妹
ニイナに連れられて訪れたのは、見た目はごく普通の――ひっそりとやっている雰囲気の――喫茶店。しかし店内は、平日の夕方だというのに全席埋まりそうなほど賑わっていた。なんでも、ここだけの限定スイーツがおいしいと評判らしい。席に着いたニイナは、すぐさまメニューを開き、デザート欄に目を通した。
注文を訊きに来た店員に、渉はアイスコーヒーを頼んだ。対面に座っているニイナはホットコーヒーとメープルバターパンケーキと、追加でパフェをひとつ注文する。うむ、まったく遠慮していない様子である。頼まれたパフェの名前は長いカタカナで、写真には苺とアイスクリームとクッキーと生クリームとチョコレートと……そのような甘味代表の品々が乗せられていた。甘いものが好きなのだろうか。渉はそう思いつつ「きみは、ニイナさんでいいんだよね?」と念のため再度確認する。
少女は表情を変えずに、「はい。朝霧――修の妹です」
兄の名を口にしたときだけ、わずかながら顔をしかめていた。
(この子はまだ冬服なんだな)
先ほど見た中学生の集団をふと思い浮かべた。
今日は梅雨の時期にしては高い気温のうちに入るが、ニイナは冬服のままである。おそらくまだ衣替えの移行期間であり、冬服と夏服とを好きにしていい時期なのだろう。かく言う藤北も同じく移行期間であり、男子はそろそろ夏服への完全移行となる。
「じろじろ見ないでくれます?」
「すみません……」
そうは言われても、目の前にいるのだから仕方ない。渉は軽く頭を下げて目線を逸らした。ニイナは『ふん』と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
お互いのドリンクが届けられたところで、ニイナのほうから口を開く。
「で、何のお話でしたっけ」
ゆっくりと渉のほうを見た少女は、相変わらず人を嘲るような目をしている。臆することのないこの雰囲気。どことなく、芽亜凛に似ていた。
「お兄さんのことで、訊きたいことがいくつか」
「もしかしてあの人、何かしたんですか?」
怪しむ様子のニイナに、渉は首を横に振る。実際、朝霧自身が何かをしたというより、何かに巻き込まれた可能性のほうが渉のなかで濃厚となっている。
「なーんだ、違うんだ」
ニイナは目を細めて言うと、コーヒーにミルクと砂糖を注ぎはじめる。
朝霧の家族仲のことは渉もおおよそ予想がついている。加えて、ニイナの反応を見てそれが確信へと変わっているので、彼女の態度や発言にまでは気に留めない。
「家に帰ってないって聞いたけど、それは本当?」
「ええ。まあ、たまに帰ってきてるみたいだけど、すぐまた出ていきますし」
「じゃあ今は家にいないんだね?」
「いるはずないじゃないですか。知ってて訊きに来たんじゃないんですか?」
ニイナは吹き出したような笑いを混ぜて、鋭い眼光を向ける。
渉は落ち着いたまま返した。
「知らないから訊きに来たんだ」
「ふーん」
ニイナは興味なさげに相槌を打ち、コーヒーを掻き混ぜるのをやめて、運ばれてきたパンケーキに目をやった。シュガーとメープルシロップのかかったパンケーキはできたてで温かい。表面のバターが艶やかに溶けており、生クリームもたっぷりと添えられている。
少女は瞳の奥を輝かせながら、ナイフとフォークを手にしたようだ。その様子に目をやりつつ、渉はコーヒーを一口飲んでから問うた。
「居場所とかって、わかる?」
「さあ? 私は知らないし、知りたくもないですよ。ああ、連絡先も知りませんから」
訊いても無駄ですよ、と早口気味に追加情報をくれるニイナ。パンケーキを一切れ口に入れ、もぐもぐと頬張る。本当に遠慮がない子だ。――まあ遠慮する必要はないけれど。
渉は窓の外に目をやった。人々の憂鬱を具現化したような、小降りの雨がしとしとと続いている。喉を潤してくれる冷たいコーヒーが、この場で唯一の癒やしに思えた。
ニイナは何口かのパンケーキを飲み込んで、顔を上げた。
「望月さん……あの人と友達ってわけじゃないんですね。まあできるはずないけど、なんであの人のこと嗅ぎ回っているんです? 弱みでも握られた?」
「ん……いや? ただ、無断欠席が続いてるのが気になって」
「無断欠席?」
渉は、『弱みでも握られた?』という台詞の意図が一瞬気になったが、それよりも無断欠席についてニイナがあからさまな反応を示したため、そちらに興味が向いた。ニイナは目を見開いて、まさに『ありえない』と言いたげな顔つきだ。
「妹としては、そんなお兄さんのこと、どう思う?」
「……どうって、どうも思わないですよ」
「心配になったりはしないの?」
「はあ? なんで私があの人のこと心配なんてするんですか」
笑わせないでください。と付け足して、ニイナは再びパンケーキに手を付ける。
