そばにいるから
この地獄に終わりはないのだろうか。時間は刻一刻と進み続けているはずなのに、芽亜凛はまだ、覚めない悪夢のなかにいた。
何もない時間は苦痛でしかない。殺すなら殺してほしい。そう願っても、
彼は芽亜凛が助けを呼ばぬことも抵抗しないこともわかりきっていた。だから自決しないように考えたのだろう。芽亜凛の顔に目隠しと、口にはタオルを詰め込んで部屋を出ていった。
あれからしばらくして、芽亜凛は鉄の椅子の上で眠ってしまった。こんな劣悪環境で眠れるとは自分でも思っていなかったが、だからこそ気を失ったのだろう。体力を残そうとする生存本能だ。
だが、起きても変化がないことに芽亜凛は落胆した。寒くて……暗いまま。痛みと吐き気が伴う。
このままではまた意識を失うかもしれない。いっそのこと鉄の背もたれに頭を打ち付けようか。血が流れればいずれ死ねる。頭をかち割る気でぶつければ……。
人の気配に気づいたのは、そのときだった。
――誰か……いる。
重たい鎖の音が、ちゃり、と聞こえた。自分が立てた音ではなかった。芽亜凛の左前から、確かに金属音がしたのだ。
芽亜凛は首を動かし声を上げた。「う……うぅうう」もし人がいるのなら、こちらに気づいてアクションを起こすかもしれない。茉結華なら話しかけてくるはずだ。
――誰でもいい……誰かいるのなら応えて。
けれど、返ってきたのは静かな呼吸音。眠っている……。おそらく茉結華に眠らされて、ここまで運び込まれてきたのだろう。目隠ししたのはそのためか……誰がいるのかわからなくするため。
ならば状態は芽亜凛と同じかもしれない。口も目も塞がれている。起きたところで暗闇同士、拘束されているのならなおさら動けないし喋れない。状況把握も難しい。
茉結華が帰ってきた様子はない。彼はいったい何を考えているのだろう。今、どこにいるのだろう。
一人足りないと言っていたけれど……人を集めてどうするつもりだ。
* * *
玄関の扉を開けると、望月渉は「あっ」と小さく声を漏らした。子犬を抱いたまま出てきた新堂に目を見開いて、慌てたように買い物袋を胸まで上げる。普段から持参しているのだろうか、エコバッグだった。
「えっと……上がっていい?」
渉は、新堂とワンコを交互に見て図々しく尋ねた。その唇の端は赤紫色に腫れている。
直視できず、新堂は扉を大きく開いた。突き落としたのは新堂ではないのに、まるで自分がやったかのような罪悪感が込み上げる。
渉は「お邪魔します」と言って家に上がると、テーブルに袋を置いて食品を取り出しはじめた。下校中に買ってきたもののようだ。
パン、野菜、レトルトパック、肉、卵、調味料。それから二リットルサイズのお茶が一本と、冷凍食品、ドッグフードまで。
「お前何しに来たの?」
自分の家のものを他人の家で整頓するな。……なんて、野暮なことは言わない。こいつの考えなら読み取れる。読み取れるが……気持ちは読み取れない。
「停学なんてすぐに明けるだろ? その間新堂が野垂れ死にしないよういろいろ買ってきた」
「買ってきたってお前……うちにはそんな、」
「これ、俺の小遣いだから」
渉は食品を指さして強く言う。
「俺の金を俺がどう使おうと勝手だし、新堂が気にすることじゃない。むしろ押しかけられて迷惑だって思ってればいいよ。てかキッチン借りるけどいい? 冷蔵庫開けるぞ?」
渉は新堂の返事を待たずに冷蔵庫を開けて、ほとんど空の中身にテキパキと片付けていく。それどころか、あれを取ってこれを取ってと指示までしてきた。なんで俺が……と心で反抗しながらも、新堂は渉の指示に従っていく。
頼ってくれるほうが気が楽だった。ワンコも部屋を駆け回って応援している。
「これ全部レンジでできるやつだから、しかもうまい。俺もたまに食ってる」
「あっそ……」
「新堂って卵割れる?」
「馬鹿にしてんのか」
手先は器用なほうだ。食材とレシピさえあれば料理くらいできる。味の保証はしないけれど、仕事でくたくたな母親に代わって作ったこともあった。
