第361話 水底の記憶
その彫像は町の中央の広場に建っていた。いや、立っていた。
この5年間、激しいマフィア同士の抗争においても、この像だけは傷つけられることなく。
いや、それは『傷つけられなかった』のだ。
あまりにも不気味、恐怖の象徴でありながら哀しげな姿。内戦のきっかけを作った破壊の権化。
その彫像には誰もが恐ろしくて触れることができなかったのだ。
哀しみに泣いているようでもあり、同時に怒りに打ち震えているようでもある。
遠目に見れば岩の塊のようであるが高さ3メートル余りのその像は、町を破壊し続けた怒りの魔人像である。人の腸で作られた弦のリュートを掻き鳴らし、世界の残酷さを恨み、されど語る口は持たぬ。
その代わりに肩の上に座った猫人族、ウォプ・イーの少女が寄り添い歌っている像。
5年間の間、風雨にさらされてもそれは朽ちることはなかったが、しかし腹の辺りは大きく崩れており、その少し手前に土が盛られた跡と、小さな墓標が建てられている。
墓標には、苗字がわからなかったため『ヤーン』とだけ記されている。
オクタストリウム共和国の首都ボスフィン。名前は『共和国』ではあるものの、その政府機構が機能不全に陥ってからもう6年近くの歳月が経っている。街並みは荒れ、治安は悪化の一途を辿り、そしてマフィア同士の抗争も収まる気配はない。住民の憩いの広場であり、催し物のメイン会場として作られている町の広場など、もちろん管理をする余裕など誰にもなく、石畳は剥がれ、雑草は伸び放題である。
しかしそれでも、その彫像だけは誰の手にも傷つけられることなくそこにあったのだ。その異様なオブジェのような、荒れた広場には不釣り合いな彫像は、そこにあり続けたのだ。
「ここよ……」
これまた荒れた広場には不釣り合いなセクシーなドレスに身を包んだ黒髪の美しい女性が、その墓標の前に現れた。彼女に導かれて5人の男女も、その彫像に圧倒されながら恐る恐る広場の中央に進み出てくる。
「これが……ヤーンさん……?」
ヒッテはそう言って墓標の前にしゃがんで、刻まれた文字を覗き込んだ。
「この墓標は……リヴフェイダーさんが?」
「ええ……人間の世界ではそうやって墓を作って忘れないようにするって聞いたから」
「少しずつ、思い出してきました」
ヒッテはゆっくりと歩いて彫像に、いや、ヤーンの亡骸に近づいて二人の変わり果てた姿を見上げる。
「そうだ、私と、誰か……覚えていないけれど、ヤーンさんの心の中に入って、彼を助けるために」
「そうよ。私たち全員でヤーンの精神世界に入り込んで、それでグリムナが、ヤーンを助け出すことに成功したの……あ」
ヒッテの言葉を受けてフィーがそう答えたが、直後に小さい声を出して頭に手をあてた。
(違う。私はグリムナに敵認定されて精神世界に入れなかったんだった……)
そう、グリムナがヤーンに取り込まれた後、ヒッテを先頭にバッソーとフィーがグリムナを手助けするためにサイコダイヴを敢行したのだが、フィーだけ弾かれてしまったのだった。
グリムナは終始無言で呆然とその彫像を眺めていたが、やがて歩み寄り、目をつぶって両手をその像にあてて、うなだれるようにがくりと頭を下げた。
誰も言葉を発しない。人間の営みなどに興味のないメルエルテはもちろん、重苦しい空気を嫌うフィーも、そしてリヴフェイダーも、誰も一言もしゃべらなかった。喋られる空気ではなかった。
日は天の中央を過ぎて少し傾き始めた時刻、寂しげな秋風が落ち始めた木の葉を運び、物憂げなトンビの声だけが空にこだまする。
「ヤーン……」
誰も聞き取れないほどの小さな声がグリムナから漏れた。
「そうだ……俺は、助けられなかったんだ……誰一人として、俺には、助けられなかったんだ」
彫像の顔を見上げながら呟く。その時、風に乗って小さな歌声が聞こえてきた。
