第392話 それは突然に
「んふうぅ~♡♡♡」
「らめぇ♡♡♡」
「あひゃぁ……♡♡」
どさりどさりと崩れ落ちる、この大陸を股にかけて戦場を駆け回った
その折、大地が揺れたのだ。
この揺れには覚えがある。5年前、狂乱のローゼンロット。その時に感じた揺れと、確かに同じであった。傭兵達に気を払いながらもグリムナは空を見上げる。
誰もが、その姿に、声も出なかった。
あまりにも非現実的なその姿に、幽玄たる魔境に足を踏み入れてしまったのではないかと、自分の正気を疑った。
だが、その圧倒的存在は、確かに彼らの目の前にいたのだ。まだ山ひとつほども向こうの距離であるが、確かに。
「竜が……復活した」
ヒッテの口から言葉が漏れた。それを聞いてグリムナはハッとする。
そうだ。こんなことをしている場合ではない。避難しなければならない。まだ残った傭兵達も村人たちも、ただただ阿呆のように空を見上げているだけであるが、避難しなければみな踏みつぶされてしまうだろう。
「みんな! こんなことしてる場合じゃない! 避難するんだ!!」
グリムナは声を張り上げ、傭兵どもは正気に返った。しかし、これを正気と言ってよいのか、傭兵達の意識はグリムナの思いもよらぬところに及んでいたのだ。
「あぁ!? ふざけんじゃねぇぞ! 戦いはまだ終わってねぇぞ!」
傭兵としてのプライドか、メンツか。もはや仲間の半数ほどがグリムナとヒッテにやられ、しかも竜まで出現したというのに、まだ戦う気のようだ。グリムナはその言葉を聞いて呆気にとられたが、ふと思いついて足元に倒れ伏している傭兵達を掻き分け、一人の男を掘り出した。
「おい、お前が傭兵団のボスだろう? しっかりしろ! この村は今危険だ、戦いをやめて避難するぞ、いいな!?」
グリムナが掘り起こしたのは最初にリカウスに切りかかった傭兵団の中心人物と思しき人物であった。彼の肩をがくがくと揺さぶり、グリムナが声をかける。
「おい! お前! 傭兵団のボスだろう! いつまでも腑抜けてるんじゃない!」
「ひゃい~」
何とか返事をした彼にグリムナは軽くビンタをしてさらに声をかける。
「いいか、アレをよく見ろ、竜が復活したんだ。こんなことをしてる場合じゃない。傭兵のみんなに避難の指示を出してくれ!」
その言葉に傭兵のボスはハッ、として正気に返ったようだった。ようやく両の眼の焦点が合い、次いで竜の存在に気付き、驚愕した。
「りゅ、竜が……復活……」
「そう言うのいいから早く!」
ようやく傭兵との戦いを終える算段が付くかというころ、大地の揺れに尋常ならざるものを感じてか、家屋の中に隠れていた村人たちも続々と外に出てきた。
グリムナは次に村長にも声をかける。
「村長、村を放棄してすぐに避難をするんだ」
「避難……と言っても、いったいどこへ……」
そう、確かにその問題がある。あれほどの巨体から逃れるにはいったいどこへ行けばよいのか。どんな要塞だろうと、地下迷宮のシェルターであろうと、アレが近づけば、容易に踏み潰されてしまうのが想像できる。
オオオオオ、と竜がひと鳴きした。皆が耳を押さえる。まるでその咆哮だけで地滑りでも起きそうなほどの力を秘めているように感じられた。グリムナが竜を睨みつける。確かに、アレが一体何をするのか、どんな習性なのか、それすら誰にも分からない。
「山に……逃げるんだ。できるだけ距離をとって。人の多い場所を避けるんだ」
グリムナの中に浮かんだ考え。
竜がもし人の心が生み出し、人が滅びを望むからそれを実行するというのならば、竜は人の多い場所を狙って破壊行為を行うはず。ならば、町から離れ、他人のいない場所に移動するのだ、と考えたのである。
「これはどういうことなの? 何が起きたの、グリムナ」
女性が彼に話しかけた。それは、おそらく他の村人と同じように異変に気付いて外に出てきたのだろう、ミシティを連れ、赤ん坊を抱いたアムネスティであった。
