第438話 最後に一人立つ男

ゆっくりとグリムナはその両足を踏みしめ、立ち上がった。


右手には聖剣エメラルドソード。左手の薬指には指輪。


 彼はゆったりとした手つきで、左手で自分の頬に触れた。確かにバラバラになってしまっていた彼の体は、全て元通りに戻っていた。


『なぜだ……』


 彼の後ろから少女の声がする。


『なぜ戻って来た……何が不満なのじゃ……』


 ベルアメールの表情は、恐怖と怒りと、哀しみのない交ぜになった複雑な表情をしている。


『何故戦いに戻って来た! あれは、お主が望んでいたものではないのか!? 愛する人と、幼馴染みと、争いのない穏やかな生活! お主が戦わなければならない理由など何もないはずじゃ!!』


 グリムナは静かに振り返り、彼女に正対した。


「俺が……生きているからだ。生きるということは、戦うということだからだ」


『争いは……悪じゃ』


 それでも、生きてゆく。


 大きな矛盾を抱え、傷つきながら、戦いながら、愛し合いながら。


 戦いから逃げ続けてはいけない。それは野風の笛。戦うばかりでは敵だらけになる。たとえ騎士のように誇り高くとも。正義を振りかざすばかりでは生きづらい。あの聖騎士のように。逃げるばかりでも、愛を与えるばかりでも、いつか絡めとられて動けなくなってしまう。


「手に抱えられる物だけでいいんだ。そんなに多くの者を抱えて人は生きていく必要なんてない。ただほんの少しだけ……」


 グリムナは剣を逆手に持って、刃を大地に、竜の背に向ける。


『無駄じゃ。お主がここで竜を殺したとて世界は、人は変わらん。醜く争い合い、憎み合い続けるのじゃぞ……』


「ありがとう、ベルアメール」


 グリムナの言葉に、ベルアメールはハッと我に返り、そして涙を流した。


「ずっと一人で、人と向かい合ってきたんだな……みんなで考えなきゃいけないことを、たった一人で、思い悩んで……」


 グリムナの目には憎しみも、怒りもない。人々を殺した竜と、それに取り込まれたベルアメールに対して、まさしく感謝の眼差しを向けていた。


「ありがとう……あとは、俺達が、引き継ぐよ……みんなが」


 エメラルドソードの柄に込められている聖石は、次第に光を増してゆく。


「ただほんの少しだけ、ひとのことを、思いやってあげて欲しい……」


 まばゆい光を放ちながら、グリムナは厳かにその剣身を竜の背に突き立てた。


 メザンザの作った場、その波紋の中心に、聖剣を突き立てた。


 聖剣を中心に、蜘蛛の巣のように竜の体がひび割れてゆく。


 その亀裂は破片をまき散らしながら竜の背を、四方八方に奔ってゆく。竜はこれまでになかった大きな雄たけびを上げた。その声は、北の森にすむエルフ達にも、南の荒野のオクタストリウムのマフィア達にも、果ては東のローゼンロットの司祭達にも、等しく聞こえたという。


 雄たけびの轟音の中、竜の体の中から光が漏れだす。


 もはや全身に刻み入れられた亀裂全てから、薄萌黄色の光が爆発するように漏れ出て、朝日の光よりも強く、野山を照らす。


 とうとうそのひびに耐えられず、竜の体はどしゃどしゃと崩れ始めた。巨大なクレーターと化したベルシスアーレの町。海水の流れ込んで入り江となっていたその海に、六百億トンの竜の体が埋め立てられてゆく。


 大地の裂け目から流れ出てきた火砕流も、竜の欠片にせき止められてゆく。


 崩れ行き、崩落していく大地の頂上で、グリムナは静かに目を閉じた。


 ―― ラーラマリア……ヒッテ……俺は、やったよ ――


 金色に光る朝日の光、山肌から流れる溶岩の赤、竜の体から漏れ出る緑光。


 その全てが、まじりあい、一つとなってゆく。その美しい光景に、グリムナは涙した。


 ―― 俺は、この世界を愛している ――


 たった一夜にして、この地にあった町は消え、海となり、そして後には竜の体だった土くれに覆われ、広大な台地となった。


 のちにここは、ベルアメールの丘と呼ばれるようになった。


 大地はその姿を変え、誉れ高き町は消え、それでも風は吹き、日は昇り、人々は生きてゆく。




 やがて長き冬が来る。その冬の中で、人々は寄り添い、そして必死に生きてゆく。


 グリムナの想いは、人々には正確には伝わらないだろう。


 人々はただその勇気の欠片だけを見て、その強い生きざまだけを思い出すだろう。


 人々はこの世界に何を望むのか。何を拠り所にして生きてゆくのか。


 ゆっくりと、そして少しずつ変わってゆけるだろうか。


 人がもっと強くなれるのならば……

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