第5話 濃厚接触

「儂に……キスしてほしいんじゃ……」


 ネクロゴブリコンの言葉にグリムナは眉間にしわを寄せて脂汗をにじませた。


 確かに、確かにである。全ての技を授けた弟子に対して師匠が「最終試験だ、この俺を倒してゆけ。俺の屍を越えてゆけ」というのは定番イベントである。師匠を超える、というのは避けて通れぬ道ではある。それはグリムナも重々承知している。


「しかし……これは、ない……」


 思わずグリムナの口から声が漏れていた。


 グリムナは脂汗をかきつつもネクロゴブリコンの方を見据えた。彼もまじめな顔でこちらを真っ直ぐ見つめている。やはり冗談などではなさそうだ。ネクロゴブリコンは、ここまでにも何度も書き記しているが、ゴブリンである。オスのゴブリンである。そして爺である。ゴブリンの爺である。ただでさえ醜悪な顔をしているゴブリン種に老人特有の深いしわが幾重にも刻み込まれている。

 比喩的表現でも何でもないこの化け物にキスをしろと。それも思いっきり舌を絡ませあった激アツ濃厚接触をしろと。


 グリムナはそれでも一歩、二歩、とゆっくりとネクロゴブリコンに近づいて行った。もちろんこの老ゴブリンとディープキスなどしたくないが、『試し打ち』は必要だ。そして彼の元々の性根、心優しく、強く言われると断れない性格である。


 グリムナは覚悟を決めて、ネクロゴブリコンの肩をガシッと掴んだ。それに呼応するようにネクロゴブリコンは目を閉じて、唇をほんの少し突き出した。


 キス顔である。


 グリムナは一度は決心したものの、両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんでしまった。


「すいません、ちょっといいですか……?」


 顔を覆ったまま泣きそうな声でグリムナが話しかけた。


「なぜキス顔を……なぜ目を閉じるんです……」


「そりゃあ……これからキスをするからじゃろう……」


 至極尤もな答えである。これ以上の明快な答えはあるまい。


 そう、分かっている。グリムナも分かってはいるのだ。他意などないことを。再びグリムナが立ち上がってネクロゴブリコンの肩をつかむと、彼もまた目を閉じた。そして、しばらくすると、彼の緑色の頬にうっすらと紅色がさしたように見えた。


 ……他意、あるのでは……


 再びグリムナの動きが止まる。実は、彼にとってはファーストキスである。ファーストキスが師匠。師匠というかゴブリン。爺のゴブリンである。


「どうしてもいやというなら、他の方法もないとは言わんぞ」


 グリムナが散々迷っていると、ネクロゴブリコンが口を開いた。追い詰められたグリムナは当然この申し出を助け舟と思い、詳しく話を聞こうとする。


「うむ、要するに、目や鼻など孔同士で接触させることができんから突き出ている舌でやろうとしているわけじゃ」


「そ……そうですね。粘膜で、且つ凸形状になっている部分なんてなかなかないですからね……」


 グリムナが話の続きを促す。


「まあ、人間の男にはじゃな、もう一か所、凸形状で、粘膜になっている部分がある」


「あああああああああ!!!!」


 そこまで聞いてグリムナは再び顔を覆ってうずくまってしまった。


「聞きとうない。そんな話聞きとうない!」


 グリムナは話の先が分かってしまった。それでもなおその先は言葉に出して聞きたくないと、彼の本能が拒否したのだ。ネクロゴブリコンが「人間には」ではなく、「人間の『男』には」と言ったところで、彼には話の全容が分かってしまったのだ。


 ある。確かにあるのだ。凸形状で、粘膜になっている部分が彼にはある。しかも何やらある程度の硬度と長さを備えている。自分の意志でコントロールできないのが玉に瑕だが。さらに言うなら先っぽから数種類の体液を発射することができる。武器としてはこの上なく好都合である。


 しかし、それはさすがに……


 もはや正義の味方でも何でもない。ただのレイプ魔になってしまう。いよいよチビッ子たちに見せられまい。レーティングもR-18になってしまう。すでに結構やばいような気もしないでもないが。


 いよいよグリムナは後がなくなって覚悟を決め、がばっと立ち上がった。ネクロゴブリコンの肩をガシッと抑え、そのまま彼の唇に自分の唇を押し当て、舌を滑り込ませる。


「んぶっ……んん……」


ねちょ、ぐちゃ、とくぐもった声とともに粘膜の絡み合う音が聞こえる。グリムナとネクロゴブリコンの口の間がわずかに発光しているように見えるのは気のせいではなく、魔力が漏れ出ていることの証左であろう。


「んふぅ……んちゅ……んん……」


 次第にネクロゴブリコンの目が焦点を見失い、呆けたように宙をさまよう様になった。洞窟の中にはまだわずかな身動きする音と唾液のはじける音だけが聞こえている。読者の方々もきついと思うが書いている方はもっときついのだ。もうしばらくお付き合い願いたい。


「ぷはぁっ」


 ようやく終わったようだ。グリムナの唇がネクロゴブリコンから離れ、大きく呼吸を求める。さながら水面みなもに浮かび出でた鯨の如し。二人の唇の間はまだ薄く細い唾液の糸が頼りなさげに繋いでいる。

 ネクロゴブリコンはグリムナが肩をつかんでいた手を離すとそのまま膝から崩れ落ち、そのまま白目をむいて失神してしまった。顔は紅潮しており、体の方はびくびくと痙攣している。成功である。


「はぁ、はぁ……」


 肩を揺らして荒い息を吐きながら、グリムナがタオルで口を拭いた。涙を瞳に浮かべながら。


「性交……ごほっ、ごほん、成功じゃ。見事であった」


 息を切らしながらネクロゴブリコンがようやく上体を起こし、そう言った。しかしまだ立ち上がることはできずに、横座りの状態で地面に両手をつき、上目遣いで潤んだ瞳をグリムナに向けている。本当に勘弁してほしい。


 しばらく二人は荒い息を吐きながら無言で見つめ合う。


「も……」


 ネクロゴブリコンが何かを言おうとして言葉に詰まった。


「……もう一度……」


「長い間!! くそお世話になりました!!」


 グリムナが機先を制して土下座をして話を止める。


「いや……もう一度だけ……」


「このご恩は一生……!!忘れません!!」


 意図的にネクロゴブリコンの言葉を遮ってグリムナが叫ぶように謝意を伝え、そのまま洞窟を後にした。




 その足取りは幽鬼の如く頼りなく、頬には涙が伝っていた。


 力を得た。力を得たが、その代わりに何か大切なものをなくした気がする。人として大切な何か。


「必ず……必ず世界を平和にしてみせる!!」


 自然とグリムナは独り、決意を口にしていた。失ってしまった大切な『何か』のためにも、後戻りはできない。グリムナの伝説はここから始まるのだ。

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