第404話 キス
足元は覚束なく、鉛のように重い。
顔には生気がなく、まるで幽鬼のようだ。
小さい木の根に躓いて、よろけてしまう。普段なら、彼の力強い足取りならば、転ぶことなどないのだろうが、大きくバランスを崩して転びそうになる。
それをヒッテが支えた。彼女は不安そうな表情でグリムナに話しかける。
「大丈夫ですか、グリムナさん……少し休みましょう」
グリムナが山道の途中にあった小さい岩に腰を掛けると、ヒッテがすぐに石を積んで小さなかまどを作って、火をつけ、お湯を沸かす。
そういえば、以前に二人で旅をしていた時は、逆の立場だったな、と、グリムナはまとまらない思考でそんなことを考えていた。
アンキリキリウムからターヤ王国のカルドヤヴィへ向かう時、忙しくかまどを作るグリムナに対し、ヒッテは何もせず、それを見ているだけだった。
そんな彼女が随分成長したんだな、と、そんなことを思い出していた。
「どうぞ、グリムナさん。とりあえず白湯でも飲んで体をあっためてください」
カップを差し出すヒッテにグリムナは力なく「ありがとう」と答えた。
ヒッテは自分の分の白湯に口をつけることなく不安そうな表情でグリムナを見ている。ローゼンロットをはじめとして、グリムナ達は竜の足跡を追って、破壊された町を回ってけが人の手当てをし、まだ襲われていない村があればいつでも避難できるように、と助言を与えて回っている。ほとんど休みもとらずに。
疲弊の色が濃く表れていた。
それだけではない。ヒッテから見て、グリムナは自分の無力さを責めているようにも見えた。
「あまりにも無力、だな……」
誰に言うでもなくグリムナが呟く。「そんなことはない」とヒッテは否定しようとして思わず言葉を飲み込んだ。実際、竜に対して、彼ら二人は何もできることがないのだから。
「もし、ラーラマリアなら……どうしたかな? 聖剣を持って、勇敢に竜と戦えるだろうか?
もし、フィーならどうしただろう。相変わらずの能天気な態度で、市民を勇気づけられたんじゃないのかな……?」
グリムナからは、かつての仲間、今はもう離れてしまった者達の名前が漏れる。
「レニオなら……きっと人々を励ます、優しい言葉を思いつくんだろうなあ……」
そう言ってグリムナは力なくフッと笑った。
「もしグリムナなら……こんな時どうするんだろう……?」
「!? ……グリムナ、さん?」
その言葉に思わずヒッテからは戸惑いの言葉が口をついて出た。「グリムナは、あなたですよ」当然の、そんな返しは出ようはずもない。
逆にグリムナはヒッテが何を驚いているのかが分からず、呆然とした表情で彼女の顔を見つめている。「自分が今、何かおかしいことを言っただろうか」、という表情だ。ヒッテはわなわなと震えている。
心というものは、陶器のようなもの。
一度ひびが入ればその傷が時とともに回復するということなど決してないのだ。
「グリムナ……」
ひびが入ってしまったのならば、樹脂を詰めて、くっつけて、だましだまし、元の形になっているように、見せかけるのが関の山。
症状が多少改善することはあっても、全快は決してしない。治ったように見えても、それは心の奥底でくすぶり続け、ちょっとしたきっかけでまた激しく燃え上がるのだ。
ヒッテは、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「グリムナ……5年前……ローゼンロットから消えて、再びヒッテ達の前に現れるまで……いったい、どこで、何を、していたんですか……?」
ほとんど勘のようなものだったが、今のグリムナの様相の根底にある物、そのカギが、空白の5年の間にあるような、そんな気がした。
「分からない……」
グリムナはゆっくりと答える。
「分からない……俺は、いったいどこで、何をしていたんだろう……5年もの間、愛する人の事も忘れて……俺は、何を……?」
5年間の空白の時。自分が殺した幼馴染みの女性の死体と共に過ごした時間。何も変わらず、何も存在せず、時の流れすらも曖昧な真っ白い部屋の中。
その空間の中で、グリムナの心は、静かに壊れていたのだ。
ここまで、ラーラマリアに支えられ、フィーに支えられ、そしてヒッテに支えられ、まるでそれが無かったことかのように
本当は修復不可能なほどにボロボロに壊れていたにもかかわらず。
ヒッテはカップを取り落とし、涙ながらにグリムナを抱きしめた。
「グリムナ……グリムナッ!!」
力強く彼の体を抱きしめる。まるで迷子になった幼い我が子に再会した母親のように。
そうだ。
なぜ自分は気付いてやれなかったのだ。
彼が一番辛いのだと分かっていたはずなのに。それを一番近くで見ていたはずなのに。
彼は強い人間だから大丈夫だと、思いこんでいた。
人々の怪我を手当てしてはいるが、一番手当てが必要なのは、一番傷ついているのは彼だと分かっていたはずなのに。こんなになるまで、なぜ何もしてこなかったのかと、後悔した。
人が、苦しみを我慢できるのは、いつかどこかに『出口』があると分かっている時だけなのだ。
グリムナがいくら蔑まれ、虐げられても、それを何でもないことかのように振舞えていたのは、自分が竜から人々を守るのだという強い意志があったからこそ。
復活をした竜を目の前に、「自分にできることは何もない」と悟った彼に、もうひとかけらの希望さえも残っていない彼に、もはや前に進む力などどこにも残っていなかったのだ。
ヒッテは抱きしめていた両腕の力を弱め、そして彼の頬を優しくなでた。
彼は、やはり力なく、疲れ切った無気力さの見て取れる表情のまま、ヒッテに訊ねる。
「何故君は、涙を流しているんだ?」
いつかかけられた言葉。
そうだ。アンキリキリウムの町で再会した時にも、グリムナはヒッテにこの言葉をかけた。
こんなにもボロボロになって疲弊しきっているというのに。彼はまだヒッテの身を気遣っているのだ。そう思うと、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れ続ける。
「グリムナを……愛しているからです……」
そう呟いて、彼女はそっと、グリムナの唇にキスをした。
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