顔を出せば、そこには人形みたいに姿勢よく椅子に座って、こちらを見つめる芽亜凛の姿が。


 芽亜凛の大きな瞳は、研ぎ澄まされたアメジストのようだ。決して鋭くはないのに力強さを感じる、精悍な瞳。柔らかで、涼しくて、奥ゆかしく、どこか芯のある眼差し……。

 気づけば凛の思考は停止していた。芽亜凛のその端正な美貌に、つい見惚れていた。凛を現実に引き戻したのは、背中に感じた強い衝撃。


「あっ、と……と、」


 ドンと後ろから押し出され、凛の意識は二年E組の中心部に回帰する。見渡した周りから与えられるのは、沈黙という名の圧。熱。嫌悪の視線。


「えっと……ごめん、みんな、そのぉ……」


 凛の口は無鉄砲にも自然と開いていたが、もごつく言葉と同様に内心すごく焦っていた。正直何の策も考えていなかったし、ストレートにみんな帰ってくださいなんて言えない。空気読んでよ、と小声が聞こえるこの状況で、いったいどうやって連れ出せばいいのか……。

 逡巡する凛の視界の端で、物腰穏やかな影がスッと縦に伸びた。立ち上がったのはほかの誰でもない、梅雨の転校生こと芽亜凛だった。


「みなさん、ごめんなさい。私、百井さんと先に約束をしていたの。申し訳ないのだけれど、道を開けてくれない……?」


 彼女の表情のわかりづらさを形成する前髪の隙間から、八の字に垂れた形のいい眉が見えた。自分に構ってくれるのは嬉しいのだけれど、凛との約束があるからと。芽亜凛は精一杯の気持ちをこめて頭を下げる。凛も弾かれたようにして腰を折った。


 途端、頭上に注がれる視線も熱量も、一瞬にして和らいだ。


「なーんだそっかー、ごめんね」

「それなら仕方ないかぁ」

「うん、帰ろ帰ろ」

「またね橘さん!」


 降ってきたのは、明るく口々に告げる女子たちの声……。凛が頭を上げたときには、彼女らは蟻の行列を成して教室を出ていった。たちまちのうちに足元に、失っていたフローリングの色が広がる。

 入れ替わるようにしてE組の男子たちが教室に入り、やっと座れるよー、などと小言を呟きながら、バラバラになった机と椅子を整頓する。芽亜凛に一言かけたくて廊下に集っていた他クラスの野次馬たちも、空気を読んで解散していった。


 転校生目当ての質問コーナーは、芽亜凛本人の手によって、呆気なく収まったのだ。

 凛はパチンと両手を合わせて、「ごめんなさい!」と身を縮める。


「遅くなっちゃったよね……ごめんなさい。それから、ありがとう。庇ってくれたんだよね、助かったよ……」

「いえ、百井さんのことずっと待ってたから」


 約束を破ったことを怒る素振りもなく、芽亜凛は照れくさそうに柔和な笑みを見せた。この昼休みを経て芽亜凛に名前を覚えられた子は、いったいどれくらいいるのだろう。凛は不意に、そんな不毛な疑問を抱いた。そして自分がその内の一人であることに、いや、昼休みになる前から覚えられていることに、浅ましい喜びと優越感が花開く。

 同時に、強い罪悪感に駆られた。今だって解決したのも全部芽亜凛のおかげじゃないか。彼女はずっと凛を待っていてくれたのに。――ああ、私の馬鹿馬鹿。


「本当、ごめんね……時間があったら今すぐにでも案内したいんだけど、ちょっと足りないよね……」

「大丈夫よ、また放課後でも」


 どこまでも優しい芽亜凛の気配りに、凛は心底負い目を感じた。もっと時間配分がうまくできていれば、最初から放課後に約束をしていれば、彼女の時間を奪うことも待たせることもなかっただろう。


 けれど。


「ごめんね、でもひとつだけ、話さなくちゃならないことがあって……その、伝えといてほしいって、先生に言われちゃってね」


 それはどうしても言っておかなければならない事情だった。できるだけ早く、今日中に、必ず。

 傍から見れば異常な。しかしクラスにおける、マナーのようなもの。E組にはそういう、規則があった。


 人が戻りつつある教室で話すのはためらわれるため、凛は廊下の踊り場へと芽亜凛を連れ出した。薄暗い廊下に立つと、芽亜凛の肌色はよりいっそう白みを放つ。彼女は終始不思議そうな顔をしていたが、何も問わずに付いてきてくれた。

 凛は芽亜凛と向かい合い、どこから切り出そうかと口を開閉する。


「話ってのはね……うちの学校の、二年E組についてなんだ。昔からある古い伝承っていうか、学校の怪談っていうか……本当、馬鹿みたいな話なんだけど――」


 凛は顎に指を当てて、首をうんうんひねりながら続ける。

 これから話すことは、ほぼ都市伝説に近いものだ。だがいまだにこうして注意喚起がされている、歴史的に危険性をはらんだ代物。

 凛は深呼吸を一度して、改まった様子で口にした。


「の――呪い人、っていう災厄があるの」


    * * *


「ノロイビト? なんだよそれ」


 突如わけのわからない話題を繰り出した親友に疑問を持ち、渉は反射的に聞き返した。隣で焼きそばパンを頬張っていた響弥は、「ええーっ!?」と驚きを見せる。


「渉……E組のくせに知らないのか?」

「知らない。都市伝説か何か? なんか古風な響きだな」


 ノロイビト――漢字で書くと呪いの人か。そんな、さも日常的な口調で、『呪い人の調子はどうだ?』なんてメジャージャンルのように訊かれてもな……。噂話に疎い渉は初耳であった。

