第175話 前夜祭

「返せ! 返せ!! 私の家を! 私の生活を返せ!!」


 メキの母親は涙を流しながら力なくヤーンを叩き続ける。ヤーンはそれを呆然とした目で、どこか他人事のような、そんな表情で見ていた。


「あんたが来るまでは、みんなうまくやってたのに……あんたが来たせいで……あんたがいたせいで……」


 もはや語尾に『にゃ』をつけることも忘れて幽鬼の如き表情でヤーンをぽかぽかと叩きながらつぶやき続ける。しかしその母にメキが掴みかかって止めた。


「みんなうまくやってた? ふざけないで!! いったい私たちのどこが『うまくやってた』っていうのよ! 毎日毎日マフィアの影におびえながら生活して、稼ぎはみんな搾り取られて! 一般市民にすら差別されて! 外じゃ『ケモノ』と罵られて! 家じゃ親に殴られる!! そんなのを『うまくやってた』なんて言わないわよ!!」


 それは、メキが初めて見せた、親への『抵抗』であった。メキの両親はそれに驚き、目を丸くしている。彼女がこんなに大きな声で親の注意を引くのは、赤子の時以来ではなかろうか。


「……ヤーンがね……私が親に暴力を振るわれてるのを不思議がってたのよ……私は絶望したわ……親が子に暴力をふるうのが普通の事じゃないって……その時はじめて知ったのよ……

 知ってた……? 親子って愛し合うものらしいのよ?」


 一転してメキは今度は静かな口調で語り掛けるが、しかしその表情はすでに正気を疑わせるようなものであった。


「う……頭が、痛いです……」


 その狂気の感情にあてられたのか、ヒッテが膝をつきながらそう呟いた。グリムナはすぐにヒッテの背中をさすって彼女を気遣ったが、メキの方が心配だ。まだ彼女と母親は何やら言い争っているし、ヤーンはさっきの姿勢のまま呆けており、これもまた正気なのかどうか疑わしい。とにかくメキとその両親を止めなければ、そう思ってヒッテをフィーに預けてメキたちのもとに駆け寄った。


「落ち着いて、落ち着いてください。メキ、それに親御さんも! こうして全員無事だったんです。家は燃えてしまったかもしれないけど、みんな生きてるじゃないですか! これから三人で、ヤーンも含めて四人で生きていけるじゃないですか! 住む場所だってここじゃなくたっていい! とにかく生きてさえいれば……」


「あんたに何が分かるにゃ!!」


 このグリムナの仲裁に怒りを爆発させたのはメキの父親であった。こっちはまだ語尾に『にゃ』をつける余裕があるようだ。


「あんたは旅人か!? 根無し草のあんたに俺達の苦しみが分かるのか!? 家を失って、家族が生きていけるわけないだろう!! ある日突然生活基盤をすべて失って、生きていける奴なんていないんだにゃ!!」


「いや……えと……一人、そういう人を知ってますが……それまで王宮暮らしだったのにある日突然追放されて、今は元気に野山で虫を食ったりして力強く生きていける人も世の中には存在するんで……」


 グリムナはある少女のことを思い出した。もちろんベアリスのことである。


「そんな超特殊な例出されても何も解決しないにゃ!! 訳知り顔で急に出てきて偉そうに説教、何様のつもりだにゃ!」


 確かにちょっと特殊な例であろう。メキの父親の怒りはヤーンだけでなく、グリムナにも向けられており、少々のことでは収まりそうにない。


「あんたたち二人が現れて、俺らの生活は全て壊れたにゃ! 全部あんたたちのせいだにゃ!!」


 興奮したメキの父がグリムナに殴りかかった。ヤーンはやはり呆然とした表情のままそれを見つめており、メキはもはや力なく崩れ落ちて、ヤーンのマントの裾に縋りつくようにしている。二人とも、絶望し、疲れ切った表情をしている。


 ようやく、誰もが、理解した。


 ここに、メキの帰る場所など、無かったのだ。


 どこにも、無かったのだ。


「俺は……ただ、助けようと……」


 本来はグリムナはヤーンと違ってこの件には無関係であるのだが、しかしメキの父親はもはや怒りに我を忘れている状態である。メキとヤーンは無表情で、何やら呟いている。


「やめてください! ご主人様はメキさんを助けたんですよ! 何の落ち度があるっていうんですか!!」


 ヒッテがそう叫ぶがその言葉はメキの両親には届かない。ただ、暴力をふるい、その激情を、罵りの言葉として、ヤーンとメキと、グリムナにぶつける。もはや怒りをぶつける対象があるならば、それは何でもいいのだ。現実から目をそらす方法があるならば。


