修羅場の予感

 放課後部活のない日は凛と遊んで帰れる。お互い別々の部活動に所属して、終わる時間もなかなか揃わない千里にとって、凛と過ごせる放課後は些細な楽しみだった。渉や響弥きょうやたち帰宅部組と合流してカラオケで盛り上がることもあれば、凛と二人きりでショッピングモールを巡ったりもする。

 帰りの雨は降っていないようだし、今日は大好きなたこ焼き屋に寄って行こう。頭のなかで計画を練りながら帰りの支度をする千里の元に、軽やかな足音が近づいてきて目の前で止まった。


「千里さん」


 リンと鈴が鳴ったような、はじめて耳にする澄み切った声。顔を上げた先には、やはり見覚えのない綺麗な子が立っていた。癖ひとつない艶々の黒髪に見惚れていると、お人形さんみたいに整った小さな唇が「少し、いい?」と鈴の音を奏でる。


「わ、わたしに?」


 ――こんな可愛い子が、何の用だろう。

 千里の元にわざわざ人が来るなんて珍しかった。他クラスでもクラスメートでも、千里は自分から訪ねることがほとんどである。そのほうが記憶を引っ張り出す手間が省けて楽だからだ。もしかするとこの子のことも、いつものごとく忘れているだけ? ――こんな綺麗な子、見たら絶対忘れないけどな。


 うん、と首を動かした彼女は、姿勢を斜めにして廊下へと目線を向ける。外で話そうとしているようだ。

 鞄をそのままにして席を立つと、「あのあのあの!」と、慌てた様子で響弥が駆け寄ってきた。


「て、ててて転校生ちゃんだよね!?」


 うわあ、どうしよう、うわあ! と響弥は忙しげに天を仰ぐ。なるほど、転校生だったのか。道理で見覚えのないわけだ。

 納得して彼女の顔を見た千里は、思わず目を見張った。色白の肌から血の気が引いて、さらに白んでいる。視線は誰とも合わさずに、虚空を見つめて固まっている。大丈夫……? と口にしかけたそのとき、


神永かみながくん。そういうことは、場所を変えてしたほうがいいんじゃないかな?」


 教室のドアに手を添えて諭したのは、A組のクラス委員――朝霧修だった。朝霧は出ていく人の邪魔にならぬよう、指先だけでひらひらと手を振りながら挨拶を交わす。その指を軽く曲げて、「松葉さん、こっち」と手招きした。

 何がなんだかわからないが、千里はぺこぺこと頭を下げながら、転校生の前を通ってドアへと向かった。まるで寄ってきた小動物を愛でるように朝霧はにこりと笑い掛け、「先行ってるね」と転校生に告げる。行こうか、と朝霧が言うので、千里はC組を後にした。


「あのー……わたしに何用でござんましょう?」


 学年トップの人気者と歩くのは気まずいなーと思いながら廊下を進む。女の子とだったらこんなに緊張しないのに、朝霧と歩いていると妙にドキドキしてしまう。まるで生徒指導の先生を相手にしているかのような圧があるのだ。


「松葉さんに話があってね。大事な話が、あるんだ。誰にも聞かれない場所で話したい」

「こ、告白ですか!?」

「ある意味そうかもね」


 千里の冗談を、ははは、と軽く受け流す朝霧。月曜日から叱られたくはないなあと、千里は心のなかで身構えた。朝霧は二年生の生徒会役員だし、成績も常に一番の優等生。さすがの千里も忘れることはない。


「さ、さっきの子は?」と転校生のことを問う。

「E組の橘芽亜凛さん。今日転校してきたばかりで、校内案内をするところだったんだ」

「ほ、ほえー」


(そういうのって、同じクラスの子がするものじゃないのかなぁ)


 例えばクラス委員の凛や萩野がしてあげる。それなら納得が行くが、別クラスの朝霧が任されるのはちょっぴり違和感があった。

 ――生徒会ってそんなことまで任されるの? 大変だなぁ。


「ねえ朝霧くん」

「ん?」


 三階の踊り場に差し掛かった頃、千里は背後から息を切らすもうひとつの気配に気がついた。目線を斜めに下ろして窺うと、明るい人影がちらりと見えて千里は息を呑む。


「あー……ううん。なんでもない」


 誰かに後を付けられている――

 気づいていても、千里は言い出せなかった。脅威に感じなかったからだ。

 一方の朝霧は、疑う素振りを見せずに階段を上がっていく。


「大丈夫? 疲れてない?」

「疲れてない疲れてない! テニス部で鍛えてるからね!」


(疲れてるのは後ろの子だと思うんだけど……)


