第106話 いっき

「さあて! 今日はプールの仕上げですよ!!」


 次の日の朝、結局グリムナ達は流れでベアリスの住居の完成まで付き合わされる羽目になってしまった。フィーは手伝うのがよほど嫌だったのか「完成パーティーのための御馳走を取ってくる」と言って朝から狩りに出かけてしまった。

 しかしもはやそれを咎めるものはいない。昨日は結局逃げておきながらベアリスのスネアトラップにかかったウサギをパクってきていた。彼女に関してはみんなもう色々と諦めているのだ。


「というわけで、私たちは水を汲みに行ってますので、バッソーさんは塗装をお願いします」


 と言って、籠一杯の草を差し出した。彼女が言うにはこの草をすりつぶして塗るだけで染料になるという。バッソーは怪訝な顔をしながらもプールサイドに草を広げてそのまま手ですりつぶし始めた。プールの水を入れる予定の部分にはすでに青い塗装が施してある。その間にグリムナ、ヒッテ、ベアリスは不揃いな大きさの瓶を持って水を汲みに出かける。


「それにしてもベアリス様の適応力はすごいですね……」


 歩きながらグリムナが彼女にそう話しかけた。適応力、とはもちろん王族から野人にまで成り下がった彼女の生活適応力の事である。市民を前に『パンがないならブリオッシュを食べればいいじゃない』と発言して反感を買った女が、今は『肉がないから虫を食べてる』のである。


「まあ、人間慣れれば慣れるものですよ。『生きよう』と決意した時の人間の力っていうのはすごいんですよ?」


 二人が話しているとヒッテも会話に参加してきた。本来なら奴隷と王族、会話どころか目を合わせることすらかなわない二人であるが、縁とは不思議なものである。


「ああいうサバイバルの知恵っていったいどこから仕入れたんですか? まさか王族だった時にそんなこと勉強してないですよね?」


 確かに尤もな疑問である。ベアリスはう~ん、と少し天を仰いで考えながらゆっくりと答えた。


「スネアトラップの作り方は確かグリムナさんに教えてもらいましたね。家庭教師の時の雑談って感じでしたけど」


 少しグリムナが気恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻く。


「あとは、そうですね、アンキリキリウムにいたホームレス仲間のおじいさんたちに教えてもらいました」


 薄々分かってはいたものの、やはりホームレスたちと共同生活をして生計を立てていたのだ。こういった社会の最底辺の人間たちは何の保証も蓄えもなく生きている。それはつまり怪我や病気になれば即座に飯が食えなくなって死ぬことを意味するのだ。そう言った人々が寄り添って共助により生きていくのは至極当然の仕儀ではあるのだが、グリムナからすればうら若い元王族の乙女がむくつけきホームレスの男どもと共同生活など考え難い状況である。


 途端に彼女の貞操が心配になってきた。女は生活ができなくなれば売春宿に身を売る。結果として路上生活者というものは男社会になりがちなのだ。そんなところで何ヶ月も暮らしていたなどと……グリムナは思わず眉間に皺を寄せてしまうが、ベアリスはその感情にも気づいたようである。


「あはは、安心してください。みんないい人達でしたよ」


 ベアリスは遠い目になって歩みを止めずに上の方を向きながら話す。


「主人を殺して逃亡奴隷になったフェーデルさん……事業に失敗して女房と子供を売春宿に売り飛ばしたアールヴェンさん……南の小国で詐欺師をして国にいられなくなったって言ってたコッコトールさん……みんな元気にしてるかなぁ……」

「碌な奴がいねぇじゃねえか」


 思わずグリムナがため口で突っ込みの声を上げてしまったが、彼女はもはやただのホームレス。それを咎めるものなどいない。


「本当にいろいろなことを教えてもらって、彼らの教えが今でも私の中に生きているんです。そうやって、人と人との出会いが人間を成長させるってことに気づいたんです」


「そうですね……」


 グリムナは思わず柔らかい表情になって笑みがこぼれた。彼女が王都でニートになっていることを知った時はどうしようかと思ったが、いや、今の状態もそこそこ問題があるポジションではあるが……いや、そこそこではなくかなり大問題な社会地位にまで落ちてしまったが、それは置いておいて、彼女は確かに人間として成長しているのだな、と確認した。


