第419話 手を取り合って

 一瞬は、気の迷いか何かかと考えた。


 だが違う。この山に逃げ込んで来た避難民はみな、竜の惨禍から逃げてきた者達だ。が間違いなく竜の足音であると、すぐに確信した。あの恐怖の足音を、死の近づくさまを、忘れるはずもない。


 来る。


 竜が来る。


 ここに来るのかどうかは分からない。いや、普通に考えればここへなどはこないだろう。グリムナに救いを求めて避難民が集まっているものの、それほど多くのコロニーを形成しているわけではない。


 しかし冷静でなどいられない。みな、あの恐怖を味わってきた者たちなのだから。足音からまっすぐに逃げてはすぐに追いつかれる。荷物をまとめ、子供を抱きかかえ、足音の近づいてくる方向から垂直に曲がって逃げていく。それこそ蜘蛛の子を散らすように。


 逃げなければ。


 当然グリムナもそう思ったのだが、恐怖からか、足が動かない。立ち上がろうとベッドから降りて、そのまま膝をついてしまった。


「グリムナ! 大丈夫? 立てる?」


 急いでヒッテが彼を支えようとするが、さすがに成人男性一人を抱え上げて逃げるほどの体力はヒッテにはない。


 避難民たちの上げていた悲鳴や喧騒はやがて鳴りを潜め、そして竜の足音はどんどん近づいて来る。何という事か、置いて行かれてしまったのだ。


「ヒッテ……お前だけでも、逃げ……」


 言い終わらせずに、ヒッテは自らの唇で、グリムナの口を封じた。


 彼の両手を包み込むように握って、じっとグリムナの目を見る。


「ヒッテが……こうして、ずっと両手を握っていてあげますから。……だから、大丈夫です」


 グリムナが何かを言おうと口を開けるが、しかしその上にヒッテが被せる。


「大丈夫なんです」


 段々と揺れが、地響きが大きくなっていく。雷のような竜の唸り声が聞こえる。


 二人は床の上に座ったまま、ベッドのふちに寄りかかり、ただ、手を握っている。不思議と、二人の表情に不安の色は見えなかった。グリムナを安心させるためなのか、ヒッテはずっと柔らかな笑顔を浮かべている。


「覚えていないかもしれないけれど……」


 地響きでほとんど聞こえなかったが、グリムナが口を開いた。聞こえているかどうかが重要なのではない。覚えているかどうかが重要なのではない。


「5年前、君は何度もグリムナを助けに来てくれた……国境なき騎士団と戦った時、ボスフィンでヤーンに精神潜行サイコダイブをした時、ローゼンロットで戦っていた時も……」


 ヒッテはゆっくりと頷く。


「本当に、嬉しかったんだ。俺は一人じゃなかったんだ、って……ずっと」


 その瞬間落石が教会の屋根を突き破り、轟音に驚いた二人が身をすくめる。この教会は崖沿いにあるわけではない。おそらくは竜が巻き上げた飛礫つぶて。大分近づいている証拠だ。


「子供のころからずっと……自分はこの世界で一人なんじゃないかと思っていた」


 グリムナが話し続ける中でも、落石は容赦なく教会の屋根を壁を襲い、地響きが鳴り響く。ヒッテはグリムナの手を握ったまま、無言でこくこくと頷いて彼の話を聞き続けた。


「人の命も、そうでないものの命も、失ったら決して取り戻せない大切なものだと思っていたけど、他の人は……そうは思ってないみたいで

 俺だけが、人と違う考え方をしていることに、ずっと疎外感を感じていた……」


 ヒッテもグリムナも、瞳に涙を浮かべている。


 巻き上がる土砂の音と、竜の歩く地響き以外には何も聞こえない。外の避難民はもうとっくの昔に散り散りに逃げ出したのだろう。


 まるで、崩壊する世界の中、二人だけが生き残ったようであった。


 ヒッテは、幼い頃に母親を失っている。父親は誰だか分からない。奴隷として他人にただ命令されるだけの人生。横目で親と戯れる自由市民の子供を見ながら、『自分はこの世界でたった一人なのだな』と、感じていた。


 だが今は違う。いつの頃からか、転換点があったはずなのだ。はずなのだが、それが思い出せない。


 それを覚えていない自分が情けなくて、憎らしかった。


 フィーから聞いた通り、それがグリムナを助けるためだったとしても。


「ラーラマリアもそうだ」


 グリムナがヒッテと両手を繋いだまま、パラパラと埃を舞い落しながら震える天井を見て、そう言った。


「あいつはあの通り、能力も性格も、孤高の存在だったからな……親からも忌諱されて、人と一緒にいるように見えても、あいつはずっと一人だった」


 グリムナはヒッテに視線を戻して言葉を続ける。


「一度……ヒッテとラーラマリアが重なって見えたことがあったんだ。

 孤独で寂しくて……この世界に絶望している……そんな姿が似ていたのかも……いや、違うな」


 教会は今にも崩れて来そうであり、相変わらず外では地響きと、巨大な掘削音が聞こえる。竜はもうだいぶ近くまで来ているようだ。しかし、二人は動かない。


 今にも壊れそうなこの世界で、穏やかな表情を浮かべ、ただ、言葉を交わす。


「みんなみんな一人なんだ。ひとと繋がる方法も無くて寂しくて怖いから、だからこんな化け物を生み出してしまった」


 グリムナは再び、今にも落ちて来そうな天井を見上げる。


「こんな形でしか、人と繋がることができなかったんだ」


「……ヒッテも、不安なんです」


 静かに黙って話を聞いていたヒッテが口を開いた。


「ここで難民の手当てをしている間、ずっと思っていました。この静かな時間が、永遠に続けばいいと。もし、竜が来なければ、ずっとここでゆっくりと、二人で暮らしていきたいと。」


 ヒッテはグリムナの顔を見上げる。


「分かっているんです。自分が浅ましい感情を持っているって。

 グリムナは世界中の人を等しく助けたいと思っています。でもヒッテは、グリムナの事が一番大切なんです……時々思うんです。ヒッテは、グリムナにふさわしくない、と……」


「そんなことは……」


 ヒッテの言葉を否定しようとしたグリムナ。しかしヒッテはさらにその言葉に被せて言葉を続ける。


「思うんです……グリムナが、ヒッテを傍に置いておいてくれるのは『憐れんでる』だけなんじゃないのか、って

 情けをかけているだけなら、どうかヒッテを置いて行ってください。グリムナの足を引っ張るような真似だけは、したくないんです」


 縋るような目。


 感情が溢れてきて止まらない。彼が自分に向けている眼差しは慕情でもなく、情欲でもなく、ただただ憐憫なのではないのか。その思いがずっと消えないでいたのだ。


「ヒッテはグリムナから多くの物を貰いました。でもその恩を返せていないどころか、して貰ったことを覚えてすらいない……せめて足手まといにだけは、なりたくないんです……」


「ヒッテ……」


 グリムナはゆっくりと右手で、ヒッテの髪をかき上げて、左の頬を優しく撫でた。


「結婚しよう」

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