第202話 言い切る

 バッソーは顔を上げて空を見た。空が黒から青白い色へのグラデーションを見せており、あと数十分かそこらで太陽も顔をのぞかせるだろうことが見て取れる。バッソーは再度ベアリスの顔を見ながら訊ねる。


「日が出てから少しでも進んでおいた方がいいんじゃないのかのぅ? ここにとどまるって……救助でも待つ気なのか……? 確かに今水と食料は手持ちの個人が持ってる水入れにある分しかないが、人間は三日くらいなら水を飲まなくても生きてられるじゃろう? それだけあるなら40キロ先の村までならたどり着けるんじゃないんかのう?」


「3日……それは、適切な温度の部屋で安静にしていた場合の話です。おそらくこの砂漠の炎天下の下、太陽が出てから活動を開始すれば、もって3時間……いや2時間もあれば死にます……」


 ベアリスの言葉にバッソーとグリムナもようやく事態の深刻さに気付いたようで顔面蒼白となった。ベアリスは険しい顔をして言葉を続ける。


「黒幕が誰なのかは分かりませんが、リズさんを雇った人は周到に用意して、そして決して自分に罪が及ばないよう、確実に私達を殺しに来てますね……ただ、一つだけ誤算がありました」


 最後の言葉を言うとベアリスはにっこりと微笑んでグリムナ達にその愛らしい笑顔を向けて、安心させるように言った。


「このパーティーに、『私』がいることです!」


 『いや、そもそもお前を狙って殺しにきてるのだと思うが……』グリムナが微妙な表情になった。この女、いまいち状況を把握しているのかしていないのか、なんとも不安になるテンションである。


「ふふふ……何を隠そう、この私、ターヤ王国の王族の血を引く姫なのです!」


 知ってるが。


 というかだから自分たちが護衛についているのだが、と口をはさみそうになったが、しかしグリムナはグッとこれを堪える。先ほどのとんちんかんな発言をした分いくらか慎ましやかさを覚えた男である。とりあえずは話を聞くことにした。


「当然、幼いころから国内で一番の英才教育を受けてきました。数学、天文学、歴史、魔術、錬金術……」


 いったい何の話が始まったのだろうか。グリムナだけでなくバッソーとヒッテも首をかしげている。しかしどうやらあまりの事態に頭がおかしくなってしまったわけではないようである。ベアリスはそのまま言葉を続ける。


「ですが……正直言ってそのどれもが私は苦手でしたね……特に社会に対する無知が酷く、それがもとで王国を追放までされてしまったわけです。はっきり言って、私は兄弟の中でも出来損ないだったと思います」


 それも知っている。よく、官僚や政治家、国家の体制側にいた人物がその職を辞し、民間人となることを『野に下る』と表現するが、本当に野に下って野人として生活しているのはこの女くらいの物であろう。ともかく、王国を追放されて野人となった経緯があってグリムナ達がターヤ王国に彼女を送り届けることになったのだから、それは彼らもよく知っていることである。


「そんな、何をやっても中途半端の、出来損ないの私でしたが、たった一つだけ他人に負けないことがあります。

 ……それは『生きること』です!」


 ……衝撃が走った。


 この少女はグリムナ達を前にして、砂漠の真ん中に置き去りにされるという極限状態の中、『自分の特技は生きることだ』とはっきり宣言したのだ。自分の特技は『生きること』だ、などと堂々と宣言できる人間などなかなかいない。


 『生きること』が特技とは、それが特段技術や経験が必要な特殊技能だとは、まず誰もが思わないのだ。ケージの中で飼育されるブロイラーの如き一般人共は『ただ、生きる』、それが如何に尊いことなのか、稀なことなのか、それを知らぬのだ。


 もし就活の面接で「特技は『生きること』です』などと言おうものなら、まずその者の正気が疑われよう。「ほう、ならばこの面接会場からも生きて帰れるというのだろうな(メキメキッ)」と、面接官が真の姿を現して戦いの火ぶたが切って落とされること請け合いである。

