第291話 誰がこんなひどい事を

「あれからどれくらい経ったんだろう」

 

 目を覚ましたグリムナはふと、思ったことを口に出していたことに気付いてフフッと笑ってしまった。ずっと一人でいるせいか、なんてことないような言葉もつい独り言として口に出してしまう。

 

 いったい何度寝て、起きてを繰り返しただろうか。最初の数十日は数えていたものの、1か月を越えたあたりからはよく分からなくなってしまった。

 

「印でもつけておけばよかったな……いや、無理か」

 

 また独り言を言いながらグリムナは爪を床にこすりつける。床には汚れも傷もつかない。つまりは一日ずつ印をつけて日にちを知ろうとしてもその方法がないのだ。

 

 ふと、爪が伸びていないことに気付いた。それだけではない、髪もだ。

 

 腹も減らないし喉も乾かない。これにはもうずいぶん前に気付いていたが。

 

 そう時を置かずして飢え死にするだろうと思っていたグリムナであったが、いつまでたっても腹が減らない。排泄したいとも思わないし、当然性欲もない。

 

 唯一の外の情報が入ってくるのは空の色だけである。

 

「気が狂いそうだ」

 

 自分の気が狂っていないことを祈りながらそう言う。


「でもまあ、気がくるってるやつは自分の事『気が狂ってる』なんて言わないからな。だから俺は正常だ」


 よく分からない理論で自分を安心させるグリムナであるが、可哀そうなことにここにツッコミを入れてくれる人はいない。


 実際彼の精神はもはや限界であったし、限界のあちら側なのか、それともこちら側なのか、それすら分からない。

 

 刺激がないということが、退屈だということがこれほどまでに辛いものだとは、思いもよらなかった。

 

 暖かくもなければ寒くもない。季節が移り替わってもそれは変わらない。風も吹かなければ雨も入ってこない。過ごしやすくはあるものの、刺激が無ければ変化もない。空以外の景色はひたすら白い壁が見えるだけ。

 

 それだけではない。刺激は外からだけでなく中からもないのだ。

 

 腹が減らない。喉が乾かない。髪も伸びなければ当然髭も伸びない。己の内からも外からも何の変化も刺激もない。まるで自分の時が止まってしまったようだ。

 

 刺激がないとだんだんと記憶も意識もあいまいになってくる。頭がボーっとして起きているのかも寝ているのかもわからない。眠くはないが一応空が暗くなれば寝るようにしている。なるべく日常と同じように行動しなければ外にもし帰れた時に困ると思ったからだ。


 毎日同じ日が続いてくるとだんだん時間の感覚もなくなってくる。今とは、今であろうか。もしかすると今とは、過去ではないだろうか。未来とは明日来るのだろうか。それとも昨日過ごした時間とは、もしかすると未来だったのではないだろうか。


 別にふざけて言っているのではない。それほどまでに代わり映えのない毎日なのだ。ほんの数分前に過ごした時間が、それが今さっきの事なのかそれとも昨日なのか、1か月前なのか、それすら分からない。


 ひょっとすると自分はすでに死んでいて、記憶の残滓が残りかすのようにどこかにこびりついている状態、それが今の自分なのではないかと思ったりなどもした。


 そんな問いかけに自分で答えながら毎日を過ごす。


 その問いかけと答えもすべて自分で口に出して言っている。最初のうちは無言で過ごしていたのだが、ある日声を出そうとしたら喉がかすれて声が出なかったことがあり、それがひどく恐ろしかったのだ。


 このまま喋ることをやめていたら、いつか本当に言葉というものを忘れて、喋れなくなってしまう時が来るのではないか、と思えたからだった。


「喋れないってのがこんなに怖い事だったとはな」


 頭の中に浮かんだ言葉はとりあえず口に出すようにしている。


 寂しい一人暮らし、という言葉が異様にしっくりくるように感じられた。とにかく孤独だった。その孤独を紛らわすための『刺激』は、この部屋には一つしかなかった。


「おはよう、ラーラマリア」


 グリムナは隣に横たわっていた幼馴染の死体に声をかけた。


「ほら、今日もいい天気だよ。見えるかな? よっと」


 そう言ってグリムナはラーラマリアの上半身を抱き起し、瞼を開かせた。ラーラマリアの瞳は焦点を掴んでおらず、力なく、空中に浮かぶシャボン玉のようだ。


「子供の頃はよく一緒にこうやって空を眺めてたりしてたよね。一緒に旅に出てからは忙しくなってそんなこともなくなってたけどさあ……あ、でも夜は暇だったからレニオたちと一緒に星空を見たりしてたよね」


 グリムナはラーラマリアの肩を抱いたまま空を見上げる。当然死んでいるラーラマリアは首が座っておらず、うまく上を向けないのでグリムナが手のひらで彼女の後頭部を支えた。


「今頃レニオたちはどうしてるかなあ? いや、もちろんシルミラだって気になるよ? え? だから俺はホモじゃないって」


 グリムナはどうやら空想の中でラーラマリアと会話を楽しんでいるようである。孤独を紛らわすためにはこれも仕方あるまい。孤独というのはそれほどまでに人の心を蝕むのだ。


「アア ケトス バネ ケトス セティ ラクトス アド ラクトス……」


 今度はグリムナは唐突に歌を歌い始めた。この『部屋』に落ちる前に最後に聞いた歌を。


「なんだか最近記憶がえらく曖昧だなあ。この歌はどこで聞いたんだっけ……? 誰かが俺のために歌ってくれたような気がするんだが。……とても、とても大切な人が」


 しばらくそうやって空を眺めていたグリムナであったが、やがてゆっくりとラーラマリアを寝かせると、瞼を閉じさせた。


「そう、眠いんだね、ラーラマリア。最近の君は寝てばっかりだね」


 そう言ってから死体のお腹を優しく撫でる。彼女の腹の傷はすでにグリムナの回復魔法によって閉じられているものの、服には血痕がついたままだ。

 その血痕を見ながらグリムナは呟いた。


「……誰がこんなひどい事を」

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