第211話 Far beyond the sun

 突き詰めて言うとベアリスの言葉は『人間に価値などない。もっと自由にやれや』という事であった。ここまで要約してしまうと身も蓋もないが。しかし、生きる事に価値を見出せず、奴隷として生まれ、奴隷として生き、そして世界を呪って生きていたヒッテにとってはこれは金言とも言える開き直りであった。


「ヒッテさんはグリムナさんのことが好きなんでしょう? なら、自分の思うように行動すべきですし、それを邪魔する道理なんてありません。人はもっと自由なんですよ」


「…………」


「人は……あれこれと理由を探しますが、そんなものは必要ありません。『言い訳』がなければできないようなことは無理にやる必要はないんです。思うように行動して、思うように生きてください」


 含蓄がそれほどあるわけでもない。人のことわりとしてそれほど道理が通っているわけでもない。ともすればアナーキスト的な行動に結びつきかねない危険な言葉でもある。しかしベアリスの言葉だからこそ、その言葉は『力』を持って見えた。


 それはまさしく、人の理により国元を追われ、自然の理の中で見事生き延び、そして今また王国へ凱旋し、王の座に就こうというベアリスの口から放たれたからこそ初めて意味を持つ言葉であった。しかし生き悩むヒッテにとってはこの言葉こそが真実に感じられた。


 よほど彼女の言葉が染み入ったのか、ヒッテが座った姿勢のまま一筋の涙をこぼすと、ベアリスも再び地べたに腰を下ろして、ヒッテの様子を窺うように顔を覗き込んだ。


「ヒッテは……ずっと、自分自身のことが嫌いでした……」


 やがてゆっくりとヒッテが口を開いて話し始めた。


「ヒッテは、5歳の時に母を亡くしていますが、その時、自分が母を見殺しにしたと、思い込んで、ずっとそれを引きずっていて……」


 ヒッテはそのままちらりと少し離れた場所で寝ているグリムナの方を見ながら言葉を続ける。


「グリムナは、『自分を責めるな』と、少なくとも自分はヒッテを許すと、そう言ってくれました……」


「フフ……グリムナさんもキメる時はキメるんですね……」


「グリムナは、奴隷だったヒッテの身柄を買い取って、悲惨な境遇から救い出してくれましたが……

 あの言葉を聞いた時、『今』だけでなく、『過去』のヒッテも救われたんだ、って……そう思いました」


 ヒッテはそう言って、地獄の如き太陽が鎮座する、雲一つないひたすらに真っ青な空を見上げて、寝転びながらさらに言葉を続けた。


「もう迷いはないです。ヒッテはグリムナと一緒にこの世界を生き延びるって」



 それから何日か


 幾度の昼を超え


 燃え滾る砂の海に潜み


 凍える夜の闇を進む


 あの太陽をはるかに越えて



「まずいな……もう残りこれだけか……」


 そろそろ夜も明けるというころ、今日の寝床にと当て込んだ岩場の陰でグリムナが自身の水筒をぷらぷらと振りながらそう呟いた。

 水筒はヤギの革を縫い合わせて作られており、内側に松脂からなる天然樹脂を塗ってあり、防水加工が施されている。彼らが持っているのはそれほど大きくない5リットル弱程の大きさのものであるが、それを振ってもチャプチャプと小さい水音しか聞こえない。本当は10リットルから20リットルほども入る大型のものもあったのだが、そちらは重すぎて人の力では運ぶのが困難であったために、竜の体に引っ掛けられていた。

 つまり、それはリズの逃亡により失われてしまったのだ。個人で持っていた小さめの水筒の中には各人もうそれほどの水は残っていない。北極星による位置の特定によれば、後1日か2日の旅程で北部のスカラウ山脈のふもとに到着するはずである。


 山のふもとまで到着できれば、砂漠地帯を抜けてしまえば、水を集めることなどベアリスのサバイバルスキルを活用すればそう難しい事ではない。しかしそれまでもつのかどうか。日の照っている日中は動かないとはいえ、じっとしているだけで汗がにじみ出て、大量の水分を消耗する。加えてここ最近小さい虫くらいしか食べていない。他の栄養素も足りていない状況なのだ。


 死の足音が、着実にグリムナを追い詰めているように感じられた。


「やった! 罠にかかりましたよ!!」


 そんなおり、ベアリスの甲高い声が聞こえてきた。グリムナが振り返ると、岩陰の隙間からベアリスがもぞもぞと姿を現した。見ると、彼女の小さい片手よりは余る程度のモルモットのようなネズミを抱えている。どうやら彼女の設置したスネアトラップにかかった獲物がいるようだ。


「これはスナネズミとかサバクネズミとか呼ばれるこの辺りに生息している中型のネズミですね!」


 少し興奮気味にベアリスは左手でがっちりネズミを固定し、右手でネズミの頭をなでているように見える。ネズミはキィキィと鳴きながらつぶらな瞳を見開いてきょろきょろとせわしなく辺りを見回している。おそらく人間という生き物を始めてみたのだろう。初めて見る生き物に、強い好奇心を抱いているのかもしれない。ヒッテが近づいて声をかけた。


「わぁ、かわいいですね。もしかして、食べ……」


 ゴキッ


 頭をなでていたように見えたベアリスの右手が、ネズミの首をへし折った音だった。


 分かってはいた。全員分かってはいたのだ。この野生の人間が動物をただ愛玩するためだけに捕まえたりしないという事はよく分かっていたのだ。しかし、もう少し、こう……予備動作とか、そういうものがあってもバチは当たりはしないだろう。そう考える間も与えずに、ベアリスは手早く自分のポケットから親指程度の小さいナイフを取り出す。


 ナイフはロープに並んで重要なサバイバルツールである。これは彼女の数少ない私物の一つだ。ベアリスは使い慣れたナイフでネズミの首を切り裂きながら「じゃあ、皆さん手を出してください」と指示を出した。もはや彼女の言葉に逆らう者も、疑問を呈する者もいない。


 全員に掬う様に両手を出させたが、彼女はまずネズミの死骸を自身の顔の上に掲げて上を向き、滴る生き血を直接口で受け止めて飲み始めた。


「クククク……血はビタミン、ミネラル、たんぱく質、そして塩分が含まれている完全食だァ……」


「なんなんですか、その喋り方……」


 グリムナが若干呆れたような口調でそう言うが、しかしベアリスは特に気にすることなく両手を出している各人の手のひらの上にネズミの血を絞っていく。


「いや実際水も足りてないけど、ミネラルも足りてないんですよ。とにかく皆さんも飲んでくださいね」


 ベアリスがそう言い切るとバッソーとヒッテが手のひらの上に出された血を飲み始める。いや、飲むというよりはなめるという方が近いであろうか。小さいネズミである。全員の栄養補給には心もとない量ではあるが、しかしそれでも二人は久しぶりの塩分に必死で手のひらを舐めていた。最後に血を受け取ったグリムナへは、血を少しでも多く出そうとしてベアリスがネズミの体を絞る様に強くひねったため、首の方から何やら内臓のちぎれたようなものが飛び出てしまった。


 グリムナは少し眉をひそめたが、その肉か、内臓かの切れ端を取り除いてからペロペロと血を舐めた。手はべとべとになってしまったが、しかしおそらく数分も立てばカサカサに乾いてしまうだろう。


 グリムナはどこまでも深く、青い空を見つめ、こんな生活がいつまで続くのか、不安げな表情を見せていた。

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