「竜が……復活したの……? どういうこと、私は今回まだ誰も殺してないわよ……」
別にお前が誰か殺すと竜が現れるシステムではない。自分中心に考えるな。
「アムネスティか、すぐに村を放棄して避難するんだ。竜はおそらく、ここから一番人の多いローゼンロットに向かう。この村はちょうどその直線状にある。踏み潰されるぞ!」
「はぁ? 無茶言わないでよ!」
しかしアムネスティから返って来たのは意外な答えであった。グリムナは逃げるのが何故無茶なのか、と唖然とした表情を見せてしまうが、リカウスが補足するように説明する。
「グリムナさん、先ほど何故村長が傭兵に物資の供出を渋っていたか理解できますか? 今、村にある貯えを失えば、冬を越えることは無理だからです。しかも麦の収穫もこれからです。今、村を放棄して避難しろ、などと言うのは『死ね』と言うのに等しいんです」
そう。台風の時に老人が用水路の様子を見に行くのは好奇心から見に行くのではない。それが生きるために必要だから見なければならないのだ。土地を捨てれば、人は生きていくことは出来ない。村長もこの考えに同意を見せた。
「仮にあれが伝説の竜だとしても、この村を襲うかは分からん。ローゼンロットに向かうというのも憶測でしょう?」
憶測ではない。グリムナのこれまでに調べたことから、竜は確実に人を滅ぼしに来る。だが、何か物証があるわけではないのだ。説得の材料が足りない。
「そうよ。仮にローゼンロットに向かうにしてもあれだけ大きいなら、ホラ、うまく股の間に入って助かるかもしれないし」
アムネスティが半笑いで、やはり避難を忌諱する言葉を吐く。現実的に生きてゆけないという問題だけではない。正常性バイアスも働いているのだ。
『正常性バイアス』とは、認知バイアスの一種であり、非日常的な危険が迫った時に、自分に不利な因子を過小評価し、事態がまだ正常の範疇であると誤認知してしまう現象である。
思わずグリムナがアムネスティの胸倉を掴んだ。
が、結局それ以上どうすることもできず、何かしゃべろうとしたが言葉に詰まり、そのまま目を伏せた。
そう、もはやこの状態で彼に出来ることは何もない。魔法のキスは相手を自分の思い通りに操れる技ではない。戦いを止めることは出来ても避難させることは出来ない。
グリムナはそのまま地面に両膝をつき、懇願するようにみなに語り掛ける。
「……たのむっ! 避難をしてくれ!! 危険なんだ、ここはっ!!」
その姿を見かねてか、ヒッテも前に出てきてアムネスティと村長に話しかけた。
「村を捨てては生きていけないのは分かります。でも、竜に踏み潰されてしまえば確実に死にますよ! とりあえず避難をして、村に戻るかどうかはそれから考えましょう! 皆を集めてください!」
しかし村長は泣き出しそうな表情で視線を竜とグリムナ達の間を何度も行ったり来たりさせるだけである。彼自身、正直言って『村を捨てる』などと言う重大な決断を独自に下せるほどの権力はないのだ。所詮は村の『代表』でしかない。
「そ、そうじゃ、あんた達と傭兵で、何とかこの村を守ることはできんのか。それができるなら、いくらでも……」
おそらくそれはは愚にもつかない考え。
ハリケーンや地震相手に戦える戦士など居ようはずもない。あの、災害以上のものを相手に村を守ることなどできない。それはおそらく全長にして20km以上はあろうかという竜を前にして口にしてよい考えではないのだ。
そんなものはただの問題の先延ばし、座して死を待つことと何ら変わりない。
だが、その考えを村長が言い終わる前に再び地が揺れた。思わず周りの者達もみな膝をつく。とても立っていられないほどの揺れであった。
「竜が、動き出した……」
グリムナの表情が恐怖と焦燥に歪んでいた。
やはり、姿を現しただけでそのまま消えてしまったあの時とは、5年前とは違うのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます