第十二話

親友の安否

 救急車が到着してすぐ、響弥きょうやはストレッチャーで運ばれた。救急隊員の一人が付き添いを尋ねてきたが、果奈かなは「あんたが付いてやるべき、でしょ?」と言ってわたるに託した。渉は医療知識のある果奈のほうが適切だと考えたが、響弥の隣にいるべきなのはやはり自分である。

 渉が乗り込むと、救急車は病院へと向かいはじめた。周辺を照らす赤いランプとサイレンの音に、近所の住人はさぞや驚いていることだろう。


 響弥は横向きの姿勢のまま、ストレッチャーの上に寝かせられていた。モニターにはバイタルサインが映し出されている。はじめて見る光景に抱く緊張感。何より響弥のことが心配で、不安で、渉はそっと彼の頬を撫でた。


「響弥……」渉は小さく呟く。

 響弥の顔には汗が滲んでいた。眼鏡越しの瞳は虚ろに揺れて、渉を見ると弱々しく微笑んだ。


「遊園地……行けないね……」


 約束したはずの、夏休みの予定。響弥の表情は悲しげで、申し訳ないと思っていそうで、渉はかぶりを振った。


「すぐよくなるよ。心配すんな」


 そう言ってやると、響弥は安心したような顔で瞳を閉じた。

 病院へと向かう途中、遠くからもうひとつ、救急車のサイレン音がしていた。その行き先は別の病院かと思われる。珍しいことでもないため、この時の渉は気に留めなかった――




 病院に搬送されてしばらく、受付カウンターが慌ただしかった。響弥は奥へと運ばれて、カーテンで遮られる。軽い診察か準備がされているようで、すぐに手術が行われるものではないらしい。

 広場にはほかにも、患者とその家族らしき人の姿が見られた。夜の手術待ちか、響弥のように緊急搬送された人たちだろう。

 渉が物珍しそうに辺りを窺っていると、受付にいた看護師がカーテンを開けた。なかにいる人に先に伝えて、


「レントゲン撮影を行なってから手術になります」と、看護師は渉にも同じように告げた。病院の空気にすっかり呑まれている渉は、深く頷くことしかできなかった。


 レントゲン終了後、横たわる響弥をエレベーターへと運び、渉も一緒に乗り込む。手術室のある階に到着し、響弥は奥の部屋へと運ばれていった。渉は椅子で待つようにと言われ、ソファーのひとつに腰掛ける。誰かの手術を待つなんて、はじめての経験であった。

 渉は一人心細く、祈るように指を組む。


(響弥の家には連絡が行っているはずだ。それに警察にも……)


 それから思い出したようにスマホを取り出し、電源を切った。携帯電話は医療機器に悪影響をもたらすため、病院内での使用は控えたほうがいいと習ったことがある。今は対策がされている様だが、すぐ先に手術室があるこの場所でわざわざ使うのは憚られた。


(手術時間は早くて三十分、長くて一時間か……)


 時計を眺め考えていると、新たにエレベーターが開き、一人の女性がナースステーションへと向かった。受付で看護師と話す女性は、あちらで待つようにと言われたのか――渉のいるソファーを見て頷いている。


 やがて女性はこちらに近付き、会釈した。目には眼鏡を掛けており、髪はひとつに結っている。三十代か、もしかしたらもっと若い――綺麗な人だった。辺りには自分しかいないため、渉も軽く会釈する。

