第418話 山の教会の聖者
トゥーレトンからさらに西に向かい、フェラーラ同盟の首都機能のある街、海洋都市ベルシスアーレ。そこまではいくつもの山を越えることになるが、その最初の山にある小さな打ち捨てられた教会にグリムナとヒッテは宿泊していた。
教会と言ってもところどころ壁が破れ、屋根に穴が開き、少なくとも十年以上は使われた形跡のない、教会というよりは『教会跡』である。宿直室か、奥にある小部屋のベッドも随分汚れてはいたが、しかしそれでも野宿よりはマシだ。
グリムナ達は、さらに西進して、まだ竜の被害を受けていないフェラーラ同盟側の都市にも避難を呼びかけようと考えていたのだが。結果的には故郷の村を再び追い出され、日も落ちた山道で途方に暮れているときにこれを見つけたのは僥倖ともいえるように感じられた。
次の日の朝、また旅に出るため、ベッドから降りてグリムナは立ち上がろうとしたのだが、ぐらりと視界が揺れた。そのままどん、と床に膝をつき、両手をついてしまった。
ヒッテがグリムナの名を叫んで慌てて彼を支えようとするのだが、どうも様子がおかしい。これまでにも疲労からバランスを崩してよろけることなどがよくあったのだが、どうもそれとは違う。
いくら時間が経っても、回復しない。立ち上がれない。どうやら三半規管が異常をきたしているようだ。グリムナはそれを理解して自分に回復魔法をかけるが、それでもやはり立ち上がれない。
「グリムナ、焦らないで。今はゆっくりベッドで休みましょう」
そう言ってヒッテは彼の体を抱き上げ、ベッドに寝かせた。彼女は、この異常に心当たりがあった。
おそらく、体に異常はない。
ボロボロなのは、心の方なのだ。三半規管にはおそらく物理的な損傷はない。精神の不調から、それが正しく機能していないのだと。
目的に向かって突き進んでいる間はそれも誤魔化しが効く。しかし竜の前に自らの無力さを思い知り、信じていた仲間の助力も得られず、とうとう彼の心は限界を迎えてしまった。
数日そこで足止めを喰らっていると、ある日の夕方、グリムナを訪ねてきた人間がいた。
「ここに……回復術の使える方がおられると聞いて……」
疲れ果てた様子の夫婦、歳は三十代後半といったところか、まだ小さい男の子をその腕に抱いている。トゥーレトンで聞いたのか、それともベアリスの亡命政府を頼って来た避難民なのか。よく見れば少年は足と腹に怪我を負っているようで、辛そうに呼吸をしている。
教会の入り口で対応したヒッテがチラリと後ろを振り向くと、グリムナがよろめきながらも歩み寄って来た。この頃には少し回復したのか、それでも午前中は殆ど寝所から出られないことが常であったが、午後になれば少しは動き回ることもできるようであった。
「酷い怪我ですね。危ないところでした」
グリムナが手当てをすると少年の傷口はふさがり、浅かった呼吸も落ち着いてきた。
「感染症が心配ですが、回復魔法で抵抗力を上げてあるのでその内全快すると思います。ゆっくり休んでいってください」
夫婦は繰り返しグリムナに礼を言い、二日ほど教会に寝泊まりしてから返っていった。
その夫婦が噂を流したのかどうかは分からないが、それを皮切りにグリムナのいる教会にはひっきりなしに怪我人、病人が訪れるようになった。
一部の病気や末期の感染症を起こしている怪我ではグリムナもさすがに手の施しようがなかったが、しかしそれでもグリムナは避難民たちに出来る限りの治療を施していった。
ヒッテは最初のうちはグリムナの体調を心配してどうにかして治療を断ろうとしていたが、けが人の手当てをすることでグリムナの精神も少し復調しているように感じられたので彼と一緒に怪我人の手当てを手伝うようになっていた。
(このまま……竜がどこかへ行ってくれないだろうか)
ヒッテはそんなことをぼんやりと考えていた。
伝承によれば、400年、竜は数ヶ月の間破壊の限りを尽くし、やがて満足したのか何の前触れもなくどこかへと消えたという。
この数日間、どこかへ移動することもなく、この廃教会で過ごす時間は、ヒッテにとって、グリムナとの初めてのゆっくりとできる時間であった。
相変わらずグリムナの精神状態は良くはなかったが、しかし旅をするときのように危険なことはないし、避難民が治療費代わりに差し入れを持ってきてくれるので食うにも困らない。
怪我をした避難民は「さすがにそれは悪い」と思っているのか、教会の建屋内には入らず、夜は敷地内の空き地で過ごしている。
全ての魔力を使い果たし、その日の治療を終えてグリムナが部屋でベッドに座って白湯を飲んでいると、隣にヒッテが腰かけた。グリムナはカップを脇にある机に置いてヒッテに優しく声をかけた。
「今日もお疲れ様、ヒッテ」
グリムナの穏やかな表情を見て安心したヒッテは、体重を預けるように頭をトン、とグリムナの肩の上に乗せる。グリムナはゆっくりと、ヒッテの頭を撫で、髪を梳くように指を通した。
その香りを確かめるように、グリムナはヒッテの頭に顔をうずめる。
(これは……いけるんちゃうか……)
ヒッテがグリムナの胸に手を添える。随分とやせ細ってしまったように感じられた。
「本当に手当てが必要なのは……グリムナの方なんです」
これはヒッテの本心からの言葉であった。避難民のけがの手当てばかりしているグリムナであるが、一番傷ついて、助けの手が必要なのは、彼自身なのだと。近くで見ているヒッテだけが分かっていること。
ヒッテはゆっくりとグリムナに体重を預け、ベッドに仰向けに横たわらせる。
(いける……!!)
そのまま彼に覆いかぶさって口づけをしようとしたヒッテであったが、プッ、とグリムナが噴き出して笑った。
(チッ、いけへんかった……)
心の中で舌打ちをしたのはヒッテである。
「何が可笑しいんですか」
口をとがらせ少しだけ頬を膨らませる。
「いや……初めて出会った日の夜を思い出しちゃってさ……ヒッテは、あれも覚えてないんだな」
ヒッテは覆いかぶさろうとしていた姿勢のまま小首を傾げる。小動物のようなその可愛らしい姿にグリムナにまた笑みがこぼれた。
「ヒッテを買った日、お前は俺を誘惑しようとして来たんだよ」
「そっ……そんなことを? ヒッテはその時、12歳くらいですよね……?」
「しかも次の日の早朝にグリムナが寝ている間に荷物を持ち逃げしてね……」
そう言って笑った。
(……ヒッテのバカ! こんないい人に何ちゅうことを……)
過去の自分の厚意に首を絞められるヒッテ。しかしグリムナの言葉に少し違和感を受けた。
「今、自分の事を名前で……?」
その瞬間であった。グリムナの表情がキッと締り、上半身を起こして耳の後ろに手のひらを当てて集中する。
「ど、どうしたんですか、グリムナ……」
「足音が聞こえる」
急に雰囲気の変わったグリムナにヒッテは戸惑う。足音とは何のことか。教会の外には大勢の避難民がいるのだから足音くらいはするかもしれない、と考えたのだが、しかしその足音、いや、地響きが段々とヒッテにも感じられるようになってきた。
「竜が、近づいてきている……」
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