「やめてください……やめ……うっ……」


 ヒッテはまた頭痛がしたのか、頭を抱え込んでその場にしゃがみこんでしまった。フィーがすぐにその身を案ずるが、一方グリムナはメキの両親にされるがままである。


「こんな場所……帰る場所じゃない……」


 それが、メキの言葉だったのか、ヤーンの言葉だったのか……


「お前らのせいで……お前らさえ来なければ……」


 それが、メキの両親の言葉だったのか、ヤーンの言葉だったのか……


「誰か……どうか私たちに……罰をお与えください」


 それが、誰の言葉だったのか……誰にも分からなかった。


 ヤーンが無表情のまま右手を振り上げた。メキは彼に抱きついたままである。その腕はみるみるうちに丸太のように太く、剣のように長くなり、獣のように鋭い爪を備えていた。風を切る音と共にその腕は振り下ろされ、メキの両親をなぎ倒した。


「!?」


 異常な風圧と、急に止んだ暴力の嵐に驚いて、うずくまっていたグリムナが少し顔を上げる。


 見ると、メキの両親は自分達の家の瓦礫の中に糸の切れた操り人形の如く倒れ込んでいる。だが留意すべきはそこではない。ヤーンがトロールの姿に変化していた。しかも今までのような2メートル程度の普通のトロールの姿ではない。リヴフェイダーよりも大きい6メートルはあろうかという巨躯に土気色の肌、目も口もなく、背中から肩にかけてうねうねと太い触手がのたうっている。なんとも異様な化け物の姿であった。


 それだけではない。彼が抱きしめていたメキの姿……彼女はヤーンの体に触れていた部分が一体化し、取り込まれているように見えた。


「オオ……オォォオォ……」


 口がないのにどこから声を出しているのか、低いうめき声を出しながらヤーンはその右手をメキの両親に伸ばす。どうやら二人はすでにヤーンに殴り飛ばされて絶命しているようである。その腕に掴まれても何の抵抗も見せない。


「いったい何を……」


 グリムナはこの時戸惑っているだけだったことをのちに後悔した。しばらくすると、ヤーンの右腕が動脈のように脈打ち、メキの両親と一体化、吸収していったのだ。実際メキの両親はすでに死んでおり、グリムナにできることは何もなかっただろうが、彼は二人を助けられなかったことを後悔した。


「なんだ……? 化け物が……」

「オイあんた達! この火事はあの化け物の仕業か!?」


 騒ぎを聞きつけて付近の住民が集まってきていた。いや、正確に言うと最初から火事の騒ぎに野次馬や焼け出された人々が集まってはいたのだが、メキ達の内輪もめには興味がなかったようで遠巻きに眺めているだけだった。その連中が化け物の出現に大騒ぎを始めたのだ。


「あんた達! 来ちゃだめだ!! 逃げるんだ! 何が起こるか分からない!!」


 グリムナが声を張り上げたが時すでに遅し、ヤーンはすでに野次馬どもをロックオンしその触手を叩きつけた。

 飛び散る肉片、響き渡る悲鳴、周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


 両の腕と、数本の触手、不規則にそれが動き回り、叩きつけ、周囲の建物を瓦礫へと変えていき、人間が木の葉の如く舞い散る。付近の者はすぐに物言わぬ死体と成り果て、そしてヤーンの触手に吸収、同化される。そして同化するとともにヤーンはますます巨体へと変貌していく。悪夢のような光景であった。



──小さき者よ 灯火の傍に来たりて



──此の物語を聞け かの無惨なる語らいを



──我が眼は見えず 力もない



──歩む道も違うだろう……



──時のはかり無く横たわり ただ吐息を吐き続ける



──なにゆえ 『なにゆえに』と思うのだ



──なにゆえ 『どこに』と思うのだ



──我らが意思を 知りたいと思うのだ



 歌声が……聞こえたように感じた……


 どこかで聞いたことのある言の葉。多くの者が逃げ回り、ただ悲鳴を上げ、恐慌状態となっていた。


 そんな中、ただ一人、グリムナだけがこの化け物に立ちはだかり、その行く手を阻んだのだった。

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