 どうせ教室にはふたりしかいないのだ。どんな話をしていても笑う者はいないだろう。響弥はわざとらしく咳払いをして話を続けた。


「昔々、藤ヶ咲北高校二年E組で次々に人が死ぬ怪奇現象が起きた。亡くなった人はみな特定の生徒と関わりのある人物だった。世はまさに暗黒時代! 藤ヶ咲北高校の黒の歴史! ってのがノロイビト」

「うん、日本語で話してくれ」


 急に立ち上がりブロードウェイをはじめた親友に、渉は冷たい反応を示す。響弥は動きをピタリとやめて、「だーかーらー」と間延びした。


「災厄っつーか祟りみたいな? そいつと関わったら不幸が訪れるっていう話だよ。その反応だと何もないみたいだな」

「あるわけないだろ。この二ヶ月、みんなぴんぴんしてるよ」


 もしかしたら響弥は、転校生が来たことでこの話を思い出したのかもしれない。もう六月だというのに、今さらすぎるというものだ。

 クラスのみんなは知っているのだろうか。高校生になってまで――そんな怪談話を。


「じゃあ今年もなしかあ」

「漫画やアニメならありそうな話だな。って、って?」


 聞き捨てならない補足を指摘すると、響弥は眉尻を下げて言った。


「もう十年ないんだってさ、その呪い人ってやつ。ほら、俺んち寺だからさ。よく聞かされるんだよ、そういう話」


 バタバタ、バタバタと。遠くのほうで足音が近付いてくるような、遠ざかっていくような、救急車のサイレンを思わせる気配がちらつく。廊下を行き来する生徒は増えているが、まだ教室には戻ってこない。

 渉は納得し、軽く顎を引いた。実家が寺で跡取り息子の響弥は、そういうオカルティックな話でさえ聞かされているのだろう。クラスが違っていようと渉以上に詳しいのには納得が行くし、響弥らしいことだ。


「俺がE組だったら、共に恐怖を味わえたと言うのに……」


 響弥は食べ終わったパンの袋をゴミ箱に捨てて、残念そうに肩をすくめる。


「えっ、信じてるの? お前、そんなことを? ……小学生かよ」

「小学生とはなんだ小学生とは! んなこと言ってると呪っちゃうぞぉ?」

「バーカ。呪いなんてあるわけないだろ」


 と言うか俺は幽霊さえも信じてない。いるわけないし、あるわけない。そこまで言い切ってやろうかと思ったが、渉の現実主義者リアリストぶりは響弥も承知の上。今さら否定したところでコップ一杯分にも響かないだろう。

 だが、そう口走ってから、ふと渉の頭をよぎった『可能性』が、ひとつだけあった。


 もしも。

 もしも――


「……あの転校生が呪い人だったら……」

「え?」

「っ――いや、なんでもない」


 渉は頭を左右に振って自分の考えを打ち消す。そんなこと、あるはずない。

 ――ない。ないない、あるはずない。


    * * *


「そう。そんな歴史があったの……」


 呪い人――ノロイビト。

 二年E組に現れると言われる怪奇な存在。その生徒の周りでは必ず不幸が起きるという、藤ヶ咲北高校の奇妙な伝承。呪い人の存在は災難に見舞われてからしか認知することはできない。

 しかし内容としては酷く曖昧で、どこかありふれた話だ。現に凛も信じていない。どころかE組の誰も、信じちゃいないだろう。

 凛は話し終えてから、「安心して!」と両手を振った。


「もう六月だし、この二ヶ月間そういうことは起きてないから。何よりもう十年も前の話だしね。先生も心配しすぎだよね」


 せっかくの転校初日にこんな妙な話を聞かされて、芽亜凛が不気味がらないか心配だった。委員長として、クラスメートとして、学校生活は楽しんでもらいたい。藤北に来たことを後悔してほしくない。怖がらせたくない。


「でも警戒されているんでしょう……?」

「まあね。でも最近じゃ知らない人のほうが多いと思うよ。二年E組にならないと話題にはならないだろうし、先生らもあんまり話したがらないから……」


 二年E組の生徒は四月にこの話を聞かされる。最初は気味悪がっていたクラスメートも、今じゃ快活な日常を送っているし、呪い人のことなど忘れてしまっているだろう。

 芽亜凛に伝えるかどうかは相当悩まれたようだ。六月になっても何も起きていない以上、無駄な恐怖を与えてしまうだけではないかと。


 凛は空笑いをして、「ごめんね、変な話しちゃって。大丈夫、私も信じてないから!」と続けた。

 こんな話、すれば笑われるだろうと思っていた。でも目の前の美しき少女は、真剣な顔つきを維持している。笑える話ではない、と言いたげに。

 そして、わずかに目を伏せて、芽亜凛はぽつりと呟いた。


「百井さんは、私がその……呪い人かも――って思わない?」


 呪い、の部分で窓の外に真っ白な光が走った。共鳴するかのように大きく唸る灰色の空。廊下の蛍光が、チカチカと震える。

 凛は『え?』と小首を傾げた。目をぱちくりと開いて……。


 次の瞬間には、花のような笑顔を咲かせて言うのだった。


「まっさかぁー! 思わないよ――!」

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