昔を思い出してしまうのは、渉が家庭的だからだろうか。どことなく懐かしさを感じる。このボロアパートに住む前――母親が結婚を考えていた頃は今よりも生活に余裕があって、たびたびこんなふうに手伝いをしていた。
「昼食った? まだなら適当に作っていい? 作り置きしとく」
渉はきょろきょろと家中を見回して、「エプロンってある?」と心配そうに尋ねる。
「ちょっと待ってろ」
新堂は自分の部屋の引き出しからエプロンを引っ張り出した。中学の調理実習で使っていたもので、私生活では一度も着ていない。サイズには問題ないだろう。
リビングに戻ると、渉がワンコにかまけて揉みくちゃにしていた。頭や身体をもふもふと撫でて、見たことのない表情をワンコに向けている。
「よしよしよしよし……はあ可愛いなぁお前……」
「おい」
「あ、サンキュー」
渉はころっと表情を変えてキッチンに立つと、受け取ったエプロンを慣れた手付きで着て料理に取り掛かる。学校じゃいつも仏頂面の望月渉が、犬を相手に満面の笑みを見せていた。……顔が蕩けていた。
何を作る気か知らないが、どうせ言っても好きにやるだろう。新堂はその間に新品のドッグフードを開けてワンコに与えた。渉が買ってきたのはちゃんと子犬用のドッグフードだった。
「俺、凛を落としたのは新堂じゃないって言ってきたから」
「……え?」
唐突に渉はそんなことを言い出すと、フライパンを片手にちらりと新堂の反応を窺った。
「新堂は何もしてないんだろ。……ていうかするわけないし」
「……なんで……」
どうして、わかったんだ。言ってきたってどういうことだ。まさかただ頭ごなしに信じているわけじゃないだろう。だったら、なぜ。
「足」
「……あし?」
渉は背中越しに頷き、「足のサイズが違う」と断言する。
「新堂の足元を思い出したときにさ、足のサイズが違うって気づいたんだよ。凛の背中に付いてた足跡はもう一回り小さかった。男子なら普通サイズで、女子なら大きいくらい。でも新堂の足は男子でも大きいくらいだし、見たらすぐにわかる。……まあ、だからと言って相手の体格が割れたわけじゃないけど、とにかく新堂じゃないってことはわかったんだよ」
「よく見てるな……」
そんな細かいところまで覚えているなんて。感心するよりも先に呆れてしまったが、渉の判断は冷静で洞察力があった。
否定しなくても、言葉にしなくても、渉は新堂じゃないって気づいてくれたのだ。
「決まったことを覆すのは難しいけど、でも俺は伝えたからな。訴えが通れば期間も短くなるかもしれない。冤罪を見過ごすほど学校も馬鹿じゃないだろ。だから……今のうちに勉強しとけよ。停学が終わったら受けられるようにさ」
果たせないんだとばかりに悔やんでいた新堂の目を、渉は容易く覚まさせる。
テスト。約束。渉との勝負。
もう遅い。できない。諦めるしかない。
そんな新堂の心を巣食う負の根を、渉は一つひとつ取り除く。
彼の言葉はいつだって新堂を射抜いてきた。痛めつけるためのナイフではなく、まっすぐ天を駆ける矢のように。
もう遅いなんてことは、絶対にないのだ。
「……前に、バスケが嫌いなのかって訊いたな」
新堂は渉の横に立って、邪魔しない程度に話しはじめる。渉は興味深そうに頷いた。
「高校に受かったときに、母親から聞かされた。俺の父親はバスケ部で、母親はそのマネージャーだったんだ。だけど、学生の頃に俺を身ごもったせいで、二人の仲は駄目になっちまった。俺の父親だった奴は、俺と母親を捨てて……母親だけが退学になったんだよ」
母親は笑い話として息子に打ち明けた。でも母親はこう伝えたかったんだと思う。
「俺の才能は父親譲りなんだ。バスケに対する熱意も、この気持ちも……全部父親譲りなんじゃないかって。そう思ったら嫌気が差した」
小中高ずっとバスケをやってきた。この身体には、自分と母親を捨てた男と同じ血が流れている。だけど父親が憎いという気持ちも、捨てられた母親が可哀想だという同情も湧かなかった。
