第420話 結婚式
竜の足音が聞こえ始めてから6時間ほどが経っていた。
いつの間にか地響きは通り過ぎ、山の中は静けさを取り戻していた。
二人は一晩中、崩れゆく教会の中、竜の巻き起こす土砂の雨と地響きの音に耐えながら、両手を握り合い、語り合っていた。
たとえ世界が崩れ去り、竜が全てを飲み込もうとも、この手だけは離してはならないと。
辺りが静かになったことに気付き、二人は手を取り合って礼拝室に移動する。グリムナが先導して、危険がないことを確認してからヒッテの手を引く。
もう冬も近い。冷え込んだ空気の中、二人を繋いでいる手の先だけが暖かい。礼拝室に入ると、空には星が光っていた。屋根は大部分が落石によって欠落しており、
「ホントに……皆、いなくなってしまいましたね」
ヒッテがそう呟くと二人は顔を見合わせて笑った。
全くその通りだ。
みなは竜から避難するために散り散りに逃げて行ったというのに、自分達はいったい何をしているのか。東の空は少し白んできているような気がするが、明かりは屋根の空いた穴から差す月明りだけ。
その青白い光に照らされて輝くヒッテの艶のある黒髪を撫でて、グリムナは先ほど宿直室で囁いた言葉を再度口から発した。
「ここで、二人の結婚式を挙げよう」
ぽろりとヒッテの頬から涙が流れた。
「涙が出るほど嫌だった?」
「バカ……」
ヒッテはぎゅっとグリムナを抱きしめ、その胸に顔をうずめた。しばらく二人はそうして抱き合っていたが、やがてゆっくりとグリムナが顔を上げ、口を開いた。
「さて、何が必要かな……村の結婚式の時は司祭に任せてたからあまり覚えてないな……ブーケ、花はいるよな」
立会人の司祭も、来賓もいない。親族ですらいない二人きりの結婚式。
時折屋根の残骸が落ちて来る。白みかけてきている空の下、ボロボロの廃墟となった教会の中で、二人は結婚式の準備を始める。
ヒッテは敷地内の花を摘んでブーケを作った。その束の中の一つを引き抜いて、グリムナはヒッテの身身の上にさした。
「これじゃ少し寂しいな」
そう言うとグリムナはすぐに外に出てシロツメクサの花を大量に摘んできて、手早く花冠を作った。
「さすがにドレスはないから、せめてこれくらいは、ね」
そう言ってグリムナはヒッテの頭の上に
二人は教会の中に戻って準備を続ける。
説教用の教壇のそのさらに奥、豊穣の女神ヤーベの像の前にはからからに干からびて、もはやドライフラワーどころかボロボロに崩れて塵になりそうな麦の穂と、さび付いた小さな鎌が飾られている。
宿直室の奥から見つけたこれはおそらくこの教会がまだ使われていた頃、祭事用に用意されていたものであろう。麦の穂と鎌は豊穣神ヤーベを象徴する重要なアイテムである。
二人は教壇の前で向かい合って立つ。天井から差す月明りに照らされた、花冠をかぶってグリムナを見上げるヒッテは精霊のように美しかった。
「結婚の誓いの言葉、グリムナは分かりますか?」
グリムナは少し困ったような笑顔を見せる。
「覚えてないな……まさか自分が結婚することになるとは思ってなかったから」
「うふふ、ヒッテも分からないです。結婚式なんて出たことありませんし。それに……」
ヒッテは空を見上げてから言葉を続ける。
「ヒッテ達が誓うのは神前というのも、少し違う気がしますね……」
「そうだな……」
二人は神を見たことはないし、残酷な運命を迎え、逃げ惑う人々を前にしても何の御力も行く道も示さない神を、信じてもいない。
二人が見た唯一の神は、死神ウニアである。
「誓うのは神なんかじゃあない。二人の名に懸けて、誓うんだ」
「あっ」
何かを思い出したヒッテが、急いで礼拝室から出ていき、しばらくして戻って来た。手には小さな木箱を握っている。
