第437話 全部思い出したよ!
「どう? 気分はよくなった?」
グリムナが小さな男の子に話しかけると、彼は元気よく「うん!」と言い、後ろに心配そうな表情で控えていた母親も安堵の表情を浮かべた。
「回復魔法で抵抗力を上げていますが、直接病気の元を断ってるわけではないのでまた悪くなるかもしれません。そしたらまた来てください。二、三回もやれば完治すると思いますよ」
「ありがとうございます。お金が無くて、こんなものでしかお礼できませんが……」
母親は背負っていた籠から野菜や干し肉を出してテーブルの上に並べて、もう一度感謝の言葉を述べてから、去っていった。
「午前中のお仕事はこれでお仕舞いですね。今日は天気もいいし、外でお昼を食べましょうか」
ヒッテが笑顔でそう言う。グリムナも笑顔で応え、ドアを開けて外に出た。草原には心地よい風が吹いている。暖かい日の光に包まれながら、グリムナは外に出されているテーブルとイスに歩み寄って、ゆっくりと腰を下ろした。
『この空間ではすでに1か月近い時が流れている……もはやこの世界に何の疑念も持ってはいないようじゃな……』
グリムナとヒッテを天高い空中から見下ろす陰、ベルアメールはニヤリとほくそ笑んだ。
「サンドイッチか、ありがとう、ヒッテ」
「まあ、生活の糧はグリムナに頼りっきりですし、これくらいは」
「ラーラマリアは?」
グリムナは家の方に視線をやった。
「昨日は体調が悪いとか言って何も食べてませんでしたね。さっき準備があるとか言ってなんかごそごそしてましたけど……そのうち来るんじゃないですか? 先に食べてましょう」
グリムナは遠くの景色に目をやる。小高い丘の上にあるグリムナの
「こんなに……ゆっくりとした時間が過ごせるなんてな……あっちこっち走り回ってたあの頃が嘘みたいだ……」
ゆっくりとした手つきで、サンドイッチを口に頬張ってから、グリムナはそう呟いた。世界は、こんなにも穏やかで、優しいものだったのか。
穏やかな、事件の起こらない、ゆっくりとした日々……最初の頃は精神が不安定で、突如として恐慌状態に陥る事のあったグリムナの心も、緩やかにほぐれてきていた。
ヒッテはグリムナの隣に座り、同じように景色を眺めてから、そしてゆっくりと、歌を歌い始めた。
―嗚呼 世界よ あまねく 世界よ
―土は木へ 水は大地の命へ
―そして大地の命は 世界の中で私と彷徨う
―アア ケトス バネ ケトス
―セティ ラクトス アド ラクトス
―セティ タレス ケリ タレス
―エリィ カネケトス タリ ケトス
「……その歌は……」
グリムナは思わず口を開いた。思い出せない。思い出せないが、しかし何か、何かとてつもなく大きな感情の渦が自分の中に流れ込んでいくような、そんな感覚があった。
何か、大切なものを忘れている気がする。
ここで、こんなことをしている場合ではないのではないか。心の中に、少しずつ焦燥感がつのっていく。
「あら、先に食べてたの? どうぞ、グリムナ」
理由のない焦りを覚えた時、ラーラマリアが後ろから声をかけてきて、グリムナの前にコップを置いた。
「ああ……ありがとう、ラーラマリア……体調はもういいのか?」
ラーラマリアはグリムナの問いに笑顔で以て応えた。その朗らかな笑みを見て安心したグリムナは、ゆっくりと差し出されたコップを手に取り、中の液体を飲んだ。
「…………」
一瞬の沈黙ののち……
「ぶぐほォッ!! ごほっ、ごほっ、うぇぇ、ぺっ、ぺっ!!」
咳き込んで地に伏したグリムナの様子を見て目を丸くするヒッテと、笑顔のラーラマリア。
「おまっ、これ、まさか……!?」
ごほごほと咳き込みながら、グリムナがラーラマリアを睨む。
「やった!! ついに積年の想いを果たしたわ!! もうこれで心残りはないわッ!!」
