第266話 ただ一つの道

「あ……ク……」


 異変に気付いたグリムナが自らの鳩尾を貫いている指に触れようとしたとき、それはぬるっと消えた。グリムナは力なく両膝を地面につき、ごぼりと血を吐き出す。


 彼の後ろに立っていたのは、大司教メザンザであった。


 メザンザはグリムナの背中から抜いた貫き手についた血をぼろきれか何かで軽くぬぐうと、ちらりと倒れているラーラマリアの方を見た。ラーラマリアはこの異常事態に気付かず、まだ気を失っている。


「メザンザ……!!」


 ヒッテがその姿を見て即座にメザンザとの間合いを詰めた。その表情は恐怖でもなく怒りでもなく、ただただ『この男を排さねば』という使命感に満ちたものであり、感情が発露するよりも先に、まず体の方がようもって動き始めた、と言った方が正しく感じられた。


 彼女は武器を持っていない。素手である。何度かその技術でもって実戦を経験してはいるものの、その相手は山賊の三下などのいわゆる雑魚が相手。グリムナに格闘技の基礎を教えたのは実はヒッテであるが、やはりメザンザの敵ではなかった。


 飛び掛かったヒッテの顎先に一瞬何かがゆらぐようにかすめたかと思うと、彼女は意識を保ったまま、しかしがくりと膝をついた。メザンザはヒッテの方を見てもいなかったがやはり一撃で彼女を仕留めたのだ。


「グリムナも、ラーラマリアも……これにて邪魔者はおおよそ消えたことになる。余は先を見据えねばならぬ。あとは好きにせい」


 そういうとメザンザはゲーニンギルグの方へと歩いて行った。


 まるでつむじ風のような男であった。


 ラーラマリアに敗れ、竜を召喚し、一瞬のうちに姿をくらましていたが、どうやら彼はずっと物陰に隠れて機を窺っていたのだ。教会にもヴァロークにも組せずに独力で竜の復活を阻止しようとするグリムナ、そして教会と協力関係にあるものの、虎に首輪をかけて飼うが如く全く制御の利かないラーラマリア。


 メザンザが教会を、この世界を手に入れ、つくりかえようとする場合、グリムナはもちろんの事、ラーラマリアももはや邪魔にしかならないと判断したのだろう。二人を始末するべく姿を隠していたのだ。


 そしてそれが済んだ今、本来の彼の使命、市民の避難誘導なり、竜を倒すための方策を立てるなりするため、ようやく正気に返って動き出したのだ。瞬く間に彼の後ろ姿はゲーニンギルグの方に消えて見えなくなっていた。


「グ……グリムナ……グリムナ!」


 ヒッテが言う事の利かない足を引きずってふらふらと、途中何度も転びながらグリムナの傍に駆け寄る。


「グリ……ム……」


 ヒッテがグリムナの上半身を抱え上げるように抱きしめる。辺りにはラーラマリアとグリムナの血が混じって一面赤黒く染まっていた。


「ぅ……」

「グリムナ!!」


(生きている……まだ生きてる……ああ、でも消えかけてる……命の炎が)


 人は腹を貫かれても1日ほどは生き続けることができる。当然状態によってはこれが早くなったり遅くなったりもするが、しかし内蔵が傷ついていれば感染症なども引き起こされ、まず助かることはない。しかしグリムナが受けた傷はもう少し上。位置的には心臓や肺が傷つけられていることが見て取れるし、出血もラーラマリアの時よりも激しい。


 だが、意識があるのかないのか、それすらも判然としないものの、確かに彼はまだ生きていた。生きてはいるのだが、それが長くは続かないであろうことは誰の目にも明らかであった。グリムナは焦点の合っていない目でヒッテを見つめ、しきりに何かつぶやこうとしているのだが、口の中は血液で満たされていて言葉にならず、ごぼごぼと泡が出るのみである。


 ヒッテはグリムナをぎゅっと抱きしめて彼に囁く。


「グリムナ……ヒッテが、助けます。コルヴス・コラックスの歌の秘術で……かならず、グリムナをよみがえらせます……ッ」


 コルヴス・コラックスに伝わる『歌の魔法』……ヒッテの母が語ったことが確かならば、彼女の持つその術は、死者をよみがえらせることができる。そしてその代わりに、大切な人の記憶をなくしてしまうという。ネクロゴブリコンが言うには、コルヴス・コラックスは通常の魔法は使えず、一生をかけて魔力を練り上げ、その生涯で一度、多くとも二度か三度ほどしか魔法を使うことはないという。それほどまでに命がけの『儀式』なのだと。


 グリムナは朦朧とした意識の中、ヒッテの肩を掴もうと力をこめるが、しかし全くそれは彼女を制止するには足りないものであったし、説得しようにも言葉が出ない。


 しかしそれでもグリムナが何を危惧しているかはヒッテには分かっていた。どんな副作用があるか分からない魔法を使うなど、グリムナは反対なのだ。グリムナはヒッテに以前『これ以上、もうヒッテから何も奪わせない』と誓ったが、しかし魔法を使えば、ヒッテの身に何が起こるのか全く分からないのだ。


 最悪の場合、魔法が正常に発動しないかもしれない。何しろ普通ならば一生をかけて魔力を練り上げるものであるが、ヒッテはまだ12歳。魔力の絶対量が足りないことも考えられる。『歌』や『魔法』の使い方についても、ヒッテがまだ小さかった頃、5歳の時に聞いたきりだ。正常に発動するのかどうかも分からない。どんな形で蘇るのかも、副作用がどの程度なのかも。


 要は、全てがあやふやな魔法なのだ。


 何が起こるのかも。


 その結果何を失うのかも。


 グリムナが生き返ったとしても、グールやリッチのようにアンデッドになっているかもしれない。人として生き返っても、その記憶まで再現されないかもしれない。副作用についても同じだ。ヒッテが『大切な人』の記憶を失うというのは一人だけなのか、それとも『大切だと思っている人』全ての記憶を失うのか。記憶を失うと人はどうなるのか。


 人の人格、魂とは、記憶の積み重ねによる行動の『傾向』に過ぎない。ならば記憶を失った人とは、人格や魂を失った者となるのではないのか。もっと言えば、それは人としての『死』を意味するのではないのか。


 そんな危険な賭けを、グリムナはヒッテにさせたくなかったのだが、しかしもうそれを止める力は彼にはない。もはや喉や気管に詰まっている血液をせき込んで吐き出す力さえも彼には残されていない。


 そして、ヒッテには、もうそれしか道は残されていないのだ。


「グリムナ」


 彼女は意識があるのかないのか、それすら判然としないグリムナに話しかける。


「今から、歌を聞かせてあげます」


 彼女の頬には涙が伝っている。


「ヒッテが、お母さんから受け継いだ歌です」


 涙を流しながらも、彼女の顔には優しい笑顔が浮かんでいる。そう、まさに母親が子をあやしている時の様な。


「この歌を歌い終えたら、もしかしたら……ヒッテは、グリムナの事を忘れているかもしれません」


 ヒッテは空を見上げる。空は、朝日にその影を映す竜と、そしてまばらに雲が浮かんでいる。辺りの雲は、町の炎に照らされて赤かったものが、段々と朝日の白に変わりつつある。


「だから、グリムナは目が覚めたらヒッテの事を探してください」


 彼女は再び視線をグリムナに落とし、そして涙声で語り続ける。


「必ず、必ずですよ!」


 くしゃくしゃに、悲しみで顔をゆがめ、涙を流しながらそう言う。彼女は今、恐怖に震えているのだ。自分が自分でなくなる恐怖に。


 グリムナは最期の力を振り絞って、せめて彼女の頬を撫でた。その手に自分の手を重ね、ヒッテはほおずりするように、抱きしめるように言葉を紡ぐ。



「会いさえすれば、きっと……ヒッテはまた、グリムナの事を好きになりますから……」

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