 ※必ずそうなることを保証するものではありません


 しかし目の前の少女はそう言い切ったのだ。ただ存在するだけの事さえ危ういこの荒れ果てた大地で、「自分ならそれができる」と、そう宣言したのだ。これはグリムナ達に大変な勇気を与えた。


 ベアリスは空を見上げた。もはや夜の闇はそこには存在しない。西の空も東の空もすでに青く染まっている。もうすぐ地獄の暑さが始まるのだ。


「日中は動きません。動かず、汗をかかず、ひたすら耐える時間です。夜になったら行動を起こします。まずは水の確保……とはいえ私も、砂漠でのサバイバルなんて経験がないので手さぐりになるかもしれませんけど、これまでの経験がきっと生きるはずです」


 これまでの経験、とても心強い言葉である。半年以上に及ぶホームレス、そして野生動物としての生活の経験、それを今まさに役立てようというのだ。グリムナの頭の中には毒虫をかみつぶした時の文字通り苦い記憶が鮮やかに甦った。


 そうだ。生きねばならない。全ての事は生きていればこそである。生きることはすべてに優先する事項なのだ。大分ずれているところの多い王女ではあるものの、しかしこと『生きる』ことに関して言えば彼女以上のプロフェッショナルなど居はしないのだ。グリムナは彼女に全てをかけることにした。


 やがて刺すような強い日差しが彼らの元にも届き始めると、近くにあった岩の北側に移動して息をひそめる。朝日がその姿を現してからまだ1時間もたってはいなかったが、すでに灼熱の地獄はその片鱗を十分に表し始めていた。


「そうだ、忘れるところでした!」


 何かを思い出したようにベアリスが自分の荷物をゴソゴソと探し出す。何事かと思ってグリムナ達が見守っていると、彼女はやがて何本かのロープのようなものを取り出した。いや、よくよく見てみるとロープではない。うろこがある。

 それは、蛇の生皮であった。


「1、2、……よかった、ちょうど4人分ありますね……」


 そう言ってベアリスは一人一人にその蛇の皮を手渡した。……蛇の皮……そんなものを手渡されても、どうしろというのか。


「これを尻尾とお腹の境目のところで縛ります。そうしないと水を入れても総排泄孔から漏れちゃいますんで。……この尻尾の方の、うろこの模様が変わってるところ、この境目に総排泄孔があります」


 ベアリスは疑問符を浮かべるグリムナ達を無視して説明を続けている。「水を入れる」といわれてもその水がどこにもないのだが……彼女はいったい何の話をしているのであろうか。


「あっ、総排泄孔っていうのはヘビさんのお尻の穴です。うんちもおしっこも交尾も全部この穴でするんで総排泄孔って言うんです。ニワトリとかとおんなじですね。オスの場合この穴の中に生殖器も入ってるんで、総排泄孔の下が太くなってるかどうかでオスかメスかを外見で判断できるんですね……」


 グリムナの脳裏に、おそらくこの先一生役に立つことのないであろう蛇の生態の知識が入り込んできた。やはり話についていけず戸惑うばかりのグリムナに構うことなくベアリスは説明を続けながら蛇の皮をぎゅっと縛ってから、グリムナの反対側、岩陰の外の方を向いた。グリムナからは背中しか見えない。「これでは何をしているのか分からないな」と、グリムナが回り込もうとするとそれをベアリスが止める。


「あ、さすがにちょっと恥ずかしいんで、背中側の方にいてくださいね。えへへ……」


 そう言うとベアリスは後ろを向いたまま自分のワンピースをまくり上げているようであった。足の間からは先ほど縛った蛇の皮が見えている。


 彼女はいったい何をしているのであろうか。


 その時、先ほどまで明らかに周囲に水気など感じられなかったのに、彼女の方からちょぼぼぼ……と水音がし、蛇の皮がみるみるうちに膨らんでいったのだった。

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