ただわからなくなったのだ。バスケに対する『好き』の気持ちが、大きな疑問に転じてしまった。もしかすると自分は父親の血によって操られているだけで、本当は好きじゃないんじゃないかって。
「そのくせ負けたくない気持ちは強くて、A組の朝霧といつも張り合ってた。……でもあいつはあっさりとやめた。俺は今でも退部しきれてねえのによ」
渉は何も言わず、黙々と料理を続けている。煮物と炒めものを同時にこなしていく。
「結局中途半端なんだよ。一度バスケから離れてみようとして、そうしたら余計に気づかされた。俺はバスケが……大切だったんだ。それに、お前が……」
「……俺?」
「お前が、俺の代わりに入ってたから」
「あ……そういうことか」
どうして新堂が渉のことを嫌っていたのか。渉はようやく合点がいったように頷いた。
体育館を覗いたときに、知らない顔が一人いた。どうやら新しく入った一年生らしい――と思いきや、新堂の代理で一時的に入っている便利屋だと知った。
……ふざけんな。
――何が便利屋だ。部員でもないくせに和気あいあいと。シュートもドリブルも素人同然で、とても俺の代わりなんて務まらない。
なのに部員は喜んでいた。先輩も……同級生も。新堂の枠が埋まったことに、その場しのぎの喜びを湛えていたのだ。
「だったら戻ればいいって思うだろ? つまんねえ意地だよ。居場所を取られたからってムキになってる自分がダサくて、周囲に悟られないよう、嫌いなふりをし続けた」
やめることも、行くこともできなくなって。
「そうしたら今度は、戻るタイミングを見失っちまった。何もかもが中途半端なんだよ」
嫌いきれなくて、手放すことを恐れて。先の見えない迷路に迷い込んだ。
そんなときに、渉に声をかけられたんだ。
「言っとくけど、俺だって新堂に戻ってほしいって思ってるんだからな」
「どの口が言ってんだよ」
「思ってるって。じゃねえと声なんてかけねえよ。萩野も先輩も、お前に戻ってほしいから言ってんだ」
すぐに戻れるよ。そう言って渉は皿にチャーハンを盛った。スプーンを添えて後ろのテーブルに置く。
「食ってていいよ。まだ作ってるから」
新堂は言われるがまま席に着こうとして、けれども思い出したように棚から救急箱を取り出した。剣道で腕を痛めたときに貼っていた湿布がまだ残っている。ハサミで切って渉に持っていった。
「これ貼れよ」
「貼ってよ」
「はあ?」
「手ぇ離せねえんだよ」
ん、と口を尖らせて顔を向ける渉に「お前調子に乗んなよ」と言いながらも、新堂は患部に湿布を貼ってやった。渉は痛そうに顔をしかめて「サンキュー」と言う。
「落ちたときの怪我なら家で貼ってこいよ。目立つだろ」
「いや違う。朝殴られて……」
「は?」
「……なんでもない。早く食べろよ冷めるだろ」
料理のできる母親がいたらこんなふうに怒られたのだろうか。新堂は妙な気分になりながら再び席に着いた。頭のなかで宮部の暴力沙汰が結びついたが、深く考える前に腹の虫が鳴る。
「いただきます……」
新堂は一口チャーハンを口に運んで、そのおいしさに驚いた。とても同じ歳の男子が作ったものとは思えなかった。
「どう?」
「……悪くねえ」
「だろ?」
渉はテーブルにお茶を置くと、ニッと得意げに笑ってキッチンに戻っていく。家で誰かの手料理を食うなんていつぶりだろうか。空腹があっという間に満たされていった。
食べ進めるに連れて、しかしまた新堂の内側でふつふつと後悔が蘇る。
「ごちそうさん」
完食して流し台に食器を持っていく合間に、渉が作った残りの品を確認した。ひとつは皿に盛られてラップが張られた肉野菜炒め。もうひとつは今できあがったばかりの肉じゃがだった。生で見たのは中学の給食以来だ。
「これは夜用な。こっちは明日。残しても二、三日はもつ」
「押しかけ女房かよ。……別にいいけど」
最後の呟きは聞こえていないだろう。渉はひと仕事終えて席に座った。自分のチャーハンを食べつつ、視線はちらりちらりとワンコに向けられる。お腹いっぱいになったワンコは新堂の布団の上で眠っていた。
「あの子名前は?」
「……ワンコ」
