第268話 水底(みなそこ)へ

「……ぅ……ゴホッ……」


 ラーラマリアはどれくらい気を失っていたのか、その感覚も分からず目を覚ました。


 先ほどはまだ夜明けの時間、空がうっすらと白み始めた頃であったが、今もまだ彼女のいる場所までは朝日が届いてはいないので、そう時間は経っていないはずである。周囲を確認しようと思ったが体に力が入らない。首を持ち上げようとするだけで刺された腹が痛む。


 腹は体の中心である。こういった大けがをしたときになって初めて自分の体がどれだけそこに普段依存しているのかを実感するのだ。何しろ寝返りを打つどころか頭を持ち上げる事すらひどく腹が痛んでできやしない。


 しかしラーラマリアは少しして、その『億劫さ』が腹のためだけでないことに気付いた。


 ひどく体が冷えるのだ。おそらく血を失いすぎたためだろう。少しずつ訪れる死への恐怖と共に安堵の気持ちも訪れていた。あそこまで大見得きったものの、結局グリムナの回復魔法が実はまだ使えて、治されたりだとか、たまたま通りがかりの回復術師に治されたりしたら元も子もないからだ。良かった、自分は無事死ぬことができるのだな、と安堵したのである。


 もしこれで結局死ななかったりしたら、とにかくいたたまれない。その時は仕方ないからグリムナに土下座でも何でもして傍にいることを許してもらえないだろうか。あれだけ格好つけたのにそれは大層恥ずかしいように思えたし、普通ならそんなこと許されないだろうとも思ったが、しかしグリムナならなんだかんだ言いながらも許してくれるのではないか、などと痛みのせいでまとまらない思考を回していたのだが、ここでふと、一つの違和感を持った。


 グリムナが視界にいないのだ。


 おかしい。そんなはずはない。先ほど意識が朦朧とした時、次に目を覚ますことはもうないだろう。もしあったとしても、その時はきっとグリムナの腕に抱かれながらだろうと思っていたのに、自分がもし次に目を覚ますことがあるのならば最初に見るのはグリムナの顔であろうと思っていたのに、実際に彼女の視界に入ったのは暁の雲であった。


 おかしい。これは何かおかしい。


 グリムナの身に何かあったのではないか、そう思ってラーラマリアは激痛に歯を食いしばりながら、何とかして上体を起こす。


 彼女の視界にまず入ったのは仰向けに倒れている少女であった。


(たしか、ヒッテ、とかいう……)


 それを見てラーラマリアはにやりと笑う。ざまあ見ろ。私はやってやったぞ。お前にここまでできるか。そんな優越感に満ちていた。


(ヒッテ、お前は確かにこの先グリムナと結ばれるかもしれない。結婚するかもしれない。ひょっとしたら子供すらできるかもしれない。それはそれですごく羨ましいけど……でも、グリムナの心の中に永遠に残る『初めての女』は私だ。私の存在はグリムナの中に永遠にのように刺さり続け、いつか死ぬその時まで、暗く深く心の底で淀み続けるんだ)


 だがおかしい。肝心のグリムナはどこに行ったというのか。なぜヒッテが寝ているのか、それは別に彼女にとってはどうでもよかったが、自分とヒッテをほったらかしてグリムナがどこかへ行ってしまうとはどう考えても彼女にとってはいまいち腑に落ちない。


 やがて彼女はヒッテの傍に倒れている人影に気付いた。ちょうどラーラマリアからは反対方向を向いて倒れていて気付かなかったのだが、それはどう見てもグリムナその人であった。


「グ……グリ、ムナ……」


 腹が痛くて大きな声も出せない。ラーラマリアは体を引きずりながら、何とか這って彼のもとに近づいていくが、しかし様子がおかしい。微動だにしない。尋常であればたとえ横向きになっていようが、呼吸のため、体が動き続けるはずなのだが、全くその気配がない。それだけではない。背中の中心に大きな傷があり、おびただしい量の血が流れている。ラーラマリアは最初、周辺の血は自分のものだと思っていたのだが、しかしどう考えてもおかしい量であった。


