第425話 自と他
「フィーさん……フィーさん!!」
ヒッテが語り掛けるものの、彼女の目は虚ろで、何やらぶつぶつと呟いている。
「マジか……マジで……あの朴念仁が……ヒッテちゃんに先を越されるなんて」
しかしぶつぶつと言いながらも呪符や小物を並べ、儀式の準備を続ける。
先ほど世界樹の守り人の詰所の中で話した儀式、ヒッテの精神世界に潜行するための準備である。世界樹の根元でゆっくりと物を運んでくる。刻限は昼を過ぎた頃。明るい日差しは世界樹の葉に遮られて、緩やかな木漏れ日となって降ってくる。
「この人……大丈夫なんでしょうか」
不安そうな表情でヒッテが尋ねるとメルエルテが呆れた表情で答える。
「ヒッテちゃんに先を越されたのがよほどショックだったみたいね。儀式の内容は自分一人で調べてたみたいだから私も何をしようとしてるのかは知らないわ」
その話が聞こえていたのかフィーはやっとヒッテの方に答えを返した。
「だ、大丈夫よ……ちょっとショックだったけど、儀式に支障はないわ。ただ、その……なんか、私このまま一生処女のような気がしてきて、少し気が遠くなっただけよ……」
答えながらももたもたと覚束ないような手つきで準備を進めるフィー。それをなんとなしに眺めているヒッテにベルドが声をかけてきた。
「ヒッテ、グリムナは一体どうしたんだ? 奴は今何をしてる?」
その問いかけにヒッテの表情が少し暗くなる。グリムナはおそらく今、決着をつけるため、たった一人で竜のもとに旅立っているのだ。
「やれやれ、無謀な奴だとは知っていたが聖剣も持たずに一人で突っ込んだっていうのか……無茶苦茶だな。とてもまともな精神状態とは……」
ベルドはそこまで言って口を止め、腕組みをして考え込んだ。元々無茶をする奴だとは知ってはいたものの、しかしいくら何でも無茶が過ぎる。果たして彼は今、まともな精神状態なのだろうか。そこに思い至ったのだ。
「グリムナは……大分精神的に疲れているようでした。事実誤認も多くなっていましたし、まるで自分の事を、他人のように呼んだりとか……」
「自分の事を他人のように? そりゃいったいどういう意味だ?」
ヒッテはここ数週間のグリムナの様子をベルドに説明した。きっかけはやはり竜が現れたこと。それ以来自分の事を他人の事のように話したり、一人称に自分の名前を使ったりという変化が現れ、体力の低下も起こっていること。
ベルドはその話を聞いて、少し意外そうな表情をしたものの、しかしそこまで驚いた様子はなく、そのまま考え込んでしまった。
「一人称が自分の名前なんて、あんただって昔っからそうじゃないの」
そこに口を挟んだのはメルエルテである。フィーの方はバッソーとネクロゴブリコンと共にああでもない、こうでもないと言いながら儀式の準備を進めている。
「いえ、ヒッテはただ、お母さんの一人称が名前だったので、そういうものだと思って子供の頃からそうしてただけで……」
「ニブルタもそうだし、コルヴス・コラックスの連中はみんなそうだな」
ベルドがボソリとそう言った。確かにそのとおりである。ヤーンもそうであったし、彼らの村で会ったイクルーとサリッリもそうであった。その言葉が耳に入ったのかニブルタのレイスが近づいてきた。
「一人称が自分の名前ってのは珍しい文化だな。何か理由があるのか?」
「理由も何も。名前とは個人を表すものでしょう。それは相手だろうが自分だろうが変わらないのでは?」
ベルドの問いかけにニブルタが答えるがあまり明確な答えにはならなかった。それもそうだろう。ニブルタからすれば自分たち以外の文化と触れることもないのだから『当然の事』を『何故』と聞かれても答えようがないのだ。
ベルドは視線を変えてフィーの手伝いをしていたバッソーを呼んだ。バッソーの専門分野は元々文化人類学である。その中で一人称が自分の名前というのはどういう意味を持つのか。ベルドはそれを質問した。
「一人称が名前っていうと、一番メジャーなのは幼児語じゃな。周りから名前で呼ばれるからそれが自分を現すと認識し、一人称が名前になる」
確かによく見られる現象ではあるが、しかしそれと今回のグリムナの件も、コルヴス・コラックスの件も当てはまらない。
「一人称の違い、それはおそらく『自意識』の差、じゃろうな」
ベルドはその言葉に驚かず、ただ黙って話を聞いている。ある程度の予想はついていたのだろうか。
「コルヴス・コラックスの場合はかなり特殊じゃからのう。『物』を媒介としてサイコメトリー能力で他人の記憶を共有し、何千年も昔の出来事を自分の事のように体験できる。そうした能力を持つ者の特性として自意識の発達が未成熟なんじゃろう」
「自意識が未成熟? それはつまりどういうことですか?」
「『自』と『他』の境目が曖昧なんじゃろう」
ヒッテの質問にバッソーは簡潔に答える。つまりはサイコメトリーの能力により他人に経験を自分の事のように感じられることから自他の境が曖昧なため、自分を差す特別な代名詞が存在せず、他人の事を言う様に自分の事を名前で呼ぶという事である。
「それとグリムナがどう繋がるんですか? グリムナは以前は自分の事は『俺』って言ってたはずですが、ここにきてなんで急に変わったんでしょう?」
そのヒッテの問いかけに応えるのはベルド。なぜならコルヴス・コラックスの村で、まさにグリムナとそのことについて話していたからだ。
「一なるものは百なるものの如く、百なるものは一なるものの如し……そうだ、グリムナは『自』と『他』の間に大きな違いなんてないって言っていた……
グリムナは、気がふれてそんなことを言ったんじゃなく、その自他の境の無い境地にたどり着いたんじゃないのか?」
「その唄は……」
今まで黙っていたブロッズが口を開いた。
「その唄は、5年前に、メザンザが竜を呼び出した時にそらんじていた唄だ……」
『自』と『他』の違い、自意識の消失、集合的無意識から成る滅びの願望の竜……なんとなく全てが繋がってきているように感じられた。
すると、段々とヒッテの顔が青ざめ始める。『とんでもない話を聞いてしまった』という風である。
「いわゆる、『悟り』を得ようとしている状態なのかもしれん、な……」
いつの間にか近くまで来ていたネクロゴブリコンが口を開いた。
「なんですって? それは……どういうこと?」
一人で準備をしているのがさみしくなってきたのか、フィーも会話に参加してくる。儀式の準備はいいのか。
「人として一段階上のステージに上がろうとしているという事でもあるが……しかし」
「一段階上に……それはつまり……どういうことなの!?」
「今までのグリムナとはまた変質したものになってしまうのかもしれん」
「なんですって!? という事はつまり……?」
「最悪の場合、自意識の消失……記憶障害を起こしたり、人格の変化」
「なんだって! もういっぺん言ってみろ!」
「だ、だから……自意識の消失……」
「そ、それはつまり……どういうこと?」
「フィーさん」
「ん?」
ネクロゴブリコンとフィーの問答にヒッテが横やりを入れた。
「話が進まないので儀式の準備に戻ってくれませんか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます