第276話 酒場の歌姫

 ―アア ケトス バネ ケトス


 ―セティ ラクトス アド ラクトス


 ―セティ タレス ケリ タレス


 ―エリィ カネケトス タリ ケトス


 酒場に美しい、少女の歌声が響く。


 黒い絹のような美しい髪に、スレンダーな、均整の取れた美しいからだを質素な、あまり煽情的でないドレスに包んでいる。前髪が長く、目が隠れてしまっているのでどんな表情なのかは隠れてよく分からないが、しかし美しい顔立ちをしているのは誰の目にも明らかだ。年の頃は17か8かといったところだろうか。


 少女が歌い終えると、それまで水を打ったように静かだった酒場に拍手が溢れ、そして少しずつ元の喧騒が戻ってきた。


 歌い終わって店の中央からさがる少女に何人かの酔っ払いが気を引こうと声をかけたが、彼女はそれらに対して、特に嫌悪感を示すでもなく、しかしだからと言って愛想よく答えるわけでもなく無視して通り過ぎる。まさしく『一顧だにせず』という言葉がふさわしい塩対応であった。


「ちぇっ、相変わらずつれない女だなぁ……」


 客はわざと彼女に聞こえるように愚痴を言ったが、しかしそれでも彼女は眉一つ動かさなかった。


「女将さん、契約は今日まででしたよね?」


 少女はバックヤードまで来てこの店の女将に話しかける。女将は太った中年女性で、歯並びが悪く、いかにも下層階級の出といった雰囲気であり、寡黙で美しい少女とは対照的な空気であった。


「ああ、そうだね。ところで、考えてくれたかい? 例の話」


 そう言いながら女将は少女に金子きんすを渡す。


「歌った後、客を取れ、という話ですか? 何度も聞きますが、この店は風俗店の許可は取ってないですよね」


 『客を取れ』とは、もちろん、『体を売れ』という意味である。


「どこもやってることさ! あんたにだって悪い話じゃないだろう? どうだい? 『それ』込みで来月も契約しないかい?」


 酒場で、みなの注目の的となっていた、美しい声の少女を、今度は自分の腕の中で鳴かせる。毎日酒場に通うような男ども、それもその中で下愚かぐな者にとっては体の快楽と自尊心を同時に満たせる魅力的な話である。


 そして、その申し出は通常であれば女性側にとっても魅力的なはずであった。


 なにしろ本職の遊女のように一日に何人も相手にするわけではないし、歌姫としての給料の他に収入が増えて、もしかしたら客からチップもさらに貰えるかもしれない。


 しかし少女は女将の方にはもう振り向きもせず自分の荷物をまとめ、ずた袋の中に金子を入れてそれを肩に担いだ。


「返事くらいしたらどうだい!? 尋ねてんだろうが!」


 女将はそう言って少女の左手首を掴み、捻りあげようとした。


 女将は太っていることもあり、少女の倍くらいの腕の太さがあったが、しかし少女は掴まれた腕を時計回りにぐるっと回すと、手首を掴まれたまま相手の手首に指を軽くかけ、そのまま払う様に下に振り払った。


 女将は一瞬顔をしかめ、手首の拘束は驚くほどあっさりと解かれてしまった。


「答えるような価値のある問いかけだとは思いませんでしたので。前にも断ってますし」


 特に怒ったような様子はないが、少女はそう答えると、さっさと店を後にした。


 女将は舌打ちしてから急いで少女を追いかけたが、しかし店のドアのところで立ち止まり、彼女の背を憎々し気に睨むことしかできない。


「ちょっと若くてきれいだからっていい気になりやがって! 吠え面かかせてやる」


 女将の隣にはいつの間にか、先ほど酒場で愚痴をこぼした若い男が立っていた。


「ホントにいいんだな? 女将」


 その男は懐から銀貨を取り出し、にやにやとそれを眺めた。


「ああ。あいつに『男』ってもんを教えてやんな。あたしの見たところあいつは間違いなく『乙女』だね。誰かに貞操貫いてんのか知らねぇけど、まあ、一回やっちまえばあきらめもつくだろう」


