第395話 君とその世界が見たいから
「レイミア! レイミア、無事か!?」
珍しく、メザンザが取り乱している。妻の名を叫びながら、部屋に駆けこんできた。彼の妻、レイミアは閉じていた眼をゆっくりと開け、彼を安心させようと、力なく微笑もうとしたが、もはや頬肉を上げることすら思うようにできない。
メザンザはベッドの横に跪き、やせこけた彼女の頬を包み込むように両手で撫でた。
「も、もはや、この国最高の回復術師でも、手の施しようがなく……」
老執事はハンカチで汗を拭きながら言い訳のようなことを口にするが、メザンザもそれを責めようとはしない。
ほとんどの場合、回復術は病に対して用をなさない。加齢や疲労、内臓の不調、それに毒による病であれば効果があるが、ウィルスや細菌の場合は、回復術をかけるとそれらまで活性化してしまうため余計に死期を早めてしまうのだ。
彼女の体を侵しているのは、癌である。
「お人……払いを……」
蚊の鳴くようなか細い声でレイミアが呟くと、執事と使用人達はすぐに退室して行った。おそらくは、最期の言葉だろうと、察したのだ。
「レイミア……とうとう、世界は生まれ変わるのだ。真に弱き、虐げられた者達が救われる。そんな世界がもうすぐ来る。気を強く持て」
レイミアは、弱々しく、メザンザの顔に手を伸ばそうとした。彼は、それを強く握りしめる。
まるで、枯れ木のようであった。そのあまりの弱々しさに、メザンザの目に涙が溜まる。
「大きな手……」
レイミアの顔に少しだけ、笑みが浮かんだ。メザンザの、岩のように硬く、大きい手を見ながらゆっくりと語る。
「この優しい手に、ずっと握っていてほしくて……私は……あなたの傍にいようと、心に決めたの……」
「ずっと握っていよう」
メザンザの瞳から、一筋の涙が零れた。
「新しい世界に共に生きるのだ。ともに新しい世界を見るのだ」
レイミアは少し悲しそうな表情になった。
「こぶしを握っていては……誰かの手を取ることなどできないわ……」
彼女の眉間には深いしわが刻まれている。
「本当に……あなたはその世界を望んでいるの? 胸を張って、自分はただ善行をしていると……言えるの?」
思わずメザンザは目を見開いた。
彼は、妻に仕事の事を話すことはない。当然、世界を滅ぼそうとしていることも、ヴァロークと結託していることも、妻は知らない筈である。しかし彼女は、見抜いていたのだ。
「私は……あなたのことは、誰よりもよく分かっているつもりよ……あなた自身よりも。
だから、あなたと一緒になることを選んだんですもの」
メザンザは、女性を愛することができない、
司教となって、この世界を変えたい。
その野望をひそかに心に秘めていたメザンザに偽装結婚をもちかけたのは、実は彼の幼馴染み、レイミアの方からであった。
聡明で美しく、朗らかな女性であった。おそらく彼女が望めば、女性が叶えようとするほとんどの『幸せ』は容易く手に入ったであろう。
だが、彼女はメザンザと共に歩む道を選んだ。今この時に至るまで、彼女は、メザンザに抱かれたことは、無い。
それこそがメザンザがただ一つこの世に残した『後悔』であった。この、心優しい女性を自分の野望のために『不幸』にしてしまった。自分は彼女から多くの物を与えられたのに、彼女に何も返せていない。そのひとしずくの闇が、彼の心に波紋を広げ続けている。
「自分のやっていることを……一点の曇りもない正しい道だと……胸を張って、私に言えますか……?」
レイミアは、両の
「あなたはいつもそう。自分に厳しすぎる。崇高な目的のため、己を殺そうとする。
もっと、自分に優しくしてあげて……自分を苦しめないで」
「
「正しい世界って、なに?
優しい世界よりも、良いものなの?
私は知っているわ……あなたは、本当は誰よりも、優しい人だということを……これ以上、自分を殺さないで」
レイミアは枕元に置いてあった数冊の本を手に取った。
「あなたが手慰みにと差し入れてくれたこの小説……とても面白かったわ」
その本の著者名は『フィー・ラ・フーリ』となっている。
「特に敵でありながらも心惹かれ合うブロッズとグリムナが……ホント、もう、尊くって……ホモって素晴らしいわね」
「ああ、ホモは素晴らしい……」
レイミアは穏やかな表情でパラパラとページをめくる。
「でも、この第6章はいただけないわ……」
レイミアの表情が少し厳しくなった。
「これまで培ってきたBL路線全否定でいきなり主人公とエルフの女が恋に落ちるとか……しかもこの『フィー』って作者の事でしょ? ここにきて急にメアリー・スー展開とか、読者舐めてるのかしら……
私、我慢できなくって編集社に苦情の手紙送っちゃったわ。初めて送ったファンレターがBL小説の内容への苦情とか、私、終わってるわね……」
「大丈夫だ。その展開は
二人とも熱心な読者のようである。いろいろと終わってる夫婦である。
「でもね……いいことも書いてあるのよ」
レイミアはゆっくりと、あるページを開いた。
「宿命だとか運命だとか、そんなくだらない物全部投げ捨てて、最後に残ったものの中に、人の本当の価値がある。人はもっと……自由であるべきだ。
……あなたに、必要なものは、これじゃないのかしら……?」
生まれながらに背負った、己の業に苛まれ、闇の中を彷徨っているような人生であった。
明るい場所を避けて、自分を殺して、己の本心を隠しながら生きていた。此の仄暗い情欲が、周りの人間にも、自分にとっても、途轍もない厄介者であると言われているような気がして、隠し続けていた。世界の全てが、敵に見えていた。
ただ一人を除いて。
そうだ。
「
この湧き上がる様な暖かい感情は何か。
自分の目の前にある世界は、こんなにも光り輝いていたというのに。
彼にとっての『世界』……メザンザはレイミアの手を今度は両手で、優しく包み込むように握った。
女が抱けないからなんだというのか。
自分は、こんなにも、彼女の事を愛しているではないか。彼女はこんなにも、自分の事を愛してくれているではないか。
今ならはっきりと、胸を張って言える。大司教メザンザは目の前の貴婦人、レイミアを心から愛していると。
深く刻み込まれた皺、岩の如く歯を食いしばったような相貌。いつの間にやらそれは鳴りを潜め、まるで希望に燃える少年のように見えた。
「あなたの、そんな晴れ晴れとした表情を見るのは……何十年ぶりかしら……」
そう言ってゆっくりと目を閉じたレイミアに、メザンザは優しく話しかける。
「たとえ抱けなくとも、子を為さなくとも、お前は
「わたし、きっと言えますわ……あの世でも、胸を張って。
わたしは、あの心優しい大司教メザンザの……妻なのだと」
「安らかならんことを……」
メザンザのその声に、レイミアは、安堵の笑みを浮かべた。
「わたし……ほんとうに、幸せな人生でした……愛しています……」
そう言ったきり、レイミアは、もう口を開くことはなかった。
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