 朝霧の優しい気遣いに感謝しつつ、どうしたものかと胸を撫でた。


    * * *


「お、おおおお、俺と……付き合ってください!」


 ピンと片手を差し出して、響弥は握手を求めた。時間帯が違うだけで、何度も目にしてきた光景に、デジャヴとデジャヴが重なり、芽亜凛の視界が幾重にもブレる。彼が何人もいるかのように、視界のなかでぐるぐる踊る。

 芽亜凛は瞳を固く瞑った。この期に及んでもまだ、ゼロからのやり直しを受け入れきれずにいるのか。自分の魂は、記憶は、まだあのルートに留まっていて、今が夢のなかのように思えてしまう。しっかりしろ――あの物語は終わったのだ。


「……ごめんなさい」と、芽亜凛は両手を前にして、頭を垂れた。

 もう一度彼と付き合えば、千里の死は免れるかもしれない。けれどそうすることで、別の誰かの死に繋がるのならば、変えちゃいけない。

 変えずに、防ぐんだ。一つひとつ、一歩一歩。ハッピーエンドに向けて。


「うぇっ、あっ……そ、そうだよねー! そう、だよなー……ハハ、ハハハハ」


 姿勢を戻した響弥は気まずそうに空笑いをする。芽亜凛は繰り返し頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい……」

「き、気にしないで! 俺もちょっと、焦りすぎたかな?」たはははは、と響弥は頭を掻く。


「本当は昼休みに伝える気だったんだけど、芽亜凛ちゃん見つからないし……。掃除時間にA組の安風やすかぜがフラれたって聞いて、俺にもワンチャンあるかなーって、我慢できずに伝えただけだから!」


 本来であれば昼休みに接触してくる一番目の響弥の告白がなくても、後に続く者たちの行動は変わらなかった。A組の安風もB組の宮部みやべも、D組の田口たぐちもE組の村瀬むらせも――すべての告白をお断りして、最後が響弥となったのだ。芽亜凛がどんなに態度を悪くしても、当たって砕けてくる男子たちの欲望は抑えられないらしい。


「あなたには、もっと相応しい人がいると思います。私よりもずっと……」

「そ、そうかな……?」


 模範的な返しを加えて、芽亜凛は頷くついでに「失礼します」と一礼し、足早にその場を離れた。吐き気も鳥肌も催さなかった。あんなに拒否反応を起こしていたのに、すっかり身体は慣れてしまったようだ。

 響弥の告白を断ったということはつまり、千里の死を回避した唯一のすべを捨てたことになる。ここから先は自分たちの手で守り抜かなければならない。後戻りはできない。朝霧を信じて、振る舞うんだ。


 千里と向かった先は、四階の生徒会室のはずである。藤北の生徒棟に並ぶ各教室は三階までであり、上に行くにつれて学年も上がる。後輩はもちろん、同学年である二年生も二階までしかうろつかない。先輩のいる階へ向かう者などいないのだ。

 さらには、四階は主に委員会でしか使用されないため、普通の生徒であれば寄り付かない場所。会議を行うには生徒会室を利用するのがちょうどいいだろう、と朝霧が提案したのだ。執行部の彼がいれば、見つかった際にどうとでも言い訳ができるし、怒られることもないだろう。


「…………」


 ――いや、思い切り付けられてるじゃないですか。

 生徒会室の前に、人が屈んで背を向けていた。扉に横顔を付けて――耳をそばだてている。


「あの、」

「わちゃ!?」


 足音を忍ばせて声をかけると、しゃがんでいた小坂こさかめぐみはその場で跳び上がった。振り返り、「な、何!?」とピンクのツインテールを逆立てて威嚇する、朝霧の元カノ。


「何してるんですか」

「あ、あんたには関係ないでしょ」


 声を抑えずに吠えた後で、あっ……と扉のほうをチラ見して、小坂は唇をもごつかせた。


「そっちこそ、A組に来たわよね? 私見たんだから。修と一緒に、教室から出ていくの」


 犯人当てをする探偵のごとくドヤ顔で人差し指を突きつけるピンク髪の少女。芽亜凛がC組を訪ねる前から、小坂は様子を窺いコソコソと付いてきたらしい。面倒な事態になった、と思った矢先、生徒会室の扉がガチャリと開いた。


「何してるの?」

「きゃわ!?」


 顔を覗かせた朝霧に、小坂は先ほどよりも派手に驚く。両手を前にして顔を隠すように中腰になっているが、意味はまったくない。朝霧は眉をひそめて、迷惑そうな目で小坂を見る。この人でもこんな顔するんだなと芽亜凛は思った。


「入って。小坂さんも」


 トーンを落とした朝霧の声が告げる。

 扉を押さえ続ける彼の前を通って、芽亜凛は生徒会室に足を踏み入れた。小坂は親に叱られた子供のように肩をすぼめて後ろに続く。――修羅場の予感がしてならない。

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