―嗚呼 世界よ あまねく 世界よ
―土は木へ 木は大地の命へ
―そして大地の命は 世界の中で私と彷徨う
「……この歌は……」
グリムナはハッとして歌声のした方に振り返った。歌っていたヒッテは彼のリアクションに戸惑うような表情を見せる。
「これは……私の一族に伝わる……多分、鎮魂の歌だと……」
グリムナはいつの間にか目に涙をいっぱいに浮かべていた。
「俺は……この歌を知っているんだ。ずっと……五年間、ずっとこの歌を聞いていた。あの気が狂いそうになる白い部屋の中で。そうだ、なんで今までずっと忘れていたんだ」
「ぐ、グリムナさん、急にどうしたんですか? 落ち着いてください」
いつの間にかグリムナは涙をぽろぽろと流していた。
「グリムナ! 記憶が戻ったの!?」
フィーがそう叫んだが、しかしグリムナは彼女の問いかけに答えることなくヒッテに向かって話しかけ続ける。
「ヒッテが……死んでしまった俺を助けてくれたんだな……自分の記憶と引き換えに」
しかしヒッテはグリムナの言っていることの意味が分からずに、おろおろするばかりである。それも仕方あるまい。彼女の方こそグリムナの命を助けることと引き換えに、彼に関する記憶の全てを失ってしまい、そしてそれは未だ一向に戻ってくる気配すらないのだから。
グリムナは涙を流しながらヒッテの体を抱きしめた。ヒッテは一瞬驚いたようだったが、しかし抵抗はしなかった。
「すまない、ヒッテ。あれほど強くお前は言っていたのに。『自分を探してくれ』と。なのに俺は、今の今までそのことを思い出しすらしなかったなんて……ああああ! 本当にすまない!」
最初は驚いていたヒッテであったが、しかし力の限り強く抱きしめてくるグリムナに対して嫌悪感も抱かなかったし、怖いとも思わなかった。
そこには不思議な安心感すらあった。ヒッテは静かに、自分の腕をグリムナの背中に回した。依然、彼の事は思い出せないままであったが、しかし、自分の体に欠けていた何かが帰って来たような、不思議な充足感を感じていた。
「5年間もの間、記憶もなく、小さな少女がたった一人で生きていくのは大変だったろう、不安だったろう……本当は俺が一番に駆けつけて助けなきゃいけなかったのに……お前を守るって、誓ったのに……」
「いいんです……いいんです、グリムナ」
ヒッテは涙のひく様子のないグリムナの背中を優しくなで続け、いつの間にか彼女自身もその瞳から涙を流していた。
「ぐすっ……なによう、泣かせるじゃないの」
あまり二人に関係のないはずのフィーも横でそれを見ながら涙と鼻水を流している。
そこでふと、メルエルテがあることに気付いた。
「あれ? あの金髪女……ラーラマリアはどこ行ったのかしら……?」
――――――――――――――――
日がだんだんと落ち始め、辺りの景色が赤くなりだしたころ、街の少し外れに彼女はいた。
「よかったんスか……?」
「ええ……もう、十分よ。グリムナの記憶も戻ったことだし、これ以上我儘を言うつもりはないわ」
「分かんないスね……以前のラーラマリアさんだったら、あのヒッテとかいうガキを殺して、グリムナを奪いそうなもんだったッスのに」
「めったなことを言わないで。あの二人に手を出すならあなた達ヴァロークなんて一人残らず殺してやるわよ。
……これでもね、あなた達ヴァロークには感謝しているの」
ラーラマリアは振り返り、元いた方向をちらりと見てから呟くように言った。
「あなた達のおかげで、こんな薄汚い私が、グリムナと恋人ごっこができた……素敵な仲間と一緒に冒険ができた。それだけで十分よ。これからはあなた達に恩返しをする番ね……」
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