「ワンコ? そのまんまじゃん」
「うるせえな。仮だよ仮。まだ決めてねえんだよ」
新堂は洗いものを済ませて渉の隣に座ると、意を決してぽつりと絞り出した。
「お前の弁当」
「うん?」
「台なしにして……悪かった」
渉に怪我をさせて、心まで傷つけた。自分のことでいっぱいいっぱいで、向き合おうとしなかった。真正面からぶつかってくる誠意を。見て見ぬふりして自分を守って、ないがしろにした。
全部、全部。
「いや、俺のほうこそ……悪かった」
渉は首を振って言った。
「新堂の気持ち全然考えてなかったし、今だって……勝手でごめん」
「お前は謝るなよ」
「新堂に迷惑かけたのは本当だろ」
「馬鹿。落ち込んでるお前見てるとこっちまでもやもやすんだよ。キモいからやめろ」
「キモいとか言うなよ」
そう言って渉は、ぷふっと吹き出して笑った。釣られて新堂も笑いながら「何笑ってんだよ」と安堵する。しんみりされるよりずっといい。
「だって新堂とこうして話してるのがおかしくて……。あれ?」
「ん?」
「今新堂笑ったよな!?」
渉はスプーンを置いて飛び退った。「それがなんだよ」いちいち騒がしい奴だな。
「だ、だって新堂、そんなに笑う奴じゃねえじゃん」
「お前が言うなよ」
「マジで、今日一びっくりした……」
渉はあぐらをかき直すと、新堂の顔をじろじろ見ながら残りのチャーハンを食べる。そんなに物珍しそうにされては今後笑えなくなるのだが。
指摘されてみれば、渉の前で自然と笑みがこぼれたのははじめてかもしれない。いや、笑顔そのものが。
普段から誰彼構わずガン飛ばしてきたから、いつの間にか笑うことが少なくなっていた。悪ぶるように心がけてきたから……。新堂も気づかぬうちに、笑えなくなっていたのだ。
「そう言えばこの前、俺に言いかけたことあったよな? あれ何だった? 辻が来る前に、新堂何か言おうとしてただろ」
テスト一日目が終わった放課後のことである。
『お前さ……こないだの体育館で――』
その先は言えずに、校門前で別れたのだった。
「ああ、言いかけてたのはお前だろ」
「何かあったっけ……」
「体育館で寝こけたときに、俺に――」
俺に――新堂に……。
『でも俺……一度は新堂に……』
あの続きは、まさか。
「やっぱいい。やめとく」
「え? 何? 気になるんだけど」
覗き込んでくる渉を手で追い払って、「忘れたんだよ」と突っぱねる。
きっとあの続きの『願い』は、今しがた叶ってしまったものだから。
渉はしばらく首をひねっていたが、思い出すことはやめたようだ。食器を片付けて帰り支度を済ませる。まあせいぜい一人で気づいたときに赤面すればいい。
「じゃあ、またな」
「……おう」
「停学中にまた来るかも」
「ああ、なんでもいいよ」
新堂は眠たげに歩いてきたワンコを抱き上げて、玄関まで渉を見送った。渉はワンコの頭を名残惜しそうに撫でて、「じゃあ……」と手を振る。新堂はもう一度「おう」とだけ返した。
――あの様子じゃ、またすぐにワンコに会いに来るかもな。
新堂は渉が去ったあとでも、今日の夕食が楽しみでならなかった。
* * *
家に着くと、扉の前に誰か立っているのが見えた。家の脇に自転車を止めて歩み寄ると、相手も気づいて振り返る。
「……響弥?」
キャップ帽を目深に被って、変装までしているが――響弥だった。
逮捕は? いや、ここはおかえりと言うべきなのだろうか。親友なのに、どんな顔をすればいいのかわからず戸惑う。
響弥はこくりと頷いて、すべて見透かしているかのように「誤認逮捕だよ」と答えた。だからもう何も心配することはない。
「そっか……よかった」
心底ほっとする渉に、響弥はにこりと笑みを浮かべる。
「上がっていけよ」
玄関の扉に鍵をさした瞬間、視界が真っ白に明滅した。うなじから眼球、舌先にかけて、無数の針で刺されたかのような激痛が走る。
呼吸もできずに崩れ落ちた。視界が白から、黒に染まった。
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