第310話 今はこの手を
「それではお気をつけて、グリムナさん……」
ベアリスは神妙な面持ちでグリムナ達を見送る。ラーラマリアは最後の最後までそわそわとした表情を見せていた。
ちらり、とベアリスはラーラマリアの方を見てから、二人に話しかける。
「グリムナさんの記憶が、いつまでも戻らないとは思えません。全てを思い出した時、つらい選択を強いられるかもしれません。その時は、よく考えて、後悔の無いようにしてくださいね……それと」
ベアリスはグリムナの両手をぎゅっと握った。
「私の事……いつかきっと、思い出してください……」
少し悲しそうな顔をして、ベアリスはグリムナ達から離れ、そしてしばらく歩いてから振り向き、ほんの少し悲し気な、笑顔を見せた。
「行こうか……」
しばらくグリムナはその笑顔から目が離せなかったが、そうラーラマリアに声をかけて、ターヤ王国亡命政府の洞窟に背を向け歩きだした。
今はまだ知らねども、いずれ分かる時も来よう。
ならば今は振り向く時ではないのだ。
抱えきれるものには限りあり、今は進むのみ。
数歩歩くと、ラーラマリアが立ち止まり、「グリムナはここで待ってて」といい、まだ洞窟の入り口辺りで見送っていたベアリスのもとに駆け寄っていった。
「どうしたんです、ラーラマリアさん……何か忘れものでも」
「ごめんなさい、私、どうしてもベアリス様に教えてもらわないといけないことがあって」
何か切迫しているような、追い詰められた表情をラーラマリアは見せていた。
「砂漠でのこと、私はどうしても知らなくてはいけないの……ベアリス様に、それを教えてもらわなければならないと思って……」
グリムナは女同士で話でもあるのか、と思い、近づかずに遠巻きにそれを見ている。
「どうしたんですか? もしや、ヒッテさんの事を……」
「私も、グリムナに私のおしっこ飲ませたいの」
「……ん? ……おしっ……ん?」
どうやら洞窟の初日の夜に聞いて以来ずっと気になっていたらしい。
「ねえ、教えて! ベアリス様はどうやってグリムナにおしっこ飲ませたの? どんな技を使ったの? 魔法? そういう魔法があるの?」
あってたまるか。ベアリスは思わず眉間にしわを寄せ、俯いて鼻梁を指でつまんだ。
「……ええっとですねぇ、まず、重大な誤解があるんですが……私のおしっこをグリムナさんにのませたのではなくですね……各自、自分のおしっこを飲んだんですけど」
「え? 何やってるんですかベアリス様!?」
隣に控えていたビュートリットが恐怖に歪んだ表情でそう言った。
この山の中、食料に困って虫を食うことはあっても、一度湧き水を見つければそうそう飲み水に困ることはないだろう。つまり、砂漠と違って水分確保のために自分の尿を飲む、などという事もなかったはず。ビュートリットは彼女の蛮行を初めて知ったのだ。
「ベアリス様、誤魔化さないでください。私は真剣なんです!」
ラーラマリアがそう懇願するものの、真剣にそんなことを聞かれても困るし、そんな方法は知らない。彼女は困惑しながらも、しかしアドバイスを送ることにした。もはやこうなったラーラマリアは後に引くという事はないだろうという判断からだ。
「その、あくまで私のおしっこを飲ませたわけではないですが、水分補給、とだけ答えておきます……あとは自分で工夫してください……」
ラーラマリアはこくり、と頷くとベアリスから離れ、数歩歩いてから、またベアリスの方に振り向き、ビッとサムズアップした。
「ありがとう、ベアリス様……私、やるわ!」
何をだ。
「話は終わったの? ラーラマリア」
「ええ、大丈夫。終わったわ」
お前におしっこを飲ませる話がな。
二人は山の中を足早に歩き続ける。峠を越えればそこはすでにピアレスト王国からフェラーラ同盟に入る。グリムナ達の故郷トゥーレトンはもうそう遠くはない。
目的地ははっきりしており、二人はともに健脚であるものの、しかし決して足取りは軽くはない。
それぞれ心にしこりを抱えているからだ。
グリムナはやはりヒッテの事。
アンキリキリウムに訪れて、ヒッテという少女と出会ってからラーラマリアの態度が露骨におかしくなっていた。ベアリスが何を知っているのかも気になる。それが一体何なのか。あの少女に初めて出会った時のあの、心臓を締め付けられるような感覚。あの正体は何なのか。
そしてできれば、もう一度あの胸の苦しみを味わいたい。
あの子は、やはり自分にとって大切な人なのではないか。ラーラマリアとは婚約者、などというのは嘘ではないのか。その疑念を強くし始めていた。
そんな考え事をしながら山道を行くグリムナ。その横顔をちらちらと見ながらラーラマリアは何を考えているのか。
(はぁっ……やっぱり、物憂げな横顔も素敵ね、グリムナ……)
……別にこんなことばかり考えているわけではない。
彼女も実は悩んでいるのだ。グリムナの横顔に見とれていたりだとか、どうやったらおしっこを飲ませられるかだとか、そんな事ばかり考えているわけでは決してない。
彼女は、確実に、今の幸福が終わりに近づいて行っていることを意識していた。過去を知る人に会えば会うほど、過去に訪れた場所に行けば行くほど、グリムナは記憶を少しずつ取り戻していく。そして、何もしなくとも、グリムナは記憶を取り戻していくかもしれない。
それを、ラーラマリアには止めることなどできないのだ。
なぜなら、彼女はグリムナの外見が気に入って好きになったわけではない。強さに惹かれたわけでもなければ、当然財力に惹かれたわけでもない。
その美しい心根に惹かれたのだ。
そして彼の人格を形成しているもの、それは記憶だ。
だから、彼の記憶を取り戻すことを否定するのは、彼を否定することに等しい。愛する者の愛した物を否定するなどという本末転倒なことは、いくらラーラマリアにでもできないのだ。
ラーラマリアには『恐ろしいもの』がなかった。自分を叱る親を怖いと思ったことはないし、メザンザも大したことなかった。竜が現れても、彼女の第一優先事項にはならなかった。
ただ一つ、グリムナを失うことだけは、彼に忘れ去られることだけは、それだけは恐ろしかった。それを回避するためならば、自分の命を捧げてもいいとさえ思った。
破滅の足音が聞こえる。
それでも……
「な、なに? ラーラマリア……」
ラーラマリアは、グリムナの隣に並んで、手をぎゅっと握った。
それでもいい。いつか来る破滅のその時まで、今はただ、手を握っていよう。
この幸せが一日でも多く続くことを祈りながら、今はただそれを感じていよう。
そしてその時が来たならば、私は感謝の言葉を述べて、彼の元を去ろう。
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