第299話 お背中流します

「どう? 記憶……戻らない?」


 夕食をとりながら、ラーラマリアがそう尋ねてきた。グリムナは夕食に食べているスープをスプーンで掬いながら、気のない返事をする。


「まあ……な……」


 彼らのいるのはピアレスト王国の町アンキリキリウム。そこにある大衆食堂で夕飯を取っていた。


 グリムナが答えを返すとラーラマリアはほっと一息ついて安心したような表情を見せた。少なくともグリムナにはそう見えたのだった。


「ラーラマリアはさ……本当に俺に記憶を取り戻してほしいと思ってる?」


「え?」


 それは記憶を取り戻してからずっと、グリムナが考えていたことであった。現在彼らはグリムナの記憶が戻る様に、と旅をしている。


 ローゼンロットの山中で目を覚ました二人はとりあえずすぐ近くのローゼンロットに向かい、そこで一泊した後、しばらくそこで冒険者としての仕事をいくつかこなしてから旅立った。


 幸いにもグリムナの冒険者ギルドでの登録はまだ有効だったために、金を稼ぐのはそう難しい事ではなかった。隊商の用心棒や畑を荒らす害獣の駆除などをしながら彼らはゆっくりと大陸の西を目指す。その道中グリムナとゆかりのある場所を訪ねながら。


 しかしグリムナが「記憶が戻らなかった」というと、そのたびにラーラマリアが一瞬ほっとしたような表情を見せるのをグリムナは見逃していなかった。


「その……正直なことを言うとね……」


 ラーラマリアはおずおずと口を開く。


「別に戻らなくてもいい、とは思ってる。だって、今がこんなにも幸せだから」


 そう言ってラーラマリアは食事中にもかかわらずグリムナの肩に自分の頭を乗せた。


 位置関係が分かりづらいだろうが、二人は一つのテーブルを占有して使っているにもかかわらずテーブルの一辺に横並びで座っている。それもどえらい近くで。


 グリムナが左、ラーラマリアが右に座している。グリムナの右ひじに絡めるようにラーラマリアの左手を通して、腕を組んで食事をとっている。


 ラーラマリアは左手だからまあいいがグリムナは右手が使いづらくて仕方がない。


(胸が当たって、食事に全然集中できない……)


「ちょっと、ラーラマリア。食事中だから!」


 グリムナは彼女の頭をぐい、と押し離す。最悪イチャイチャしながら食事することは許されても、食事の手を止めて乳繰り合ってれば食事の途中であっても店を追い出されるかもしれない。ラーラマリアは少し残念そうな表情を見せたが、しかし少し真面目な顔になってグリムナに話しかける。


「グリムナ、この食堂……何か思い出すことは、ない?」


 問いかけられてグリムナは辺りを見渡し、天井を見上げ、最後に自分の手元にある料理を眺め、そしてゆっくり答えた。


「いや……ないけど、ここ、何かの思い出の場所なの?」


 ふう、とラーラマリアは安堵の息をつく。この食堂は第一話目で、ラーラマリアがグリムナを追放した食堂である。ラーラマリアはグリムナの旅に同行していたわけではないから全ては分からないが、しかしこうやって少しずつ旅の軌跡を辿り、『思い出さないこと』を確認しながら旅しているのだ。


 食事を終え、二人は食堂を出て、今夜の宿に移動する。


「例の如く……一人用の……シングルベッド部屋か」


「え、えへへ……えっとぉ~そのね? 路銀も節約したいじゃない?」


 ううむ、とグリムナは考え込む。『白い部屋から出てこの一か月ほど、一応彼女の説明では二人は婚約者だという事であったが、彼はいまいちその言葉が信じられなかった。というか正直彼にとってはラーラマリアが自分の事を好きだった、という事実自体が青天の霹靂であったのだが。


 グリムナは無言で野営用の毛布を床に敷いて寝支度をする。


「ちょ、ちょっとグリムナ! その……」


 呼び止めたものの、言い淀むラーラマリア。


「えと……体を、拭かなきゃ……?」


「そ、それもそうだな」


 そう言ってグリムナは宿のカウンターに湯を貰いに行く。


「あれ? あんた確か裁判所で会った……グリムナとかいう」


「ん? 俺の名前知ってるのか?」


 宿の親父が不意にグリムナに声をかけてきた。名前を知っていること自体は別に不思議でも何でもない。なぜなら宿帳に本名が書いてあるからだ。それよりも『裁判所』という単語である。グリムナには自分が裁判所に行った記憶などない。


「一緒に泊まってるのは……んん? ラーラマリア? 5年前に行方不明になった勇者と同じ名前だな……」


 親父はぶつぶつ言っていたがしかしそれ以上特に詮索するようなこともなく、そしてグリムナも彼の言っていることに全く心当たりがなく、意味も分からなかったのでそのまま湯を貰って部屋に戻っていった。


「ラーラマリア、お湯を貰って来……うわぁ!?」


 ドアを開けて部屋に入ったグリムナは大声を上げて固まってしまった。部屋にはすでに上半身裸で手で胸を隠しただけのラーラマリアが待っていたからだ。彼は慌ててドアを閉めてから後ろを向く。


「ラーラマリア……なんて格好してるんだよ……」


 彼女は問いかけには答えず、ぎしりぎしりと床を踏みしめ、近づく音だけが聞こえてくる。


「そのぅ……」


 その一言だけ言って、彼女は後は無言でグリムナの後ろにぴったりと立つ。柔らかい二つのふくらみが、グリムナの背中越しに感じられるほどの近くに。まるでその先端の突起を通して彼女の心音までが聞こえてくるようであった。


「せ……背中、拭いてもらおうかな? って思って……ホラ、わたし体かたいから!」


 そう言ってラーラマリアは急いでベッドの方へ走っていき、後ろ向きにペタンと座った。これが、今の彼女にできる、精いっぱいである。本当はもっとぐいぐい行きたい。さっきも近くに立つだけでなく、後ろから抱きつきたかった。


 しかしあまり強引に行くと、前回のローゼンロットの町でやらかしたようにグリムナが何か思い出してしまうかもしれない。いや正直何も思い出さなくても町の往来であの行動はどう考えてもアウトだったとは思うのだが。


 グリムナはラーラマリアが背中を向けているのを確認してからゆっくりと彼女に近づき、たらいを床に置いて手ぬぐいを湿らせる。


「ん……気持ち、いい……」


 くぐもったような静かな声を上げるラーラマリアに、普段と違う印象を受けて、グリムナは思わず赤面しながら背中を拭きつづける。


 白磁のように美しい肌、飾り柱のように艶やかな曲線。首から続く控えめな僧帽筋、広背筋から続く大胆なくびれ。その先はズボンで隠れてはいるものの、女性的なふくらみは朴念仁のグリムナをも困惑させる。


 だが、グリムナはふと冷静になって、別の事を考えていた。


(なんだろう……違和感? デジャヴ? 前にもこんなことがあったような……いや、拭かれたのは俺の方だったか?)


 グリムナは手を止めて天井を見上げる。


「ど、どうしたの? グリムナ、我慢できなくなっちゃった? どどどどどうしてもっていうなら……グリムナ?」


 手ブラで振り返るラーラマリアであるがグリムナはそんな事にも気づかずに呆けたように天井を見つめながらぼそぼそと呟く。


「俺は……この部屋に泊まったことがあるような気がする」

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