第277話 解放奴隷

「そこにサインだ。字は書けるのか?」


 ヒッテの事が奴隷だと分かると、役場の男は終始高圧的な態度であった。しかしヒッテは特段それが不愉快だとは感じなかった。実際自分が奴隷なのは事実だし、市民と奴隷で態度を変えるのは自然なことだと思えたからだ。


 ヒッテは書類にサインしてからそれを職員に渡し、さらにドンッと金子きんすをその上に乗せた。


「これは、奴隷解放税です。確認を」


 職員はフン、と鼻を鳴らして中のコインを数え始める。やがて全て数え終わったようで、金子をまとめてドン、と机の上に置くとその中から銀貨を一枚だけ取り出してヒッテの方に投げた。


「これは余分だ。この町は汚職に厳しいからな。勘違いされるようなチップは却って迷惑なんだよ」


 そういうとフゥ、とため息をついて職員の男はだるそうに書類にトン、と判を押して片眉を少し上げてヒッテに話しかける。


「おめでとう。これで明日から君は自由市民だ」


 その言葉を聞いてもヒッテは特に感慨深げにするでもなく、喜ぶでもなく、ただ、聞いているだけだった。


(変な女だ)


 職員の率直な感想としてはそれが全てだった。この、アンキリキリウムの町で市民関係の手続きを取り仕切っていると、特に奴隷関係は色々なドラマがあるものだが、この少女からはそういったものが何も感じられなかったからだ。


 この少女の主人、グリムナと登録されているが、その男は一度も奴隷の人頭税を払っていないのですでに主人としての権利を失っている。今日の奴隷解放の手続きにも表れなかったし、今日の様子を見ると解放税もどうやら自分で稼いだ金のようだ。


 おまけに何か知的職業についていたわけでもないのになぜか読み書きができる。


 何かおかしいが、しかし書類上は何も不備がないので彼がその違和感を口にすることは結局なかった。


 ヒッテは少し離れた場所にある、掲示板に貼ってある自由市民に関する注意事項をボーっと眺めながら考え事をしていた。


(私はなぜ、いつから読み書きができるんだろう……)


 どうしても思い出せない。なぜ、それができるのか。いったい誰から教わったのか。


 彼女はこの町の奴隷商で売られていたが、その時は読み書きはできなかったはずである。ではその後覚えた、という事になるのだが、自分が奴隷商から売られて、その後の1年ほどの記憶が全くないのだ。


 断片的には思い出せる。どこかを旅していて、いろいろなものを見た気がする。しかし『誰と一緒に旅をしていたのか』これがどうしても思い出せない。


 やがてヒッテはとぼとぼと役場から出て行った。


 なんとなく首にかかってるペンダントをいじる。奴隷だというのになぜ自分は『隷属の首輪』をつけていないのだろう。代わりにつけている赤いペンダントは誰かから贈られたものなのだろうか。分からないことだらけだ

 ※借りパクしたものです


 役場の外に出ると一人の中年男性が待っていた。


 フード付きのコートを着込んだ見るからに怪しい男。しかしヒッテはこの男には見覚えがある。


「ウルク……何か用ですか」


 男はしばらく黙ってヒッテを値踏みするように見た後、静かに答えた。


「記憶はまだ戻らんのか……ヒッテ」


 ヒッテはその言葉に応えることなく彼の横を通り過ぎようとする。


「返事くらいしろ。記憶は戻ったかと聞いてるんだ」


 ウルクはヒッテの肩を掴んで引っ張る。ヒッテは立ち止まって彼の顔を見るものの、しかしやはり怯えるでもなく憮然とした表情をするでもなく、ひたすらに無表情で、感情というものが見えなかった。


(いったい何があったんだ……あの日、ローゼンロットの町の中で目を覚ましたこいつは、まるで抜け殻のようだった。それから随分と回復したようではあるが……感情の起伏というものがほとんど感じられない。不愛想なガキだが前はここまで酷くはなかったはずだ)


 竜の出現騒ぎの後、ウルクとレイティはすぐに町に戻ってヒッテを探した。レイティが言った通りグリムナとラーラマリアの姿も、聖剣エメラルドソードもどこにもなく、ただ燃え上がる街の片隅で、ヒッテだけが倒れていた。


(なぜ記憶がないのか。あの日、町で何があったのか?)


 結局ウルク達がその日何があったのかという事実にたどり着くことはなかったが、ヒッテはコルヴス・コラックスの『歌の秘術』を使ったことによりグリムナの記憶を失っていた。


 だが、それまで奴隷という非常に狭い世界で生きてきたヒッテにとってグリムナとの旅こそが人生の大部分を占めていたし、その旅の中心がグリムナであった。


 その記憶を失ったことで人格にゲシュタルト崩壊が起きて全体性が失われ、同時に個々の記憶同士も『つながり』であったグリムナの記憶が無くなったことで引き出しにくくなっているのである。


「チッ、もういい。行け」


 ウルクがそう言うとヒッテはやはり眉一つ動かさずにとぼとぼと歩いていって、町のいずこかに消えた。


(とんだ見込み違いだった。あいつはもう使い物にならんな)


 まさしく『当てが外れた』というやつである。


 グリムナが死んだのなら、絶望したヒッテを触媒にまた竜を復活させられるかもしれない、と踏んでいたのだが、結局グリムナもラーラマリアも見つからず、それどころかヒッテがグリムナの記憶をなくすという異常事態。


「『触媒』の選定はレイティに任せて、俺は竜の事を調べるか……」


 そう呟いてウルクも町の中を歩きだした。


 彼には使命がある。今度こそ確実に竜を復活させなければならない。それにはまず何故前回急に竜が消えてしまったのか、竜とは何なのか、基本的なところであるが、そこをしっかりと調べる必要がある。

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