 いかにラーラマリアと言えどもこれだけの量の血をその体から失っていればとうの昔に死んでいるはず。それだけの量の血が周辺にはまき散らされていた。


「グリムナ……」


 決して大きな声ではなかったが、彼女の呼びかけにもグリムナは反応しない。近づいた彼女がグリムナに触れてみると、多くの血を流して体温を失っている彼女よりも、まだグリムナの方が体温が低かった。晩夏の明け方の肌寒い空気の中、周囲の雰囲気と変わらない温度になっていた。


「グリム……グホッ、グリムナ!」


 咳き込んで血を吐きながら、ラーラマリアは怪我の痛みも忘れ、半狂乱で彼の衣服を引っ張る。


 ゴロン、と彼の上半身が仰向けになり、その姿が露わになった。


 口の周辺にこびりついた乾いてパリパリになった血、力なく半開きの瞳。横を向いて倒れていた状態から急に仰向けになったというのに、瞳孔も収縮することなく固定されている。そして、冷え切った体温……


 其の全てが、彼の死を物語っていた。


「そんな……ッ! こんなの、ゴホッ……こんなのッ、違う!! 死ぬのは、あなたじゃなくて、私なのに! あなたが死んじゃったら、いったい誰が私の事を覚えていてくれるっていうの!!」 


 ラーラマリアは涙を流しながら怪我の事も忘れて叫び続ける。


「こんなの……こんなの……ッ!! 話が違うッ! こんなの……」


 何の話が違うというのか。しかしその言葉に応えるものは誰もなく、むなしく血泡交じりの彼女の声が響くのみである。


「ひぐっ、誰か、誰かぁ……えぅ、誰か……ああ、誰か、グリムナを助けて! うぅっ、誰か……」


 情けなく子供のように泣きはらし、鼻水を垂らしながら助けを求めても、それに応える者などいない。彼女自身、命の終わりが近い。今していることは、無駄に自身の体力を削る行為に他ならなかったが、しかしそれでも助けを求めずにはいられなかったのだ。


 そこでふと、彼女は想い人に貰ったペンダントの事を思い出して自分の胸元にあった宝石を握った。


水底みなそこ方舟はこぶね……確かウルクがそう言っていた……)


 以前に、ヴァロークのウルクが「いざとなったらそれを使え」と言っていた、ターヤ王国に伝わると言われる魔道具。グリムナをパーティーから追放するとき、餞別に彼から送られたペンダント。実はそれはターヤ王国の王女ベアリスからグリムナが下賜されたものであるのだが。


 ―それは第四軸方向への移動を可能にする魔道具だ


 ―我々の三次元世界では時は一定の方向にしか流れないが、その『方舟』の中ではプラスとマイナス、どちらの方向にも可逆的に時が流れる


 彼の説明は実際ラーラマリアにはほとんど分からなかったし、鬱状態の時に話されたので、分からないことについて質問することもできなかったが、たった一つだけ理解していることがある。


 ―とはいえ、我々三次元人はたとえその方舟の中でも第四軸を自由に思うように移動できるわけではないがな


 ―だが、何か時の流れで解決できない事態が起こった時、それを使えば誤魔化しができるかもしれん


 ―結果がどうなるかの保証はできんがな


(今の状態でグリムナと一緒にこれを使ったら……どうなる……? いや、どうなるかなんてウルクが言ってた通り、誰にも分からないのか。うまくいけば時間が遡行してグリムナの傷が治るかも……それに、もし失敗して『方舟』の中で二人とも死ぬにしても、それはそれでロマンチックじゃない? 死んでいようが生きていようが、永遠に二人だけで異次元の中を、彷徨い続けるのよ)


 ラーラマリアはゆっくりと、胸元のペンダントに魔力を集め始める。


 彼女は気づいていなかった。一度死体となっていたグリムナの傷が、すでにふさがっていることも。


 そして、その心の臓が、弱弱しい力で、少しずつ動き始めていたことも。

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