 女性はソファーには座らずに、すぐ脇の自販機を眺めはじめた。それを見て渉は、自分が持っているのはスマホのみで、財布などはないことに気づいた。


「ジュース、飲まへん?」

「え……?」


 その人が振り向いて言うので、渉は素直に驚きを示す。

 女性はなおも自販機を指差して、「何がええ?」と尋ねた。渉はぷるぷると首を振り、


「いやいや、でも……」

「遠慮せえへんと」

「……じゃあ……お茶で」


 肩をすくめてそう言った。正直なところ喉は渇いている。しかし、見ず知らずの人が何の理由もなしに、高校生相手に気を遣ってくれるだろうか。

 ――もしかしたらこの人は……。

 女性からお茶を受け取り、渉は頭を下げた。


「ありがとうございます……あの、お金は後日、改めてお返しします」

「そないケチに見える?」

「い、いえ、そういう意味では……!」

「冗談や。ええよ、うちの奢り。響弥のこと……ありがとぉな」

「! ……はい」


 やっぱりか、と渉は思った。

 女性は自販機横のソファーに腰掛けると、缶ジュースを片手で開けて一口飲む。


「名前訊いてもええ? うちは響弥の叔母で、詩子ともこ言います」

「も、望月もちづきです。望月渉……」

「わたる……渉くん? メールで聞いてんで、仲良うしてるんやてね」


 詩子は気さくな笑みを向ける。苗字でなく下の名前を告げる辺り、おそらく独身。上は神永かみながなのだろう。

 綺麗な人だが、響弥と似ているわけではない。しかし渉がイメージしていた人物像と近いものはある。まさかこんなにも若くて、関西人とは思わなかったが。


「あの子があんたのこと頼ったんは、それだけ信頼してるちゅうことやろ? うちよりずっとなぁ……」


 詩子は自虐的なことを言う。渉は反応がしづらく、小さく首を傾けた。その反応を見て、詩子は弾かれたように口をつぐむ。まずいことを言ったと思ったのかもしれない。

 渉は取り繕うように口を開いた。


「あ、あの、俺が言うのも何ですけど……」


 いくら親友とは言え、人の家庭に口出しはできない。

 ――だから渉にできることと言えば、少し背中を押してやることくらい。


「響弥のこと、これからもお願いします。あいつ、ひとりで寂しがってたみたいで……。本当はもっと、ご家族を頼りたいんだと思います」

「……」


 詩子はまっすぐ渉を見つめ返し、スッと視線を下げた。


「そうやねぇ……高校生言うてもまだ子供やしねえ。こないな目に遭わせたのも、うちの責任。ちゃんと付いていくべきやった」

「叔母さんは何か、響弥が狙われるような、心当たりはありますでしょうか……?」


 渉が問うと神永詩子は、「恨み言ならしょっちゅう買うてる」伏目がちのままそう言った。

 そのとき再びエレベーターが開いて、なかから体格のいい男性が二人出てきた。そのうちの一人、眼鏡を掛けた男性は、渉も見たことがある。確か取り調べの際――響弥の相手をしていた刑事だ。もう一人はその上司に見える。


『血まみれの学生』が運ばれた。

 その言葉だけで出動するくらい、警察はシビアになっているようだ。二人の刑事はナースステーションで会話をし、鋭い目でこちらを見る。

 神永詩子は自然と立ち上がった。渉は座ったまま、その様子を眺めていた。


「どうもこんばんは、神永さん。朱野しゅのです」

「どうも朱野警部。こんな時間までお疲れさんやなぁ? 何しにきよった?」

「……いえ、神永家の息子さんが何者かに刺されたようだと聞きましてね。それで駆け付けた次第ですよ」

「そうやなぁ。あんたらが何もせぇへんから、うちらが狙われたんや。あの子は何もしてへん。何も悪ない」

「落ち着いてください、神永さん」と諌める眼鏡の刑事。

「落ち着いてます。――今さら警察に何ができるん? 何もできへんやろ? あんたらができること言うたら、あの子を刺した犯人見つけてとっ捕まえることや。ほかはうちで何とかせなならん、そうやろ?」


 そこまで詩子が言うと、二人の刑事は押し黙った。


(神永家は警察とも揉めているのか……?)


 会話から察するに、警察は神永家のことを特別視しているようである。呪い人とその祓の話は警察にも届いているというわけだ。


 大人たちが睨み合うなか、手術室から担当医と看護師が出てきた。詩子は事情を聞きにそちらに駆け寄る。どうやら響弥の手術が終わったらしい。その間、刑事らは首を横に振ったり落胆するなどしていた。

 まもなくして響弥を乗せたベッドが運ばれてきた。渉は打たれたように立ち上がる。遠目から見ても、響弥は意識のある状態で、ただ目だけは眠たげであった。


(よかった……)


 ただそれだけの感情が込み上げた。


「刑事さんら、悪いんやけど、聴取は明日にしてほしいわ。お願いします」


 詩子は刑事らに向けて言い放つ。彼らは渋い顔を作り、目で合図し合うと、「失礼します」と言って去っていった。場違いであることは認めたようである。

 響弥とお付きの看護師は、刑事たちとは別のエレベーターへと進んでいった。渉がその様子を見守るだけで、動けずにいると――「渉くん?」

 詩子が振り向き手招きをした。謙遜していた渉は人知れず安堵した。


「病室は八階の個室です。平日の面会時間は十三時からとなりますので、よろしくお願いします」


 エレベーターのなかで、看護師が手短な説明をした。明日には警察から事情聴取がされるため、安静を考慮しても個室というのはぴったりだろう。

 八階に着き、病室へと案内されて――何もない一室に響弥のベッドが設置された。入院手続きの書類が詩子の手に渡り、最後には『神永響弥』と書かれたネームプレートがヘッドボードに差し込まれる。


「渉……帰り、どうすんの?」


 響弥が掠れた声で言った。

 そう言えば帰りのことを考えていなかった。渉は「あー……」と言って逡巡する。


「考えてなかった。歩いて帰るよ」

 すると響弥は、「詩子さん、お願いできる……?」と言って叔母を見る。

「うん、わかった。車あるで送ってくわ。うちも一旦家帰って、必要なもん揃えなならんし」


 甥っ子の頼みを、詩子はあっさり受け入れた。それ以上の会話もなく、渉は詩子の車で帰宅することになる。徒歩で帰るのはさすがに骨が折れるため、ここは親友の好意にありがたく甘えるとしよう。


「渉、またな」

「……うん。また」


 最後に何となく響弥の手に触れてから、渉は病室を後にした。触れた響弥の温もりが逃げぬよう、ぎゅっと手のひらを握り込んで。

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