――訊かなくともわかる。ひしひしと、伝わる。兄――朝霧修への嫌悪感。少女はそれを、隠すことなく抱いている。
朝霧、何をどうしたらここまで嫌われることができるんだ。ああ、別のほうにも似たような人物がいたな。と、渉は響弥と芽亜凛を頭にちらつかせた。
「でもま、確かに無断欠席ってのは……あの人にしちゃ珍しいことですよ」
パンケーキを食べるのをやめ、妹としての意見を述べるニイナ。
「成績と信頼、それに関わることを自ら棒に振るなんて考えにくいですし。何か急用があっても連絡くらいは入れるでしょうからね」
「ご両親には連絡が行っているはずなんだけど」
「へーえ。そんな話……あの人たち、なんにもしてなかったな」
ぼんやりと呟いて、ニイナはパンケーキの皿に目を落とす。その様子は少し寂しげで、そしてどこか、他人事のようだった。
「学校がどんな言い方をしたのか知らないですけど、家に帰ってないのはいつものことだし、あの人たちがまともに取り付くはずがないですよ。息子のことは息子自身に託してますから、とか何とか返したと思いますよ」
少女はぼろぼろと無造作に、言葉を口から捨てる。まるで、歩道橋上で渉がしてみせた独り言のように。
(……親に対しても『あの人』たち、か)
コーヒーをすすりつつ渉は思った。
誰しも、親に対して素直になれない時期はある。年頃の子供ならなおさらだ。しかしニイナが宿す雰囲気は、そういうものとは違う。そこには怒りもなければ悲しみもない。熱を帯びておらず、子供らしい感情だってない――無関心だ。
「お兄さんは、どうして家に帰らないの?」
「知らない」
「じゃあいつ頃から、そんな生活を送っているの?」
「……去年の夏から。計画は以前から立ててたみたい。もしかしたら中学からそういうことしてたのかなって。ああ、考えたくもない」
難色を示すニイナの表情はますます険しくなる。
そういうこと――とは、どういうことだ?
家を出る計画とは別に、朝霧修がしなくちゃならなかったこと。家を出ている間、今までし続けていたこと。それはいったい、何だ?
ニイナの言い回しは不自然な点が多い。極端に毛嫌いしている様子はあるが、時折垣間見える、人を小馬鹿にするような目は楽しげである。
兄の不幸を楽しんでいる――というよりは、それを願っている。期待している。そんなふうに感じられる。
つまり、ニイナが何も心配していないのは明白であるが、それは悪意あってのことだけでなく『そうなるわけがない』という、心配無用の気持ちが重なっているのだ。
「ええっと……朝霧修は、何を……?」
パンケーキの皿が綺麗になったところで、渉は問いかけた。ニイナはすぐには答えてくれずに、しばらく空の皿に目を落とす。そんなに答えにくい内容なのだろうか。
「……言ったら、何されるか……」目線を横に外し、ようやく口を開いたニイナ。
「人には言えないやばいこと……?」
渉が聞き返せば、ニイナはふるふると小さく横に首を振る。
「誰にも言うなって言われてるんですよ。だから……言えない」
言ったらやばいということか。思い浮かんでしまうのは、ヤクザ絡み……抗争……危険なバイトやその行い。
――優等生の裏の顔。
口止めは誰からされているのか。そう訊こうとしたとき、ニイナは「いっその事」と言って続けた。
「いっその事、死んでくれればいいのに」
「――っ」
つい、身体が震えた。兄に対する憎しみを聞いた、その恐怖や困惑からではない。――怒りだ。怒りで身体が震えたのだ。
仮にも相手は女子中学生。事情を教えてくれる唯一の存在、朝霧の妹。気を遣いたいのは山々であり、敬意だって払いたい。けれど、だとしても――
「きみがお兄さんのこと、どう思ってるのか知らないけど、死んでいい人間なんかいない。それがお兄さんに対してじゃなくても、死んでいい人間なんか、一人もいない!」
取り巻く空気が、熱を帯びだす。今までニイナの態度や言動にも動じなかった渉が、はじめて示した怒りの感情であった。今しがた届けられた追加のパフェも、彼の目には見えていない。
人の死を嗤うことは、愚弄することは、渉にとって許せない行為であった。相手が年下の女の子だとしても、これだけは譲れないことであった。
人の死を嗤うな。それならば、無関心のほうがマシだ。
ニイナは数回瞬きをしてから、『はんっ』と笑みをこぼし、手にしたスプーンを強く握り込む。
「おかしいことを言いますね。……死んでいい人間なんか、そこら中にいるじゃん。望月さんは随分甘い環境で育ったようですね。ご家族にも友人にも恵まれて、だからそんなこと言えるんですよ……!」
拍子に突かれたパフェのクッキーがザクッと音を立てて貫かれ、クリームのなかへと沈む。ニイナはなおもスプーンで突付きながら言葉を紡ぐ。
「救いのない人間は自分でどうにかするしかない。あの人はそう言ってました。あなたには理解できないでしょう? ねえ?」
ザクッザクッザクッと、クッキーやフレークが砕かれる。
救いのない人間。
朝霧が自分のことを――まるで自虐的に思っていたというのか。渉は胸の奥がツンと締め付けられるのを感じた。
「俺は朝霧のことが心配だ」
そう誰かに打ち明けるのは、これで何度目だろう。
「だからこうして、きみに訊きに来ている。困ったことがあれば言ってほしいし、いつでも頼ってほしい。あいつが一人で抱え込む必要ないだろ」
同意を求めるつもりはない。同意されるとも思っていない。だけどこれが渉の正直な思いであり、朝霧修に伝えたい気持ちであった。
ニイナはパフェを突くのを止めて、ふーんと相槌を打つ。
「……そういうこと。言わば正義感ってやつだ? すごいですねー、望月さん。そういうの、余計なお世話って言うんですよ」
泰然自若に言ってみせて「馬っ鹿みたい」と、なおも淡々とした口調で続けるニイナ。
「たまたま可哀想な子がいたから、救いの手を伸ばしてるだけでしょ? それってただの自己満足じゃん」
「違う……!」
「違わないですよ。自分は人のためって思ってるでしょうけれど、される側は惨めなだけですから」
言葉とは裏腹に、ニイナの気持ちには不思議と侮蔑感が見られない。冷めきっており、諦めきっている。そんなふうに見えるのだ。
渉は、ニイナの言葉に肯定できない。だが、言い返すことができないのもまた事実だ。それはきっと朝霧に対しても同様で、渉は言い返すことができなくなるのだろう。
朝霧兄妹にとっては、こんな言葉は綺麗事かもしれない。そうわかっている。わかってはいるけれど、落ち込んでしまう。面と向かって言われてしまうと、心に来るものがあった。
「だからもし、望月さんのその気持ちをあの人に告げたら、快く受け入れてくれるだろうな」
「……?」
思っていたことと反対のことを言われて、渉は頭に疑問符を浮かべる。ニイナは遠くを見るような目で、パフェを口にしはじめていた。
朝霧が快く受け入れてくれる――? 否定をしない? もしそうであるならば、渉は安堵するだろう。そのときは、今度こそ本当に友達になれるかもしれない。けれどやはり、妹の言い回しにはどこか違和感があった。
「ごちそうさまでした」
高度のあるパフェをぺろりとたいらげたニイナは、残りのホットコーヒーを飲み干してから椅子を引く。
「もういいですよね」
立ち上がったニイナが尋ねるので、渉はおずおずと頷いた。これ以上遅くまで付き合わせる気はない。
「今日は、どうもありがとう」
「いえ……最後にひとつだけ。あの人にはもう関わらないほうがいいですよ。それが望月さんのためです」
表情もなく言われてしまう。
渉はよく思案することなく、「俺からもひとつだけ」と言って立ち上がる。
「一人で抱え込む必要ないって言ったけど、それはニイナちゃん、きみに対してもだから」
朝霧だけじゃない。朝霧ニイナに対しても、渉は同じ感情を抱いている。この少女の肩の荷を下ろしてあげたかった。
「何かあったら、いつでも頼ってくれて構わない」
――それなのに、
「ああ――っ!」
少女から吐き出されたのは、苛立ちと拒絶の声だった。
「私、男の人――大っ嫌いなんですよ! どいつもこいつも、みんなみんなみんな、そうやって……! もう、私に近付かないで――っ!」
* * *
ニイナは急ぎ足で店を出ると、望月渉の顔を見ることなく走り去った。
傘を差すのも忘れて、一直線に家まで向かう。
角を曲がって、家が見えてくる先に、赤い傘を差した人が一人立っているのが見えた。その人は、ちょうど朝霧家の門扉の前に立っていた。その様子は、誰かを待っているかのように見える。
ニイナは立ち止まって訝しむさなか、傘を差していなかったことに気づいた。髪も濡れており、制服には染みができている。己の恥ずかしさと嫌悪感でムッと顔をしかめるが、今さら差しても仕方ない。
そのままゆっくりと門扉まで近付くと、赤い傘の人物がくるりとこちらを見た。ニイナはビクリと驚いた。先ほどまでは傘で不鮮明だったが、その人は、長くて癖のない髪をひとつに結んでいた。頭にキャップ帽をしていて、顔はよく見えないが、服装も総じて女の人である。背はニイナよりも少し高い。
何か用ですか、と思ったが、話しかけるのも気が引けて、ニイナは無視して門扉に手をかける。その瞬間、
「言葉には、魂が宿るものよ」
澄んだ声が耳に入ってきた。ニイナは目を丸くして、反射的に振り向いた――けれど、
声の主であろう赤い傘の女の人は、もういない。
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