第434話 この世界にたった一人
グリムナはその息すら乱れていなかった。
構えた聖剣からはまばゆいばかりの光が漏れ、自在に竜の身体を切り刻む。その姿はまさに神代の英雄の如く、悪神を前に一歩も怯まぬ。
『借り物の聖剣の力を得て、半神半人のトリックスターにでもなったつもりか? それはお前の力ではないぞ』
ベルアメールの言葉にもグリムナは揺るがない。強く彼女を睨んだまま口を開く。
「そうだ。俺の力じゃない。みんなが導いてくれて、力を貸してくれた……」
言い終わる前にまたも触手が大量に表れ、グリムナに襲い掛かる。しかしグリムナはそれを一閃。
刃のリーチよりも広く、緑色の閃光が走ると、触手と一緒に竜の背中に巨大な亀裂を作り出す。
『人間が愚かなのは今も昔も変わらんな……英雄だ聖者だと祀り上げられて調子に乗って、まるで400年前の儂を見ておる様じゃ。そんなオモチャを手に入れて勘違いしている分、お主の方がタチが悪いかもしれん』
ベルアメールの言葉にグリムナは彼女を睨みつける。そこには怒りの感情もあったのだが、それ以上に彼女が何を意図して急に舌戦を挑んだのか、それが読み取れなかったからだ。
まさか、旗色が悪くなったからグリムナを説得して和解しようというわけでもあるまい。
『まあ、実際お主は良くやっておるよ……』
ベルアメールはそれまで厳しい口調だったが、一転、優しい口調になってグリムナに諭すように語り掛けた。
『ここまでの道程も見せてもらった。ラーラマリアと共に旅に出、ネクロゴブリコンと出会い、その後の旅もな……』
ベルアメールは空中に座るように腰を下ろし、足を組んでぱちぱちと拍手をして彼をねぎらった。
『あのラーラマリアが隣にいながら、自分の考えを曲げることなく、決して人を傷つけなかった。それだけではない。オークやトロールにすら情けをかけ、時には自分を殺そうとする者ですら助ける。なかなかできることではない』
空中に浮遊したまま彼女はゆっくりとグリムナに近づく。グリムナは意図を測りかね、身動きが取れないでいる。まさかだまし討ちなどはすまい。
そのまま彼女は前傾になり、ぶつかるのではないかというほどグリムナに顔を寄せ、心の奥底まで覗き込むように、じっくりと彼の瞳を見つめた。
『だが、その結果はどうだった……?』
それは、グリムナが一番聞きたくない言葉であった。
『結局お主は竜の復活を阻止出来なんだ。人々の心を救うことは出来なんだ。ネクロゴブリコンもさぞ落胆しておろうな』
「黙れぇ!!」
怒気を孕む一閃。グリムナはベルアメールを聖剣で一閃するが、彼女は実体ではない。剣はむなしく宙を彷徨った。
『ここで竜を倒したとて、失われた数万の命は戻らぬ。それだけではないぞ』
ベルアメールは右手を広げるように掲げ、後ろに広がる風景を指さす。
『知っておるじゃろう。四百年前の竜の消滅後に訪れた長い冬。あれが偶然だと思うか? 違うわ! 竜の巻き上げた粉塵、火山の爆発により成層圏にまで巻き上げられた土砂。それらを核として雨雲が形成され、今後数年間長い長い冬が来る。この星の温度が三度から四度ほども下がり、雨は麦を腐らせ、季節外れの雪が容赦なく命を奪う』
確かに、フィーも言っていた。
竜が去った後の長い冬のせいでエルフが多く死んだと。
すでに多くの人々が竜に直接殺されているがそれで終わりではない。貯えもない状態で冬を迎えれば多くの者が餓死するのは自明の理。しかしそれだけではないのだ。
大気中の水、雲というのは何もない場所に漠然と現れるのではない。塵や埃のような小さな粒を核として形成されるのである。そして、今回竜が暴れたためにこの星の大気中には核となる塵が多く漂っている状態なのだ。それが竜の後に来る長い冬の正体なのである。
1783年の天明の大飢饉、1993年の記録的冷夏はそれぞれアイスランドの火山の噴火と、フィリピンのピナツボ火山の噴火の影響によるものである。竜の惨禍に加え、これから数年に渡り、さらに飢饉が人類を襲うこととなる。
つまり、もう『敗北』しているのだ。独り善がりの悪あがきに過ぎないと言っているのだ。
分かっている。
グリムナもそんなことは分かっているのだ。それでも、自分にできることを。一人でも多くの人を助けるためにここに来たのだ。
「だ……黙れ……」
わかってはいたが、しかしそれでもグリムナは苦悶の表情を浮かべる。グリムナの額には脂汗が浮かび、きつく引き結んでいた口からは荒い呼吸が漏れる。逆にベルアメールの方はニヤリと笑みを浮かべた。
『お主も分かっておるのだろう、自分のやっていることが自己満足でしかないことが。お主はただ
「やめろ……黙れ……」
がくりと膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。肌の色はみるみるうちに土気色に変わっていき、まるで生気を失ったようだ。精神的な動揺は見て取れるものの、しかし尋常でない狼狽え方である。
『逢魔が時には遅かろが、ここは竜の背、
ベルアメールは楽し気に笑いながら、歌うように朗々と語る。しかしまさしくベルアメールの言う通り、彼女によって追い詰められた精神状態のストレスがグリムナの体調に異変をもたらしていることが見て取れる。
『その通りじゃ……お主はよくやった。十分すぎるほどにな』
「やめろ……それ以上……」
グリムナはエメラルドソードを竜の背中に突き刺し、それに体重を預けてなんとか立っている状態である。
『その結果はどうだった? 人々は変わったか?』
―あんたに何が分かるにゃ!―
その刹那、過去の記憶がありありと思いだされた。それは脳裏の浮かんだ記憶なのか、それともベルアメールが魔法によって見せた映像なのか。燃え盛る家の前で、グリムナに怒鳴りつける、メキの父親。
―もうボロボロになってしまったが、君はこの町の救世主だ―
聖騎士ブロッズ・ベプトの嘲笑。結局ヤーンを助けることもできなかった。次々と景色が変わっていく。
『お主の助けなど誰も必要としていない! お主の仲間など誰もいない!』
―お前らが村に帰ってくるなりこれだ!―
―あんたは疫病神よ!!―
―村を、出て行って……―
「や、め……」
竜の背中に刺した聖剣にしがみつくように寄りかかり、グリムナは膝をついた。
「やめてくれ……俺はただ、人を助けたくて……」
『まだ分からんのか』
ベルアメールは直立し、今にも崩れ去りそうなグリムナを見下して言葉を発した。
『お主は、この世界に一人だ』
もはや膝で体を支えることもできずにグリムナはその場に崩れ落ちた。両手で何とかして上半身を持ち上げようとするが、しかし全く力が入らない。
それだけは、受け入れがたい事実であった。しかし、『そうなのではないか』とはうすうす感じてはいた。
ネクロゴブリコンの期待に反し、自分は人々の考え方を変えることなどできなかったのだ。間違っているのは、他の人々なのではなく、自分の方なのだ。自分こそが、異端なのだと。
誰も、自分の味方などしてくれない。
ついてきてくれた仲間は、自分が置き去りにしてしまった。そして……
『ラーラマリアは、お主のせいで死んだ……』
小さく首を振り、歯を食いしばって目をつぶる。しかしベルアメールは言葉を止めない。
『あのエルフ、フィーは言ったはずだ。この大陸から逃げろ、と』
そうだ。彼女は繰り返し言っていた。世界はここだけじゃない、新しい土地で、新しい生活をすればいい、と。
もしそうしていたならば。仲間と共にこの大陸から逃れていたならば。
そうすれば、ラーラマリアの命が失われることはなかったのかもしれない。新しい場所で、穏やかな暮らしを。
『お主が戦うことをやめなかったからこそ、ラーラマリアは戦わざるを得なかった。お主がいなければ……』
ああ、いやだ。ききたくない。
『ラーラマリアは、死なずに済んだのだ』
「あ……ああ……」
もはや言葉にならない。
涙を流しながら、グリムナは、自分の体から力が抜けていくのを感じていた。
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