「たとえばですね……」


 ベアリスが歩みを止め、地面に瓶を置いてから何かを拾い上げた。小さすぎて最初は良く分からなかったが、まじまじとグリムナがそれを見てみると、それは小さな黒い虫であった……彼は、嫌な予感がした。


 ベアリスはその黒い小さな甲虫をぱくりと食べて咀嚼し始めた。


「んむ……んぅ……」


 やはり……彼女の持っているのが虫だと分かった時点でグリムナは嫌な予感がしていたが、その予感が当たったのだ。しばらく苦痛に歪んだ表情で咀嚼していると、ベアリスは口の中に含んでいたものをベッと吐き出し、何度も何度も唾を吐いた。


「ペッ……ベベッ……うぇ~、ブベッペッ……オ゛エ゛エェェ……」


 何が彼女をここまで駆り立てるのか。


 しばらくしてもまだ彼女はぺっぺっと唾を吐いていたが、やがて落ち着いたようでグリムナに話しかけてきた。


「とまあ、こんな風に食べられない虫は、食べた時に口内に刺すような刺激があるんで、それで食べられるかどうか判断できます。……はい、どうぞ」


 と、言って彼女はグリムナに今口に入れたのと同じ甲虫を差し出した。


 『どうぞ』とは……


 『食え』ということだろうか。


「いや、今ベアリス様が食べて、毒があるって分かったんですよね? じゃあもう食べる必要ないじゃないですか!!」


 確かに彼の言うことは理屈が通っているように見える。しかしここで退くベアリスではないのだ。


「そうです。これは毒があります。でもですね、毒があるものがどういう味か知っていなければイザという時、それが毒かどうかわからないじゃないですか?」


 なるほど


 道理である


 グリムナは押し黙ってしまった。その『イザという時』が来なければ一番良いのだが、しかし来ぬとも限らぬ。さりとて食いたくなどない。されども道理は通っておる。思案のしどころである。

 やがて考えあぐねていると、とんとんとヒッテが肩を叩いた。


「ご主人様……男の見せ時です」


 この女は……本当に誰の味方なのか


「お前本当にいい加減にしろよ!」


「グリムナの!」


 突っ込みの声を上げた瞬間ベアリスが大声を出し、一瞬彼はたじろいでしまった。そこに今度はヒッテがベアリスと声を揃えて囃し立てる。


「「ちょっといいとこ見てみたい!!」」


「「そーれ、 一気! 一気! 一気! 一気!!」」


 もはや盤面は『詰み』である。


 グリムナは意を決して虫を口に放り込み、噛み潰す。ぶちっ、という嫌な感触とともに刺すような痛みが口内を犯す。思わず眉間に皺をよせ、苦虫を噛み潰したような……いや、苦虫を噛み潰した顔になった。


「おべえぇぇ……ベッベッ! カハッ、プッ、ぶぇ……」


「グリムナさんをからかうと本当に楽しいですね……」

「わかります」


 ベアリスとヒッテの二人は何やら満足したようで、また瓶を拾い上げて道を歩き始めた。グリムナは歩き始めてからもまだ涙目でぺっぺっと唾を吐いていたが、ベアリスはもう平気なようであった。やがてしばらく歩くと綺麗な流れの小川にたどり着いた。ここは湧き水がわいており、きれいな水だとベアリスが言う。昨晩の食事の時に飲んだ水も元々はここから汲んできたものだそうだ。


 それぞれの瓶に水を汲んで、来た道を引き返す。


「なんだか悪いですね。プールは完全に私の趣味で作ってるものなのに付き合わせちゃって……」


 そう言ってベアリスは少しはにかんだ。日に焼けて、髪もバサバサ、手も豆だらけでごつごつしている。着ているワンピースは泥まみれで真っ黒である。それでもその笑顔だけは相変わらず眩しかった。

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