第433話 扱いがひどい

 万事休す。


 オオカミの前足によってバッソーの体は大地に縫い留められ、身動きができない。


 オオカミには、雷も熱も効かなかった。おそらくはあの毛並み、冷凍系の魔法に対しても強い抵抗力を持つだろう。


この接近した距離で魔導師が取れる戦法。それはおのが魔力を両手に込め、相手の体に直接魔力を流し込むこと。しかしそれも毛皮が阻むであろう。何より時間がない。オオカミの口はバッソーの命の糸をかみちぎるべく、既に大きく開かれていたのだ。


 食われる。ニブルタが思わず目を覆ったが、しかしバッソーはすんでのところでその地獄の入り口から逃れたのだ。


 オオカミの前足の爪は確かにバッソーの肩に食い込んでいた。後ろに逃げることは出来ない。だが前へなら。バッソーはオオカミの口を避けつつ、敵の腹の下に滑り込むように逃げたのだ。


 さらに彼はオオカミの背に手と足を回し、がっしりとオオカミの腹にしがみついた。その場所こそが唯一の死角だったのだ。


 前足も後ろ足も、牙も届かない。背であれば振り落とせたかもしれないが、腹ではそうもいかない。オオカミは苦しそうに前足の爪でバッソーを引っ掻くが、しかし小さな切り傷をつけるのみである。


 バッソーは老骨に鞭打って何とかそれを堪える。


「バッソーさん、チャンスです! ありったけの魔力を流し込んでやってください!!」


 チャンスと見てニブルタが檄を飛ばすが、しかしバッソーは動かない。しがみつくのに必死で魔力の集中ができないのかと思ったのだが、しかしどうも違うようだ。


「ヒッテ! ヒッテ!! もういいんじゃ!! もう十分に守ったんじゃ!!」


 バッソーは必死の形相でオオカミに語り掛けていた。


 オオカミはそれでも暴れまわってバッソーを振り落とそうとするが、しかしバッソーは堪える。堪えるがしかし、やる事と言えばオオカミに語り掛けることだけ。


 バッソーは気付いていたのだ。このオオカミが何なのか。なぜあんなにあらぶっていたのかを。


「グルルル……」


 やがてオオカミは暴れるのをやめ、ずでん、と横たわった。


 もはや敵意を失ったと見て、バッソーはかんぬきの如く固く握り縛っていた両手を放し、そしてオオカミに目線を合わせた。オオカミはハッハッハッ、と荒く息をし、しかし静かな目でバッソーを見つめている。


 バッソーは、オオカミの首に手を回し、優しくその頭を撫でた。


「辛かったじゃろう……大変じゃったじゃろう……たった一人で、大切な記憶を、五年間の間、守り続けて……」


 そうオオカミは、いや、オオカミに変化したヒッテは、ずっとグリムナの記憶を守り続けていたのだ。心の奥深く、誰も入ってこない領域にそれを封じ込めて。


 ヒッテの記憶を覆っていた黒いもや。その正体こそが、歌の秘術によりグリムナの記憶を消し去ろうという呪いであった。そしてそれを、黒い結晶と、オオカミの姿のヒッテが、ずっと守っていたのだ。


「すまんのう、年若い子供が、必死で戦っておったのに……年長者たるワシがそれに気づくこともできなんだ」


 バッソーはそう言うと、空を見上げた。空も、辺りも、黒いもやが一面、包み込んでいる。


「このもやが、お主を苦しめていたものの正体なんじゃろう。お主の記憶を奪おうとしておったものの正体じゃろう」


「クルルル……ひって カラ は……」


 オオカミが小さい声で、人間の声で何かを呟いた。バッソーはぽん、とオオカミの額に手を当てて、柔和な笑みを浮かべた。


「ああ、もちろんじゃ。お前からは、何も奪わせぬ」


 バッソーは両手を広げ、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。これまでにない、深い魔力の集中が感じられる。


「流れ吹きて、風立ちん。いわおを返し、川を上れ」


 周囲の空気が集まってくるような、そんな感覚があった。



「風よ吹け、巌を返し、川を上れ!!」


 集まってきた空気が、爆発的に上昇気流となって昇ってゆく。黒いもやを巻き込んで。



く、く来たれ! 呪いの闇を打ち払い給え!!」


 両手を天に掲げてバッソーは力の限り叫ぶ。強く巻き上がる突風にニブルタは実体はないものの、思わずかがみこんでそれに耐えるような姿勢を取った。


 魔力の奔流は荒ぶり続ける。風はもやを巻き込み、登り続ける。最後のひとかけらまでも打ち払うまで。





「ハーッ、ハーッ、ゼハーッ、ゼェ……」





 やがて全ての黒いもやが晴れると、がくり、と両膝を地面についた。そのまま横に倒れ込むところをニブルタが慌てて支え、抱きかかえた。


「バッソーさん、大丈夫ですか!?」


「ゼハーッ、ワ、ワシは……ゼェー……ちょ、ワシ……ハァ……後で言うわ……」


「ダメそうですね」


 オオカミの背後にあった黒曜石のような結晶でできた檻は皮がはがれるようにぱらぱらと崩壊していき、消え去った。あとには、オオカミからヒッテの姿に戻った少女。まだ意識が朦朧とするのか、しばらく立ちすくんだのち、ふらりとよろめく。


「ヒッテさん!」


 地面に倒れ込みそうになったヒッテの体を慌ててニブルタが支えた。


「ヒドいっ!」


 投げ捨てられたバッソーはたまたま下に落ちてた岩に頭をぶつけ、ゴチンと鈍い音がした。


「大丈夫ですか、ヒッテさん……」


 ゆっくりとニブルタはヒッテの体を地面に横たえさせる。目は半眼に開いた状態で焦点がはっきりと定まっていないようだ。


「ちょっとはワシの事も心配してほしいんじゃけど」


 ヒッテはゆっくりと上半身を起こし辺りを見回す。


「ここは……」


「あなたの記憶の中、精神世界です。私は、ヒッテさんの失われた記憶を取り戻すために精神潜航サイコダイブを実行したんです」


「一番頑張ったのワシなんじゃけど……」


 ヒッテはゆっくりと立ち上がり、そして深呼吸をした。いつの間にか周りは荒れ地から元の、オクタストリウムの小さな宿屋の部屋に景色が変わっていた。


「まるで……頭にかかっていたもやが全て消えてなくなったような気分です」


「ワシが消し飛ばしたんじゃ」


 ヒッテは、ゆっくりと立ち上がり、そして天を仰ぐように上を向いて、両手で顔を覆った。


は……今まで、こんな大切なことを忘れてたなんて……」


「あのさぁ……」


 バッソーはゴロンと横になって頬杖をついている。どうやら大分不貞腐れているようだ。


「いくら何でもワシの扱いが軽すぎない?」

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