第217話 ここは任せて先に行け
新月の夜。
空に輝くは小さな星たちのみ。
ビュートリットの屋敷、この国には珍しい石造りの堅牢な作りであり、ピアレスト王国との国境を抱えるこの地域にあってはそれは砦としても働くものである。堅牢な作りではあるのだが、それは軍隊などの多勢を想定したものであって、少数の侵入者に対応したものではない。
まさに、そういう者共がこの屋敷に侵入しようとしていたのであるが、しかしビュートリットはもちろんの事、衛兵たちもその事実を知る由もない。
「ん? なんだ? こんな時間にガキが……」
裏口を守っていた二人の衛兵の内の一人が不審な人物を見かけて小さい声を上げた。もう一人の衛兵も声を聴いて人影の方を見たが、特に大声をあげたり、威嚇したりはしない。
こんな時間に子供が一人で歩いていることは確かに異様ではあるが、しかし所詮は子供。とるに足らない存在である。
小柄な女の子であった。黒い長髪に、前髪が長く、目が隠れているため表情は読み取れないが、しかし特段向こうもこちらを警戒している様子もない。迷子だろうか。
「おい、ガキ、こんなところで何をしてる? ここはビュートリット様の屋敷だぞ? 用が無いなら帰った帰った!」
しかし少女は全く臆することなく、右手を差し出しながら答えた。
「用ならありますよ? この屋敷の主、ビュートリット様に用事があってきたんです」
衛兵は全く予想していなかった言葉に顔を見合わせて疑問符を浮かべる。
来客を招いているなど、そんな話は聞いていない。ましてやこんな夜中に。それもこんな子供を。
少女は右手を差し出したままである。その手の中に何かあるのか、と衛兵の一人が自らの手を少女の手に伸ばす。
「一体何の用だってんだ?」
少女は衛兵の手首をつかみながら答える。
「ベアリス王女をお連れしました」
刹那の出来事であった。少女は一瞬のうちに右手で手首を固定し、左手で衛兵の手首を返すと、そのままぐい、と手のひらを上に曲げ、衛兵は手首の関節を極められたため、あおむけに倒れこむ。少女は全く容赦することなくそのまま勢いをつけて衛兵をひっくり返したため、彼は地面に後頭部を打って気を失った。
「おい! なにしやがる、このガキ!」
もう一人の衛兵が驚いて詰め寄ろうとしたが、しかし自身の後ろに人の気配を感じて振り返った。
そこには中肉中背の黒髪の若い男が立っていた。
「くせも……」
曲者、そう言葉に発する間もなく、彼の唇は封じられた。その若い男の唇によって。
「んむ~!! んんんん!??!!!?!!??」
突然のキス。がっちりと腰をホールドされ、逃げることも抵抗することも許されない。だんだんと体に力が入らなくなり、脳髄に媚薬を流し込まれるように、抗い難い快楽と多幸感が流し込まれていく。
ちゅぽんっ
「んふぅ……」
口が離れると、衛兵は顔面を紅潮させ、恍惚の表情を浮かべながら膝から崩れ落ちた。
「嘘は言ってないぜ。俺たちはビュートリットにベアリス王女をここへ連れてくるように仰せつかってるのさ」
口の周りの唾液をふき取りながら若い男は余裕の笑みを浮かべる。
「ひえぇ……グリムナさん、なんなんですかその技……その魔法のキスで盗賊団とかトロールも倒したんですか……?」
もちろんその通りである。
人を愛し、魔を愛し、生きとし生けるものから憎悪と、怒りを奪い、そして代わりに平和と愛を与える。グリムナの『魔法のキス』がまさに炸裂したのだ。
グリムナを畏怖する言葉とともに現れたベアリスはこれまでの薄汚れたどす黒いワンピースを着てはいない。予算の都合もあり、あまり高級な服も着てはいないが、しかし町で購入したのであろう新品の、上等なワンピースを着、腰にはベルトを締めて細身のレイピアを差し、そして頭にはどこかで調達したのか、月桂樹の冠を戴いている。
王族としては若干貧乏くさくはあるものの、しかし王者の風格を備えた、エルフのように美しく、清いいでたちである。当然以前のように異臭を放った垢だらけの体ではなく、身も清めている。
「さて、ベアリス様、王の凱旋ですぞ……!」
賢者バッソーに促されて、ベアリスは堂々とビュートリットの屋敷の廊下を一歩、また一歩と歩を進める。
しばらく進むと異変に気付いたのか、廊下をドタドタと数名の衛兵らしき者達が駆け寄ってきた。
「何者だ! 侵入者か!?」
