第428話 最後に望むもの

「遠くに見える……あのあたりがもしかしてトゥーレトンの村かな」


 不思議な体験であった。おそらく竜の跳躍は頂点に来たのだろう。今まで味わったことのない浮遊感。いや『感』ではない、実際に浮遊しているのだ。地図で見ていた大地が見える。海の向こうには地図にはない島もある。


 世界はこんなにも広かったのか。こんなにも広い世界の、ほんの小さな片隅で、自分は悩み苦しんでいたのか。


 自分の手の内にあるものだけが世界だと信じ込んで。


 下を見れば、人など豆粒以下だ。越えるのに苦労した山も、ほんの小さなうねのようだ。


 ああ、この高さから落ちたなら、とてもではないが助からないな。


「私……これから死ぬのかな……」


 改めてそう口に出すと、途端に悲しくなって、涙が溢れてきた。しかしにじんだ涙もすぐに蒸発して消える。涙すら流せないと気づくと、まるで自分が人でなくなってしまったような、この世界にたった一人になってしまったような、そんな寂しさに襲われた。


 死ぬのは怖くない。


 肉体が滅びたってかまわない。


 自分の本当に大切なものは、もっとその奥底にあるのだから。


 でも、この気持ちまで消えてしまうことは、それだけは耐えられない。


 苦しんで、哀しくて、暖かい。自分の『大好き』が詰まった、世界の何よりも大切な物。一度死んだから分かる。これを失うことが、どれだけ恐ろしいかが。


 だからこそ、彼女は身を引いたのだ。


「ヒッテちゃんは、すごいよ……」


 を失う事を厭わず、グリムナを助けるために記憶の全てを投げ出そうとした。


「わたしには、とてもできないわ……」


 自分は、グリムナの心の中に永遠に刻まれるからと思ったからこそ、あんな行動がとれた。自分の大切な気持ちを全て失って、何も知らずに生きていくなど、恐ろしくてとてもできない。


 景色の動きが切り替わる。ゆっくりと、竜の体が下降し始める。


 竜の背中にいるため風は感じないが、体が宙を彷徨い、遠くからはごうごうと風を切る音が聞こえる。


「わたしはここにいるよ」


 誰に語り掛けたのか。ラーラマリア自身もそれは分からない。分からないが、言葉を発せずにはいられなかった。


「だれか、わたしをみつけて」


 誰もいない。誰も聞いていない。誰も見ていない。


 たった一人で挑んだ戦いであったが、これは必ず、この気持ちは必ず誰かに届く。そしてきっと、彼女の愛しい人にも。


 ラーラマリアは聖剣を竜の背中に強く押し込む。


 できれば自分が竜を倒したかった。グリムナとヒッテのために、平和な世界を残したかった。しかしそれももう叶わぬ夢。ならばせめて、この聖剣を彼に残したい。彼なら、必ずこれを見つけ出してくれるはず。


 メザンザが残した拳の跡。自在に体を回復させられる竜ですら干渉できないこの巨大な体の唯一の領域。そこへ、人類のたった一つの希望を残す。のちに来る筈の勇者に思いを託して。


 大地が近づいてくる。


 真下の景色は分からないが、遠くに見えていた海と大地は着実に竜の体に近づいてきている。ラーラマリアは自分の中に残ったありったけの魔力を集中させ、体の下に幾重にも空気の層を作って障壁を展開する。


 衝撃。


 ズゥン、と轟音が鳴る。その衝撃波が竜の体を伝わってくる。大地に触れても竜の体の降下はまだ収まらない。竜の体が崩壊しているのか、地盤沈下が起こっているのか。


 実際竜の体は衝撃に耐えきれず幾重にも崩壊を繰り返していき、同時に群体の分離と再結合を行って復元されてゆく。しかし当然それだけでは衝撃は殺しきれずにラーラマリアの体を襲う。


 魔力の障壁はガラス細工のように砕け散り、ラーラマリアの体は竜の背に叩きつけられた。


 大地に亀裂が走る。ベルシスアーレの町があった場所は大きく地盤沈下し、すぐ近くにあるドレアーナ湾の海水が流れ込んでくる。一帯は巨大なクレーターと化した。


 亀裂はどこまでも走り、大地のひずみは断層を浮き上がらせる。近くにあった山、休火山の山肌が裂け、マグマが噴き出す。それは大きな奔流となり土砂と岩石を成層圏まで突き上げた。溢れたマグマは火砕流となって大地を飲み込む。周辺の野山や島に逃れた避難民も無事では済まないだろう。


 同時に竜の激しい動きに雨雲が吸い寄せられて積乱雲を形成し始め、たちまち雷雨が降り始めた。


 紫電は蜘蛛の巣の如くはしり、大地は朱に染まる。木々は燃え盛り、海は荒れ狂う。マグマは海水と衝突してもうもうと煙をあげる。たった数時間にしてこの地方の地形は様変わりするのだ。それはまさしくこの世の終わりともいえる風景であった。




「う……」


 いったいどれほどの時間が経ったのか。


 奇跡的にラーラマリアは意識を取り戻した。


(声が……出ない……)


 声だけではない。自分の体が呼吸もしていないことに彼女は気付く。心臓は動いているのだろうか。それすらも自分では把握できない。指の一本すら動かすことができない。


 はっきりと彼女は、自分が敗北したのだということを自覚した。


(ここで……終わりか……ごめんね、グリムナ……)


 もはや、涙を流す力すら残っていない。


(最後に……グリムナの顔が見たかった……)


 それが叶えられない望みと分かっていても。


 戦いに赴くため、自分でそれを捨て去ったと分かっていても。望まずにはいられなかった。


 剣をその手に握るために、自ら彼の手を取ることをやめたのだと。


 その女は、誰よりも美しかった。


 誰よりも強かった。


 誰よりも強く、誰よりも美しく。幼いころから手に入らぬ物は何もないと人に言われていた。だが、彼女が本当に望むものだけは、最後の最後まで手に入れることができなかった。


(グリムナと旅をした、あの数ヶ月は……本当に楽しかった……幸せだった……たとえそれがみたいなものだと分かっていても……

 この想いも……もうすぐ消えてなくなってしまうのか……)


『お主は、よくやったぞ……』


 もはや動くことのできないラーラマリアの前に、ベルアメールが再び姿を現した。


『儂が間違っておった……お主は、間違いなく勇者じゃ』


 彼女をねぎらう声の前にも、ラーラマリアは何の反応も示せない。ただ、霞んでゆく視界の端で、自らの吐き出した血の流れだけを見ている。


『儂と共に、人の滅びゆく様を見てゆくとよい。お主の信じた者達が、どう足掻くか見てゆくとよい……』


その言葉と共に、ゆっくりと彼女の周りに触手が現れ、優しく彼女の体を包み込み、穏やかに地に、竜の体に沈み込んでゆく。


 人生の最後の瞬間であるというのに、母の腕に包まれるような妙な安心感があった。安らぎがあった。


 だが違う。


 彼女が最期に求めるものは。


 深く、深く沈みこんでゆく。真っ暗な視界の中、どちらが上でどちらが下なのかもわからない。まるで羊水の中のような感覚。


(違う……私は、そんなものは望んでいない……)


 ゆっくりと、ゆっくりと。


 最後の力を振り絞って。


 ラーラマリアは右手を伸ばした。


 渇望するように。助けを求めるように。


 そして、何者かが暗闇の中、彼女の手を、確かに握ったのだった。

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