第394話 no world order
「ようやっと動き出したか……」
大司教はゲーニンギルグの建造物群の中心にある建物、大聖堂のバルコニーにゆっくりと歩を進めて、満足げな笑みを浮かべた。
「お怪我の方はもう大丈夫ですか」
メザンザの側近の一人、シール司教が訪ねる。彼は現在、
メザンザの衣服の腹部には血痕が付着している。先ほどラーラマリアに刺された傷であるが、現在は回復魔法により治療が済んでいる。メザンザは彼の問いには答えず、バルコニーの手すりに両手をついて満足げな笑みを浮かべた。
その場所は大聖堂の広い中庭に面しており、平時であれば広く聴衆を集め、所信表明演説などをするときに使われる場所である。
建造物群の中でもここだけは周りに高い建物がなく、見晴らしがよい。
それは即ち、南の山で産声を上げた、死神の竜、ウニアの姿がよく見えるのだ。
それだけではない。数回の衝撃波と、竜の復活によって恐慌状態となって我先にと逃げだす民衆や公僕共の姿もよく見える。まさしく混沌の世を現す風情であった。
「
「猊下、いかがいたしましょう。民に避難を呼びかけましょうか。無秩序に逃げ惑っていてはいたずらに被害者も増えましょう」
「避難?」
シール司教の言葉にメザンザが聞き返す。
「二十万からなるローゼンロットの民をいったい
確かにその通りではあるのだが、しかしシール司教の表情は困惑に濁る。逃げぬのならば、ここで座して死を待てというのか。
「現存する兵力を結集して事に当たらせよ。第一聖堂騎士団が残っておるはずだな? ヤー・バニシ・プリヴァティーズ卿の弟だったか。汚名を
「かしこまりました」
「それと」
さらにメザンザは言葉を続ける。
「ゲーニンギルグの起動許可を出す。枢機卿に通達せよ」
この言葉にシール司教は目を見開いた。
「あ、あれを、ですか……果たしてまともに機能するか……」
「ゆけ」
メザンザはしかし司教の態度を気にかけることなく問答無用で指示を出す。
シール司教は走ってバルコニーから大聖堂に入っていく。メザンザは笑みを見せた。あの真面目な司教の事だ。自分の命令を無視して避難指示を出したりはしないだろう。
「この四百年で人がどれほど強くなったかを見せてやれ」
そう声をかけてメザンザはまた竜の方に視線をやった。
できるわけがない。
蟻が象を倒せぬように。
人が天災に抗えぬように。
確かにこのローゼンロットには屈強な騎士団がいくつもある。
だがいずれも。
竜の前では児戯にも等しき破壊力であるのは明白。山ほどの大きさのある殺意の塊に対しては無力なのだ。それは重々承知の上で事に当たらせているのである。
そしておそらくたとえ避難をしたとしても無駄。
竜の成り立ちを考えれば、あれはおそらく町を破壊するのではなく、人に吸い寄せられる。大勢で避難しても、その場所に殺戮をしに来るだけなのだ。
メザンザとしては、ある程度の被害を出し、その上でもうどうにもならぬ、と事態が進展してからゆるゆると避難民を導けばよいと考えている。
愚かな人類など痛い目を見ればよいのだ、と。
「
抑えようと思っても笑みがこぼれる。わなわなと武者震いがする。ようやく願いが叶うのだ。愚かなこの世界を滅ぼし、真に新しい世界を作り出す。
「ご機嫌だな」
ふと、彼の背後から男の声が聞こえた。振り向くと、それはヴァロークの中心人物、ウルクであった。先ほどの衝撃波に巻き込まれたのか服も体もボロボロだが、素焼きの瓶とタンブラーを二つ持っている。彼はタンブラーの方を少し高く掲げ、さらにメザンザに話しかけた。
「あんたもやるかい? 葡萄酒だ」
「なるほど。人の世の終わりを眺めながら一献やるのも乙なものよ」
メザンザがタンブラーを受け取ると、ウルクは紫色の酒をとくとくと注いだ。自分の物にもそれを注ぎ、くい、と一口飲む。
「過去の賢人は、何を考えて聖剣なんてもんを作ったんだろうな……」
それはウルクの素直な疑問であった。
確かに、聖剣エメラルドソードは尋常ならざる兵器である。無限に人の命を吸い、それを力と変えてさらに敵を切り刻む。だが、それが神の如き力を発揮するのも、あくまで対人。とてもではないが竜に勝てるとは思えないのだ。
「そこまで竜の力を過小評価してたのか」
ウルクの言葉にメザンザは竜の方に視線を向ける。あの方角ならば、おそらくもう二つ三つ村を飲み込んでいるだろう。あれに比べれば針の如き剣が一本あったところでとても敵うはずがない。
「人の魂を吸い、竜を斃す剣、か……」
そう呟き、そう言えばあの二人、ラーラマリアとブロッズはどうしたのだろうかとメザンザは思いをめぐらしたが、すぐにどうでもよくなった。
もう竜は復活したのだ。
いくら聖剣があろうとも、もはやあれをどうこうできるとは思えない。
「おそらくは、
「だといいがな……」
ウルクはもう一口葡萄酒を口に流し込んだ。
「あんたは新しい世界を再構築したいみたいだが、俺はこんな世界、もう滅びちまえって思ってる」
ウルクは数歩前に進み、バルコニーの手すりに体重をかけて、少し寂しそうに呟いた。
「俺の話……聞いてくれるか?」
「
あまりにもつれない返事にウルクはフッと笑いを浮かべた。そう。全てはもう滅びるのだ。抗えるものなどもういない。その後に何も残らずとも、新しい世界を築こうとも、それは全て運次第。なるようにしかならないのだ。
「ラーラマリアは、どんな心変わりがあったんだろうなあ……」
ウルクは誰に話しかけるともなく呟いた。あれほどに破滅的な思考をしていた女が、いったいどんな心変わりがあって世界を救おうなどと思ったのか。それだけが不思議でならなかった。
もし彼女の見ているものが、見ていたものが何かわかったのならば、自分も世界の滅びを望んだりしなかったのだろうか。少しだけ、そう考えた。
「あんたは裏切ったりしねえよな?」
「今更裏切りもへったくれもあるまい」
確かにその通りなのだ。もう賽は投げられたのだから。ウルクは再び笑みを浮かべた。
二人の眺めるその先には、ただ、死と絶望だけが広がっていた。
そこへ、何者かの駆け寄る足音が聞こえた。メザンザは振り返ったが、ウルクは葡萄酒を煽りながらそのまま竜を見つめている。
焦った表情で走ってきたのは、官邸でメザンザの世話をしている執事の初老の男であった。何を焦っているのか。事ここに及んで竜以上に逼迫した事態があろうか。
何があったのか、メザンザが訪ねると執事は叫ぶように彼に話しかけた。
「奥方様が! 奥方様の容態が急変して……」
メザンザはタンブラーを落とした。
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