「ヒヒ……おぼこを食えるうえに金まで貰えるなんてこんなうめぇ話ねぇぜ……」



――――――――――――――――――




 少女は借りている部屋へ帰る途中の夜道で足を止めた。アンキリキリウムという名の町、繁華街のすぐ近くではあるものの、一本道を外れればそこはもう闇の中、月明りがなければ歩くこともおぼつかないような世界。


 ふと空を見上げれば一面に満天の星空。


 しかし少女が立ち止まったのは星を眺めるためではない。


「何か用ですか」


 そう言いながら振り返ると、すでに男の両手は彼女の数センチのところまでに差し迫っていた。


 男の手は彼女の両手首をがっしりと掴んで、そのまま押し倒してきた。倒されながらも少女は、荷物袋をゆっくりと地面に置いて男に問いかける。


「もう一度聞きます。何か用ですか」


「へっ、カマトトぶんない! こんな夜中に女を押し倒す男の用なんて一つしかねぇだろがい」


 男は下衆な笑みを浮かべながら興奮した様子でアルコール臭い息を吐きかけてくる。少女はその匂いに思わず顔をしかめたが、男の方はそうやって彼女が滅多に見せない『感情』に余計に興奮したようだった。


 さらに息を荒くしながら少女の固く閉じた両足に自分の下半身を楔の如く割り込ませようとしてくる。


「嘗められたもんですね……」


 そう言いながら少女は両足を広げ高く掲げてきた。


「ひっ……なんだ、意外に協力的じゃねぇか、ホントはおめぇも欲しかったんだな」


 男がにやけながらそう言ったが、しかし少女は男の右手を掴んだまま左足を男の右肩にかけ、右足はそのまま左肩ごと挟み、その上で左ひざを曲げ、右足にかけて固く『ロック』した。


「!?」


 ようやく男も異変に気付いたが、しかし気づいたところでもう遅い。


 『三角絞め』である。


「このまま首をへし折ってやってもいいですけど……」


 ぎりぎりと万力の如く締め上げていた脚の拘束が少し緩んだ。


「殺すのも、落とすのも、それじゃつまらないですね」


 本来は自分の内腿と、引き込んだ相手自身の肩を使って首の両側の頸動脈を絞め、ものの数秒で意識を落とす技であるが、少女はほんの少し拘束の力を緩めており、しかし逃げることはできない。


 男は「フーッ、フーッ」と苦しそうに息を吐いて、涙を流している。下層階級の出身なれば、喧嘩如き日常茶飯事。されどもそれはあくまで殴り合い蹴り合いの話。このような『技』をかけられたのは生まれて初めてであった。


 自分よりもはるかに力の弱いはずの女に拘束されて身動き一つとれない、その異常事態に恐怖していたのだ。


「どうせならしばらく長い間後悔できるような怪我がいいですね」


 そういうと少女は腹筋を使って男の体を引き上げ転がり、うつ伏せにさせ、その背中の上に乗る様に陣取る。転がりながら両足は解いたが、しかし手の拘束は緩めることはない。


 ボグッ


 鈍い音と共に男の肩が外れた。


「あがあぁぁッ!!」


「肩が外れてるだけじゃないですからね、靭帯も切れてると思いますからしばらく不自由な思いを……」


 そこまで言って、少女の頭に、何か……ちらつくように記憶がほんの少しだけ蘇るような、そんな感覚があった。


『だからってやりすぎだ……ひどいな、靭帯が断裂している』


 その言葉だけが思い出されたが、それがどこで、いったい誰から聞いた言葉だったのか、それは全く思い出せなかった。


 それがいったい何の記憶だったのか、それ以上は思い出そうとしても頭にもやがかかったようにはっきりとしない。しばらく彼女は男の腕をポロリと取り落として呆けていた。男の上に座ったまま。


 しばらくそうしたまま思い出そうとしていたのだが、やはり思い出せない。


 仕方ないので、少女は立ち上がり、男に対して捨て台詞を吐いた。



「もう何も、ヒッテからは……奪わせません」

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