剣を抜き放ちながらグリムナ達を威嚇する衛兵であるが、しかしグリムナが余裕の表情でベアリスの前を遮るように立ちはだかる。
「女王陛下、ここは私にお任せを」
グリムナは余裕の態度を見せるが、しかし数が多い。今視界に入っているだけでも広い通路に5人の衛兵がいる。三人を守りながら、しかも手傷を追わずにここを抜けてビュートリットのところまでたどり着けるのだろうか、と一瞬考えた時彼らの後ろから風切り音が聞こえた。
2メートルはあろうかという巨大な剣が宙を飛び、衛兵の内三人を切り裂いた。何事かとグリムナが振り向こうとした時、その時には大剣を投げつけた人影は風の如き速さで彼らを追い越し、一瞬のうちに残った衛兵の顔を横に殴りつけた。
残る一人が剣で切りかかろうとするが、剣を投げつけた大男は衛兵の剣を握る手を押さえつけ、今度は強烈なアッパーカットを顎に見舞った。
「ベルド……!?」
「素人が……たった四人で国防の要たるこの屋敷に乗り込むとは無謀だぜ!」
そう、グリムナ達を助けたのは『元』暗黒騎士ベルド・ルゥ・コルコスであった。
ベルドは投げつけた剣を悠々と拾い上げると、グリムナに話しかける。
「俺が派手に暴れて陽動してやる。ビュートリットの執務室はこの廊下をまっすぐ行って2番目の通路を右だ……ここは俺に任せて先にいけ」
『ここは俺にまかせて先にいけ』が好きな男である。グリムナは彼に礼を言うと、けがをしている衛兵の手当てをしてからすぐに廊下を進んでいった。
「来たか……」
ビュートリット・ルゥ・コルコスの居城、城と言うには少し小さいが、彼の屋敷の執務室ではいつも置いてある年代物の机は部屋の端に寄せられ、玉座のように中央に据えられた愛用の椅子にはこの屋敷の主、ビュートリットが座していた。
普段彼はあまり派手な格好は好まないが、この日ばかりは手に大物の宝石の着いた指輪がはめられ、鮮血の如き赤い、大きいマントを羽織り、そして甚だしくはその頭には金の冠を戴いていた。
「悪趣味ですね……王にでもなったつもりですか」
彼の部屋に侵入してきた曲者の一団、中央に女王ベアリスを囲む者たちの一人、ヒッテが悪態をついた。
「貴様らが来なければそうなるはずだった……まったく、ゴキブリの様な生命力だな。まさかあの砂漠から帰ってくるとは、思いもよらなかったぞ」
そう答えながら、ビュートリットは手にしていたヴィーキングソードを鞘から抜いた。それに合わせて、グリムナも腰に差していたマチェーテを引き抜く。
「おとなしく死んでおれば全てうまくいったのに、どこまでも馬鹿な王女だ。来い……決着をつけてやる」
ビュートリットは怪しい笑みを見せながら左手でグリムナ達を手招きするが、しかしベアリスは納得がいかないようで口を開く。
「何故こんなことをするんです、ビュートリット! あなたは野心や欲望で動く人間ではないはず! 以前のあなたは、真に国のためを思い、時には陛下にすら苦言を呈すことのあるまことの忠臣だったはずです!」
「確かに以前の俺はそういう人間だった。だが状況が変わったのだよ。愚鈍な王が倒れ、対立が起こり、国が割れた。その時、俺に比肩する者が見当たらなかった。これはつまり、天が俺に『国を盗れ』と言っているのだと気づいたのだ。俺以外の誰にもできん。
ここでお前を消し、元々の予定通り俺が王党派の長になるのだ。神妙に死ねぃ!」
神速の斬撃であった。ベアリスとビュートリットの間にグリムナが割って入り、彼の剣をはじいたが、しかしこれまでの戦闘経験、リヴフェイダーやブロッズ・ベプト、ヤーンとの戦いの経験がなければとても彼女を守り切れなかったかもしれない。
文官の長として知られるビュートリットであるが、元々は王国南側の国防の要、コルコス家の長子、剣の腕は相当なものである。
「戦いはまだ続く。こんなところで躓くわけにはいかんのだ。革命派の愚か者どもを根絶やしにせねばならん。我らの後ろ盾となっているベルアメール教会にもこの地を踏ませるつもりもない。貴様らはおとなしく生け贄となれ!」
ビュートリットは言葉を発しながらも強力な斬撃を止めない。二人の剣がかち合うたびに火花が飛び、その衝撃から逃げるようにバッソーとヒッテは距離をとった。もはや二人の戦闘能力では間に入ることなどできないレベルの戦いなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます