第340話 喫尿

 夜になると随分と冷える季節になって来た。それも山の中での野営となればなおさらだ。


 グリムナ達は来た道を引き返し、ピアレスト王国との国境を越えていた。来た時に再会したベアリスのアジトに尋ねることはせず、そのまま真っ直ぐピアレスト王国の南端、オクタストリウム共和国との境にある国境なき騎士団の本拠地を目指す。


 一同の空気は重かった。それは食事も終わってもう寝るだけのまどろみの時間であるからかもしれなかったが、しかしグリムナとラーラマリアの久しぶりの里帰り、いや、凱旋と言っても良かったはずの帰郷がなんとも後味の悪い結果に終わったこともある。


 何よりも、いつもならこんな空気を嫌ってとりあえずくだらない事でも喋って気を紛らわせようとするフィーが存外に落ち込んでいることが影響しているかもしれない。


 毛布にくるまりながら少し頭を浮かすと、グリムナはそのフィーがいないことに気付いた。そう言えばラーラマリアもいない。まあ、ラーラマリアに限っては『もしも』ということなどあり得ないが。



――――――――――――――――



「眠れないの?」


 鈴虫の鳴き声が静かに響く中、その声は鈴虫よりもさらに透き通った、美しい声だった。呆けたような表情で、一人で月を眺めていたラーラマリアに声をかけてきたのは、褐色の肌の美女、フィーであった。


 こちらを振り向きはしたものの、思考のまとまらない麻薬中毒者のように一言も発しないラーラマリアに答えを期待せず、フィーは隣に体育座りして言葉を続ける。


「グリムナの婚約者? あなた一体どういうつもりなの?」


 その言葉にはびくっと震えて反応した。誤魔化しはきかない。


「私の情報だとグリムナと婚約してるのはヒッテちゃんのはずなんだけど? 記憶がないのをいいことに自分に都合のいいこと吹き込んでるんじゃないの? そもそも……」


 さらに言葉を続けようとしてフィーは思わず詰まってしまった。ラーラマリアが瞳に涙を浮かべ、今にも泣きだしそうだったからだ。


 なんなんだこいつは。前に会ったラーラマリアは、自分の足をへし折った女はもっと傲慢で不遜な女ではなかったか。会うたびにまるで別人のような顔を見せるラーラマリアにフィーは恐怖した。


「分かってるわよ……」


 体育座りして腕で自分の膝を抱え込んでいたラーラマリアは、その自分の腕に顔を半ばまで埋めて涙声でそう言った。


「しかも自分でグリムナを追放したくせに、でしょ? 自分勝手なのなんて、分かってるわよ……それでも」


 ぽろぽろと涙がこぼれた。


「それでも……好きなんだもん」


(卑怯やん……こんなん)


 フィーは思わず目をつぶって顔を逸らしてしまった。悲しそうに眉間にしわを寄せて、月明かりに輝く涙を流すラーラマリアの顔は、それほどまでに美しく、儚げであった。


(エルフみたいにかわいいやん……)


 お前や。


 しかしここで退いてはいけない。自分は一緒に冒険をしたヒッテの仲間なのだ。この大腿骨へし折り女の演技に騙されてはいけない。そう自分を叱咤激励してフィーは気力を振り絞る。


「あのねぇ、グリムナとヒッテの二人は愛し合っている、将来を誓い合った仲なのよ! あんたが入り込むすきなんてないんだから」


「でも、今はそうでもないでしょう? 倦怠期ってやつなんでしょう?」


「けん……」


 何か違う気がしたが。倦怠期ってそういうものなのか。記憶無くなるものなのか。


 正直その辺りは恋愛経験の乏しく、男女の仲の機微に疎いフィーにはよく分からない。倦怠期になっても普通は記憶喪失にはならないような気がするが。


「私はただ……」


 少し興奮状態になってフィーの方を向いて話していたラーラマリアは、再び自分の腕に顔をうずめて静かに呟く。


「グリムナに私のおしっこ飲ませたいだけよ……」


 なんだと。


「今回の村の件でよく分かった。私はやっぱり自分勝手で他人の事が思いやれない、最低な人間だ。グリムナと結ばれる資格なんてないのかもしれない。……だから、二人が記憶を取り戻すまでの間だけでいいの! 嘘の関係でも、胡蝶の夢だったとしても!」


 ラーラマリアは顔を上げ、フィーの方を睨んで涙をこぼしながらうったえた。


「ねえ! そんなにいけないこと!? グリムナにおしっこ飲ませるのが!!」


「…………いや……」


「どうだろう……?」


 断言できなかった。実際どうなんだろう。


 浮気の線引きというのはかなり人それぞれになる。他の女に見とれるだけでも烈火のごとく怒る様な女もいれば、自分にばれないようにやってくれれば外に女を作っても別に構わない、という女もいる。その視点で見た時。


 喫尿行為というのは、浮気にあたるだろうか。


(んんんん? どうなんだ……? グリムナがヒッテちゃんに隠れてこのイカレ勇者のおしっこを飲んだ場合、それは浮気行為に当たる……?)


 腕を組み、汗をにじませながら考え込む。


 分からない。


 分かるわけがない。ちょっと新しすぎる。


(仮に当たるとしても……それよりはケツの穴から汚水を飲む行為の方が浮気行為に当たりそうな気がしないでもない)


 ラーラマリアは不安そうな表情でさらにフィーに問いかけてくる。


「あなたは、グリムナが、私のおしっこ飲んだら……嫌?」


 ……別に嫌ではない。


 逆にちょっと見てみたい。


 目を閉じると、一口飲んでから、一瞬遅れて噴き出して咳き込むグリムナのリアクションが瞼の裏にありありと浮かぶ。


 むしろ超見てみたい。絶対面白い。



――――――――――――――――



 グリムナは毛布にくるまったまま、まどろむように半覚醒の状態で焚火を眺めていた。普段はフィーの呪術によって結界を張って、侵入者があれば分かるようにしているのだが、今は彼女がどこかに行っているので、一応警戒しているのだ。


「グリムナさん……」


「なに? ……ヒッテ」


 もぞもぞと毛布にくるまったまま芋虫のようにヒッテが少しグリムナに近づいて話しかけてきた。


 不思議な感覚を受ける少女であった。アンキリキリウムの町で会ったきり、他で会った記憶などないのだが、一緒にいると何故か心が安らぐ。ラーラマリアと一緒にいるときは(何をしだすか分からないという)妙な緊張感をいつも持っていたが、しかしこの少女の顔を見つめていると、年下だというのに、安心感すら覚えるのだ。


 そして、その気持ちはヒッテも同様であった。意識を失ってはいたが、トゥーレトンの村でオーガに襲われ、抱き上げられた時。


 あの時の安心感。できることならあの感覚をもう一度感じたい。だが、まだ知り合って数日しかたっていない男性に『抱きしめてくれ』などと言えるほどヒッテは恥知らずではない。


 そして、その前に、どうしても確かめておかなければならないことがあった。


「その……」


「なに? 何でも聞いていいよ」


 なぜか言いよどんでいるヒッテにグリムナは優しく質問を促す。ヒッテはそれでもまだ迷っていたが、やがて意を決して質問した。


「お尻の穴から汚水を飲んだって本当ですか」


「…………」


 グリム名は無言で自分の体を覆っていた毛布をはぎ取り、膝の上で奇麗に畳んだ。


「あのなあ……」


 そしてゆっくりと語りだした。


「ふっつうに考えてな。ケツの穴から水を飲むなんてあり得るわけないやん? それも汚水を。そんなことする意味ある?」


 水分補給である。


「ケツの穴から汚水を飲むとか、もう、ちょっとした大道芸じゃん。ていうか大道芸でそんな体張った意味の分からん事するやついないよ?」


 大道芸で胴体切断したやつがいたような気がするが。


「そんな奴がいたら会ってみたいわ!!」


 お前や。

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