「その箱は?」
ヒッテは問いかけられても言いにくそうにもじもじとしていたが、やがて覚悟が決まったのか、ゆっくりとふたを開けて、その中身をグリムナに見せた。
「指輪……? こんな高価な物、いつの間に? まさか、またどっかから盗んで……」
「ちっ、違います! ベアリス様から貰ったんです!」
「ベアリス様から?」
「あっ……えへへ」
言わなくてもいいことを言ってしまう。別に大したことではないのだが、ヒッテは笑ってごまかした。
「こんなものまで用意してくれてるなんて……女の子に用意させるなんて、結構ダメだな、俺。……というか、ベアリス様に貰った物って絶対に誰かに贈り物にされるさだめなんだな」
グリムナはゴホン、と口に手を当てて咳払いし、教壇の前でヒッテの方に向き直った。教壇の上には先ほどの指輪の入った木箱と、小さなカップが置かれている。
グリムナはそのカップに入った
「ええ~、汝ヒッテは此の者、グリムナを夫とし、
「ち、誓います……ええと、汝グリムナは此の者、ヒッテを妻とし、二人の愛が続く限り、土と還るその時まで、守り抜く……ことを……」
グリムナは故郷の村で知り合いの結婚式に出席したことはある。ヒッテは結婚式に出たことはないが、どんな宣誓をするかは噂くらいでしか知らないのだが、分かる範囲で適当に宣誓の言葉を言いかけて、そして途中で止まってしまった。
「わたし……」
「どうした? ヒッテ……」
「わたし、こんな宣誓を……どこかで、したことがあるような……」
どこの記憶だったか、何の記憶だったか。細かいところは思い出せないが、しかし確かに自分の中のどこかに、間違いなくこの記憶はある。
しばらくグリムナはそのヒッテの様子を興味深げに眺めていた。しかし彼女がいくら思い出そうとしても思い出せないのが分かったようで、ゆっくりと語りだした。
「それは、二人が初めて出会った時の……奴隷契約をしたときの記憶だよ」
「奴隷……」
一瞬嫌な顔を見せたが、しかしグリムナの顔を見上げてヒッテは言葉を続ける。
「やっぱりヒッテは、記憶を取り戻したいです……グリムナの事を覚えていない自分自身がヒッテは許せな……」
「誓います」
ヒッテの言葉を途中でグリムナが止めた。ヒッテの唇に人差し指を当て、笑顔で言葉を続ける。
「グリムナは、ヒッテの庇護者として、その存在を守ることを、誓います。
6年位前になるかな……あの時も、そう答えた」
グリムナは木箱から小さい方の指輪を取り出して、ヒッテの指にはめた。ヒッテは暫くはめられた指輪を、呆けたようにボーっと眺めていたが、ハッと気づいてすぐに自分も指輪を木箱から取り出して、グリムナの指に、同じようにはめた。
しばらく無言で見つめ合う二人。やがてグリムナはゆっくりとヒッテの頭に被せられた花冠を外す。本来は花嫁のヴェールをめくり上げるところであるが、そんなものは当然この廃墟にはないので代わりに花冠を外し、それを教壇の上に置いた。
(ああ……多分、この続きは……)
ヒッテは顔が真っ赤になった。以前に
穴の開いた教会の壁から柔らかな朝日が差し込んでいた。月明りの光の柱はいつの間にか消え去っており、竜の去った山の中では、昨日の朝と何の変りもなく、同じように朝日が昇り始める。
「過去のことは分からなくても、今日の事は絶対に忘れないだろう……それで充分だ
それだけで、俺は戦える」
その言葉に、ヒッテは涙を流した。
ああ、
この人は
まだ、戦う気なのだ。きらきらと黄金に輝く朝の雲に囲まれながら、グリムナはヒッテにゆっくりと口づけをした。
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