尿。
「お前そんなもんしか心残りないのかよッ!!」
グリムナは全てを思い出した。砂漠の中、極限状態で飲んだ尿の味。
「ああああ!! 油断してた!! そういう奴だったよお前は!! 思い出したよッ!!」
「ラーラマリアさん、もしかして、昨日何も食べてなかったのって……」
ヒッテが恐怖に顔を引きつらせて問いかける。
「そうよっ! 尿の匂いと色を消すために昨日一日栄養分を取らないようにしてたのよ!!」
この女はいつも努力の方向性が何かおかしい。
「私が大切にお腹の中で育てた液体を愛する人が飲んでるんだな……って、思うと……」
ラーラマリアは歪んだ笑みを浮かべる。
「マジウケるわwwwwww」
「なんなの? 陽キャヤンデレなの?」
ヒッテは完全に引いてしまっている。臭気は少ないと言っても、辺りにはやはり独特なアンモニア臭が立ち込めているのだ。
「ラーラマリアさん……今食事中だったんですけど……」
「えっ? そうよ? 飲食の話よね?」
グリムナはゆっくりと、袖で口元を拭きながら立ち上がった。
「そうだ……全部、思い出したんだ……」
先ほどまでの慌てた表情ではない。
なにか、決意をにじませる、強い力を持った瞳である。
「戦いはまだ終わってはいない……俺は……行かなきゃいけないんだ……」
そのグリムナに、ラーラマリアも表情を落ち着けて、首を傾げながら訊ねる。
「なんで……? グリムナが戦わなきゃいけないの? ここでゆっくり、三人で穏やかに暮らせるのに?」
澄んだ瞳。その瞳に映るものは、世界。どこまでも広がる。みんなのいる世界。名も知らぬ人々が、必死で生きていく、世界。
「……自分自身のためだ」
あたりの景色が一変した。晴天には霹靂が走り、野山は光の粒子となって消し飛んでいく。世界が、この世界が崩れてゆくが、しかしグリムナはそれに恐れおののくことなどない。まるでそれが当然かというように。
「やっぱり……グリムナは、そうでなくっちゃ」
いつの間にか、大地は三人のいる場所を残してすでに消え去り、辺りは闇が支配していた。星の輝く夜の闇ではない。ただ何もない空間がどこまでも広がっている。
ラーラマリアはどこに隠していたのか、鞘に収まっている聖剣エメラルドソードを取り出し、そしてグリムナの方に差し出した。グリムナは少し悲しそうな表情をして、それを受け取った。
「ラーラマリア……俺は、謝らなきゃいけない。……俺に、逃げる勇気があれば、きっとお前は、死なずに……こんな風に、皆で……」
彼の口をラーラマリアの人差し指が優しくおさえた。
「グリムナ、わたし、何度だって言うわ」
その笑顔の目の端から、涙の筋が伝う。
「世界中の誰よりも、幸せな人生だった」
その言葉を聞いて、グリムナはようやく優しい笑みを浮かべることができた。
「グリムナ……」
二人の後ろから、ヒッテが声をかける。
「私は、グリムナを迎えに来たんです。あなたが、迷わないように」
「ヒッテ……」
「バッソーさんとニブルタさんが、私の記憶を取り戻してくれました。フィーさんとネクロゴブリコンさんが、私の意識をここに送ってくれました」
彼女はゆっくりと左手を差し出す。その薬指には指輪が光っている。
「迎えに来てくれてたんだな……ヒッテ、ありがとう」
そう言ってから、グリムナはラーラマリアの方に振り返った。
「ラーラマリアも……言いたくないけど、尿を飲ませてくれてありがとう」
ラーラマリアは、嗚咽をあげながら泣きじゃくっている。これで、本当に最後の、お別れなのだ。
「行こう、ヒッテ」
差し出された左手を、グリムナの手が握る。
カチリと、指輪の当たる音がした。
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