白い傷跡
時刻は二十時となり、夏の空はようやく暗がりを作っていた。
渉は、風呂上がりのミネラルウォーターを片手に、自室でノートと向かい合う。テスト期間を終えた今、それは勉強でも課題でもなかった。
今まで起きた事件や、虹成から聞いた朝霧のこと。千里のこと、メールのこと。そして、裏サイトのこと――ノートにはそれらの要点が箇条書きにされている。
(管理人……管理人か)
渉は『管理人』と書かれた文字に目を留めた。物思いに耽る時間だ。まずは今日聞いた、管理人が犯人説についてから――
(サイトを運営していたのは朝霧。でも今は違う。管理人の名前は変えられていて、ヨカナギ……だっけ。こいつが朝霧を殺した犯人……。殺して、乗っ取った……)
そこまで考えて、渉は傍らに置いてあるスマホを手に取り、裏サイトのページを開いた。あのメッセージを開く。
(渉くんに会いたい……M……M……)
ヨカナギとイニシャルM。
個人情報が見れるのなら、ヨカナギには非表示項目である何年何組というクラスも、本名もわかる。
思い返せば渉は、サイトに登録する際の承認手続きがなかった。まるで、ずっと前から知られていたかのように――イニシャルMと同じく、ヨカナギにも知られていた? そこから導き出せる答えは――
(ヨカナギがイニシャルMとして書き込みを行なっていた……? M……、Mってのは――)
次に見たのは千里とのトーク画面。何かあったときのためと思い、結局ブロックはしていなかった。最後のメッセージはあの日のまま、新しい連絡はない。羅列する名前と『見てくれた?』の文字。画面を見ていると気が変になりそうだ。
現裏サイトの管理人と、イニシャルM。千里のアカウントでメールをしてきた殺人鬼。三つをノートに書いて、線で繋ぐ。
(犯人は裏サイトとちーちゃんのトークアカウントを乗っ取った、このヨカナギって奴。Mはヨカナギ自身か、それともまた別の誰か……。俺のことを知っていて、暗号文を送ってくるような奴だ、繋がりはある気がする)
渉の思考に沿って、ノートに円や疑問符が書き込まれていく。
――現実で人が亡くなっている。殺した上で乗っ取りを行い、こんなふざけた真似をしている。呪いなんかじゃない。オカルトなんかじゃない。
こんなものは、オカルトもどきだ。
渉はペンを置いて、水を一口飲んだ。
他人になりすましている狂った殺人鬼――Mの正体は何であれ、サイトのメッセージには返信しなくて正解だった。送信の日時表示がないのも、
渉はふと、部屋に掛けられた学生鞄に付いている犬のストラップに目をやった。今日ゲームセンターで、響弥が取ってくれたものだ。
一日一緒にいたけれど、芽亜凛のことは最後まで訊けなかった。彼女がなぜ響弥を襲ったのか。その憎しみはいつから向けられていたものなのか。
響弥は気づいていたはずだ。自覚がないというのは真っ赤な嘘で、芽亜凛は本性を表していたはずだ。二人きりの時は態度が違うだなんて予想は大外れ。そんなまさかはなかったんだと、今日改めて気づかされた。
だがしかし、わからない。どうしてあそこまで嫌い、嫌われているのか。
渉はペットボトルを置き、ノートに『告白』『体育』『保健室』と書いた。何かあるとすればこの期間――転校初日から次の日までの間である。
凛が疑問を抱いていたように、あの包帯が芽亜凛の手当という可能性はきわめて低い。それを踏まえるならやはり、転校初日の初顔合わせの時に得た怨恨か。それとももっと別の――?
「はあー、わっかんね……」
独り言を呟き、椅子に深く座り直した。
いっそのこと本人に訊いてみるのが一番手っ取り早い気もするが、渉に足りないのはそれである。
芽亜凛に対するコミュニケーション。どうせまた拒絶されるだろうという、諦めの気持ち。虹成とはうまくできたのに、芽亜凛に対してはずっと変われないで、立ち止まったままだ。
推理だけじゃ終わりは来ない。正義感だけじゃ繋がらない。
小坂めぐみから凛を守った時のように――今度は芽亜凛から、響弥を守る。
響弥が彼女から目を逸らし誤魔化し続けるのであれば、渉がやるしかないのだ。それが親友として、渉ができることである。
明日を思うと気が重いなと感じたそのとき、スマホのバイブレーションが鳴った。手に取って確認するそれは、響弥からの着信である。電話なんて珍しいなと思い、渉はすぐに出た。
「響弥、どうした?」
その問いを遮断するかのように聞こえてきたのは風の音。
『……わた、る…………』
「……何? どうした?」
電話の向こう側で、響弥は息を切らしている。
『今……家の前、いんだけどさ……』
「うん、すぐ行く。……何か忘れ物?」
『……うん……忘れ物』
か細い返事をし、親友はどこか笑って答えた。
渉はタオルを首に掛けたまま、急いで玄関へと向かう。その間も受話器からは、不安定な息遣いが聞こえていた。
サンダルを履いて、外へ出る。響弥のいる位置は、彼の持つスマホの反射ですぐにわかった。
塀にもたれ掛かっていた響弥は眼鏡を掛けており、いつものコンタクトレンズではないオフの姿であった。渉と目が合い、ひらりと手を振る。
「よお、ダーリン……待ってたぜ」
「……響、弥……?」
渉はスマホをゆっくりと下ろした。
振られている響弥の手のひらは、相変わらず包帯が巻かれており――血で汚れていた。
響弥は膝をがくりと折る。
「響弥――っ!」
倒れ込む直前に渉は飛び出し、親友の身体を抱き止める。
「し、し……しっかりしろ……! なんで、こんな……」
回した手に湿った感触が走る。そっと見た片手には、血がべったりと付着していた。
「あはは……それが、よくわかんなくて……」
薄笑いを浮かべる親友を抱えながら、渉は首に巻いたタオルを取って何重かに折った。本当は綺麗な状態がいいのだけれど、そうは言っていられず、出血している響弥の背に強く押し当てる。
「痛い……渉……、痛い……」
渉は響弥を片手で支えながら救急車を呼んだ。その間も響弥は低くぼやき続ける。痛いよ渉、痛いよ、と。
救急車を呼び終わり、今度は別の連絡先をタップする。コールが掛かって相手が出ると、渉は冷静さの欠いた声を上げた。
「あ、姉貴! 家の前、すぐ来てくれ! きょ、響弥が……響弥が大変なんだ……! ……助けて……っ」
電話先の姉の
「渉の姉ちゃん……医療系だっけ……。すげえな……二人して、人助けか……」
「ああそうだよ。だから安心しろ、大丈夫だ」
渉は響弥の肩を抱く手に力を込める。まもなくして果奈が、タオルと救急箱を持って玄関から顔を出した。
「姉貴、こっちだ!」
傷口を地面に付けまいと支え続け、渉は顔だけ向けて果奈を呼んだ。果奈は渉の向かい側に移動し、状況を目視で整理する。
「悪い、これしかなくて……」
「そのまま押さえてて。響弥聞こえる? ちょっと身体動かすよ」
果奈ははきはきと言いながら、持っていたタオルの一枚を広げた。洗濯されて綺麗なままのタオルである。その上に響弥を、傷口が上に行くよう身体を横向きにして寝かせる。
出血部分は腰よりも上の位置。それは例えば、刃物で刺すには、さぞ狙いやすい場所だろう――
「月、綺麗だな……」
「見えねえよ」
「いや……笑ってるよ」
響弥がこちらを見て言うので、渉は空を見上げた。明日の天気は曇りのち雨である。空は雲に覆われていて、月も何も見えない。
「こっち押さえて」
「ああ」
渉は果奈の指示通りに動いた。止血に用いたタオルも果奈の持ってきた新しいものに替えた。
「この包帯は、怪我?」
「いや、怪我じゃない」
「取ってもいい?」
響弥の両手、血が付いた包帯を指して果奈は言う。
果奈のほうからは響弥の顔が見えないので、渉が代わりに改めて尋ねた。「響弥、いいか?」
「……いいよ」響弥は力なく答えた。
伸ばされている手にハサミを通して、果奈が包帯を切る。響弥は「コンビニの……行き途中に……」と、経緯をぼやきはじめた。渉は止血を続けながら聞き返す。
「コンビニ?」
「うん……誰かに、後ろから……。暗くて、よく、わからなくて……」
「橘……? 刺したのは、橘芽亜凛じゃなかったか?」
昼間の図書室での出来事が、渉の頭を埋め尽くした。こんなことをするのは、彼女しかいないと思った。
焦燥する渉に、響弥は柔らかい笑みを浮かべる。
「彼女は、そんなことしないよ……。あれはあれ、これはこれ……」
そう言って響弥は、包帯の取れた手を軽く握って丸めた。
やがて救急車がやってきて、家の前で止まるだろう。母は夜勤で家を出ているため、今は果奈と二人でできるだけの処置をするしかない。
隠すように握られた響弥の手のひら。だけど渉は見逃さなかった。
その左の手のひらには、何かで斬り付けたような古い傷跡が、白く残っていた。
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