第432話 番犬
ドアを抜け、ドアを抜け。
バッソーとニブルタはヒッテの記憶の中を駆け抜けていく。しかし、ドアを抜けるごとにだんだんとバッソーの表情が曇っていった。
バッソーとヒッテはそれほど絡みが多かったわけではないものの、しかし出てくるたびにヒッテやグリムナにセクハラをぶちかまし、『賢者』と呼ばれる人間なのに、醜悪な表情を見せ、アホづら下げて自分勝手に振舞う。だからと言って役に立つかというと、活躍の場面はそれほど多くない。(フィーも同じだが)
とうとう『ドア』を前にバッソーはしゃがみこんでしまった。
「こんなにひどかったかぁ? ……ワシ
自分の事を客観的に見るのが、こんなにつらいことじゃったなんて……」
いい年こいたじじいがとうとう泣き出した。自分を客観的に見て、内省するというのは、それほどに難しいことなのだ。たとえ『賢者』と呼ばれる者であってもだ。
ニブルタは困った表情をしてから、少し辺りを見回した。
「バッソーさん、気付いていますか?」
「う……ひっく、何がじゃ?」
バッソーは涙を拭いてニブルタを見上げる。自然と辺りの景色も目に入る。どこかの森の中であるが薄暗い。薄暗いというか、全体にもやがかかったように
「だいぶ……深い、意識の底の領域に近づいてきています。記憶も曖昧で、普段あまり触れない部分なんでしょう」
確実に目的の場所に近づいてきているのだ。バッソーは気を取り直して、次なるドアに手をかけた。
ドアの先、薄暗い、石壁で出来たうすら寒い部屋であった。もやもかかっているが、しかし暗い。おそらくは実際に暗い部屋の中だったのだろう。
一人の女性が倒れていた。顔や、体中に殴られたような痣があり、頬はやせこけ、栄養状態が悪いことが窺える。
その横たわる女性を5歳くらいの、小さな子供が揺さぶり、必死で話しかけている。二人とも黒髪である。小さい子供の方には、どこか、ヒッテの面影があるように感じられた。
部屋には二人しかいない。二人しかいないということは、ここはヒッテの記憶の中なのだから、どちらかがヒッテであるということだ。バッソーはすぐにピンときた。
盗み聞きをしていたフィーから聞いた話。5年前、ヒッテは彼女の過去の話、母が死んだ話をグリムナにしていたからだ。
「おかあさん、おかあさん、起きて。死んじゃいや、おかあさん、おかあさん……」
泣きじゃくる少女は必死で母の体を揺さぶっている。ニブルタは表情を変えずに、静かに言葉を紡ぐ。
「この女性は……イウスか。こんな変わり果てた姿になって……」
イウスとはヒッテの母の名である。バッソーは苦虫をかみつぶしたような表情となって静かにニブルタに語り掛けた。
「もう行こう。ここはグリムナの記憶とは関係ない。彼女にとって、他人に踏み入れられたくない場所じゃ。
そう言って次のドアを開ける。そして同時に、彼は知っている。この『誰にも踏み入れられたくない場所』にかつて、足を踏み入れた男がいたことを。その男が、今のヒッテも、過去のヒッテをも、救ったのだということを。
次の
そこにも当然ながらヒッテがいる。これは、5年前の姿。椅子に座った彼女は、何者かと言い争っているようであった。
その言い争っている
「もういいです! こんな話して何になるって言うんですか!」
珍しくヒッテが感情的になって叫んでいる。しかし相手の声はノイズが入ったように部分的にしか聞き取れず、およそ会話に聞こえないのだ。
「お母さんは、ヒッテが見殺しにしたんです!!」
普段物静かなヒッテがこんな感情的になるところを、バッソーは見たことがない。自分のケツが蹴られた時しか。
不意に、黒い
『俺は……ヒッテを許すよ……』
そこだけは、
「……どこにも行かないで下さい。約束してください……」
今度はヒッテの言葉にノイズが走り、聞き取ることができなかった。そして、記憶の中のヒッテが、黒いもやに抱き着いたまま、ぎろりとバッソーの方を睨んだ。
「誰だ……」
記憶の中。ここまでに会ったヒッテは一度もバッソーとニブルタの存在に気付くことなどなかったのだが、唐突に、敵意をも感じさせるドスの効いた声を投げかけてきたのだ。
「!! 危ない! 下がって!!」
ニブルタがバッソーの手を引いて思い切り後ろに跳んだ。
刹那、黒曜石のような結晶がヒッテともやを包み隠した。危うくバッソーはその結晶に巻き込まれるところであった。
「……どうやら、ここのようじゃな。目当ての場所は」
バッソーがそう言い終わるや否や、ズン、と思い質量を思わせる音をさせながら、さらに結晶の盾がその体積を増す。
二人は慌てて後ろに下がるが、結晶は十重二十重にその膜を増やしていった。
「これほどに強固に守られているとは……」
ニブルタが感嘆の声をあげる。結晶はもはや一つの建物と言えるほどの大きさになっていた。室内だと思われていたドアの中は、いつの間にか黒いもやの取り巻く荒れ地へと変貌していた。
「オオオオォォォ……」
その結晶をすり抜けて、灰色の、体高が人の身長ほどもあるオオカミが現れた。
「秘法の影響か、それともヒッテの『守る意思』なのか、これが記憶の番人なのでしょう」
灰色の毛並みに、夕焼けのような赤い瞳。眉間と鼻筋には怒りのしわが刻まれている。
「むぅ、ヒッテの心の奥底にこれほどの激情が姿を隠しておったとは……ニブルタ、下がっておれ」
バッソーはそう言ってニブルタを後ろに追いやった。
この場は、この戦いは一緒に旅をした自分がケリをつけなければならない。そう感じたからだ。
先ずは間合いを取って魔力を練る。魔導師の常套である。幸いにもこの記憶の中の世界ではバッソーは手順を踏まずとも賢者としての力を行使できるようだ。
「グルルルォ!!」
「怒り狂う黒雲の主よ、我に力を貸し与え給え、サンダーブラスト!」
唸り声をあげるオオカミに向け、バッソーの指先から雷が走る。しかし
なんという毛皮か。電気をアースすることは出来ても、感電した際の熱量は膨大なとなって身を焦がす。導体でも、絶縁体でも、雷の前では問題にはならないのだ。つまり、熱にも電気にも耐えうる毛皮を持っている。ラメラーアーマーの如きいぶし銀の毛並みを。
「むおっ!? まずい!!」
完全に誤算であった。オオカミからは魔法による障壁のようなものは感じられなかった。最悪、一撃で仕留められなかったとしても、雷による感電と熱で足止めぐらいはできると踏んでいたのだが、そのどちらもオオカミは意に介さず前進してきたのだ。
間合いが足りない。オオカミの爆発的な跳躍は、バッソーに体勢を立て直す暇を与えず、前足で彼を押し倒した。
まずい。
噛み殺される。
この世界に入り込む前に、フィーに言われていた。ダイブの最中に死ぬようなことがあれば精神は元の世界には戻れず、ヒッテと人格が統合されてしまう。
もはや十分に生き、自分の生になど頓着しないつもりであったが、しかしそれよりもこのまま何の成果も出せずに終わるなど申し訳が立たない。
「グルァ!!」
オオカミがとどめを刺すべく大きく口を開けた。
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