第90話 カルケロの元へ
バッソーはこの世の全てを見透かしたような、遠い目をしていた。
「あれ……? 賢者モード……? なぜ? いつの間に……?」
グリムナは戸惑っているが、いつの間にも何もない。このタイミングで魔法を使って石の扉を開けたのだ。ヒッテに罵られた言葉がトリガーになったことは間違いないのだ。
ヒッテの目は前髪で隠れていて見えないが、般若の如き憤怒の表情を拵えていることは容易に想像がつく。グリムナは背後にピリピリと彼女の殺気を感じながらも、急いで元の通路に戻り、ヒッテとフィーにもすぐにこちらへ来るように促した。
(恐ろしい……本当に、何がトリガーになるか分からん……)
グリムナが恐怖していると、全員が元の通路に戻ったことを確認してバッソーが魔力での石の扉の操作をやめ、大きな音を立ててバタン、と扉が再び閉まった。
音に驚いてグリムナが扉を見ると、オオカミのレリーフの上に何やら白い粘性のある液体が付着していることに気づいて眉間に皺を寄せた。
「良く分からないけど、魔法で扉を……」
「と、とにかく! すぐに外に出ようか!」
しゃべりながら振り向こうとしたフィーの背中をグリムナが急いで押す。ヒッテが「なんかイカ臭いんですけど」と言っていたが、グリムナはそれを聞かずに二人の背中を最初の地母神の祭壇のあった部屋まで押し切った。
「とりあえず、これからどうするかだ。やはりここには聖剣エメラルドソードにつながる『何か』がある可能性が高い。ヘビのレリーフ……その奥が怪しいが……」
グリムナはそこまで喋って言葉に詰まった。あのイカ臭い空間に戻って通路を探すのもどうかと思ったのだ。しかもオオカミのレリーフの部分にはばっちりケフィアがかかっているのだ。そう考えているとバッソーが口を開いた。
「待て、冷静になるのじゃ、グリムナ。お主をあそこに閉じこめたのは何者じゃ? なんの目的であんなことになったんじゃ? 他に喫緊の課題はないのじゃろうな!」
この言葉にグリムナは冷静になる。そこに至る過程には問題はある物の、賢者モードになったバッソーは非常に頼りになる。
「そうだ……ヴァロークがどの程度の組織かは分からないが、もし彼らの援軍が来て包囲されたりしたら、出口が一つしかないこの神殿では取り返しのつかないことになる……」
グリムナがそう呟くとヒッテも焦った表情で言葉を発した。
「それだけじゃありません、カルケロさんが心配です!!」
この言葉にグリムナはハッとした。そうだ、ヤーン達は一体どこに行ったのか? 自分たちを閉じこめて、飢え死にさせようという意図は正直言って分かる。しかしはっきりと言って不確実な方法ではある。
ならば、何故遺跡の入り口に誰も見張りを置かなかったのか。二人も居たにも関わらず、だ。
そして、カルケロはこの遺跡の調査についてかなり真実に近づいていた。
まさかそこまでする……とはとても思えないが、もし、ヤーン達が、カルケロに口封じをする、そんな最悪の事態になったなら、そう考えるとグリムナの顔が青ざめてきた。遺跡の奥の調査などをしていたから、閉じこめられてから3時間ほどが経っている。間に合うか……
「すぐにカルケロさんの家に戻る、走るぞ! バッソー殿はすいませんが、ついてこれなかったら後から来てください。カルケロさんの家の場所は分かりますよね!?」
そう言い終わるや否やグリムナはすぐに走り出した。カルケロとヤーンの間には確かに親子の信頼関係を感じていた。それは演技ではないと断言できる。
しかしヤーンがどれほどヴァロークに入れ込んでいるのかは分からない。せめて、説得するだけにとどめてくれていればいいが、実力行使にでたりしていたら厄介なことになる。
いや、そうならないためにも一刻も早く戻らねば、そう考えてグリムナは走り続ける。
ヒッテとフィーも何とかついてきている。さすがにここ数ヶ月一緒に冒険を続けているだけあって、なかなかの健脚である。
案の定バッソーとははぐれてしまったが、仕方あるまい。今の最優先はカルケロの身の安全なのだ。
「行ったか……」
「ええ、大丈夫そうです。すぐに準備に取りかかります」
グリムナ達が去った後、神殿遺跡の入り口付近の木陰から数名の男達が姿を現した。
「これでいいんですか? ウルクさん……始末した方がよかったんじゃ?」
男たちの一人がウルクと呼んだ者、それはヒッテの前にたびたび現れていたヴァロークの男であった。
「いや、奴の噂を知らんのか? この人数では、始末しようと思ったら少し荷の勝つ相手だ……返り討ちにあいかねん。なあに、全て予定通りだ。あとはなんとかなるさ……」
そう話すと、男たちは遺跡の中へ入っていった。
ぜぇぜぇと息を切らし、ようやっとグリムナはカルケロの家にたどり着き、少し手前の木陰で呼吸を整える。辺りの景色は既に夕暮れの赤にその色を染めつつある。
少しするとヒッテとフィーも追いついた。しかしバッソーは完全にはぐれてしまったようである。62歳の老体ではそれも仕方あるまい。
ゆっくりと呼吸を整える3人、本当はすぐにでも家に突入したいところだが、ここは慎重にいきたい。もし中がのっぴきならない状態になっている場合ヘタに刺激すると取り返しのつかない事態にもなりかねない。
「何か……甘い香りがしませんか?」
ヒッテがそう言い、グリムナも匂いに注意してみると確かにカルケロの家の中から甘い香りがする。
まさか和解して二人でアップルパイを食べている、ということもないだろうが。だが、突入しようとグリムナが一歩前にでるとフィーが呼び止めた。
「甘い香りだけじゃないわ、血の匂いがする……」
その言葉を聞いて、グリムナはゆっくりと、気づかれないように家に近づいて、窓から中を覗いた。
家の中は雑然と物が散らかっている。それ自体は、実を言うと学者という職業柄なのか、カルケロが元からそう言う性格なのかは分からぬが最初からそうであった。しかし、よくよく見れば床に割れた食器が散らばっているし、そもそも『散らかっている』などというレベルではない。椅子もいくつか破損しているし、他にも食器棚などいくつか家具が壊れている。荒れ放題だ。やはり何かあったのだ。
ふと、グリムナは視界の端に、床に倒れている人物が居ることに気づいた。
「カルケロさん……ッ!」
もはや彼は身を隠すことなど忘れ、走って正面のドアを開けて中に入っていった。家にはいるとすぐにグリムナはカルケロを抱き上げ、脈を確認する。
しかし、それを確認するや否や、彼の表情はみるみるうちに暗くなっていった。いや、正直に言うと脈を確認する前、抱き上げた瞬間には分かっていたのだ。彼女の冷たくなった肌に触れた瞬間には。
それを認めたくなくて、『脈を確認する』という無駄な手順を踏んで悪足掻きをしたに過ぎなかった。彼は、いや、この世界のどこにも死者をよみがえらせることのできるものなどいないのだ。
カルケロの遺体には胸から首にかけて刺し傷がいくつもあった。滅多刺し、とまではいかないものの、激しく争ったのであろうか。
よくよく見れば部屋はそこら中に彼女のものと思われる血が付着していた。おそらく死因は失血死であろう。この様子では死ぬまでかなり苦しんだようだ。目を閉じたまま、眠るように動かない彼女をグリムナはゆっくりと床に寝かせた。
「遅かったみたいね……グリムナ……」
後から部屋にはいってきたフィーも、普段の彼女の態度からは想像できないが、今はさすがに神妙な面もちである。
「ヤーンさんが……殺したんですか……」
ヒッテのその言葉に、強く首を横に振ったグリムナの瞳には、涙が浮かんでいた。
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