第429話 神様ありがとう

 暗く深い闇の中。


 しかし妙に暖かく安心感がある、竜の体の中。母親の胎内の記憶などもちろんないが、しかしこんな場所なのだろうかという思いが頭をよぎる。


 だが、彼女が求めるものは違う。こんなものではない。たとえ不安でも、哀しみに満ち溢れる世界でも、あの人がいれば怖くない。あの人のそばにいたかった。


 薄れゆく意識の中、最期の力を振り絞って右手を伸ばす。もはやそこに自分の体がまだあるのかどうかも、右腕がまだあるのかもわからないが。


 しかしその伸ばした右手を、確かに握るものがあったのだ。


「ラーラマリア!」


 暗闇の中に、光が差した。


 ああ、懐かしい声。暖かい手。


 たとえどんなに自分が間違いを犯しても、汚れていても、その茶色い瞳はいつも自分をまっすぐ見てくれる。その黒髪はいつものように風に揺れている。


「……最後の……望みだけは、叶ったよ……」


 喉がつぶれ、気管は血で溢れ。だが、なぜかその時だけは、声が出た。少なくとも、彼女にはそう感じられた。


 愛する人の泣きそうな笑顔を前にして。


「遅くなって、ごめん、ラーラマリア。でも……ひぐっ、間に合って……すぐに助け出して……」


 涙でしゃくりあげるようにしながらグリムナが必死で話しかける。ラーラマリアは、涙をあふれさせながら、その声に、笑顔で応えた。


「わたし、最期に、これだけはあなたに伝えなくちゃって……わたしね……」


 詰まりそうになりながらも、ラーラマリアは必死で声を紡ぎだす。


「世界の誰よりも、幸せな人生だった……あなたに出会えて、本当によかった。

 グリムナ、ありがとう……」


 最期の言葉を発すると、足の先から、ラーラマリアの体がパラパラと光の粒子に変わり始めた。


 笑顔のまま、涙を流しているその安らかな表情も、粉雪の如く、少しずつ崩れてゆく。


「ラーラマリア!!」


 引き上げたグリムナの右手の中には、土くれのように変質した、彼女の手だったものだけが残されていた。


「ああああ……!! ラーラマリア……」


 豪雨の中、最後に残されたその土くれを、グリムナは両手で優しく包み込み、嗚咽を上げた。


「俺は……また、間に合わ……ッ!!」


『遅かったのう、グリムナ……』


 ベルアメールが静かに呟く。


『分からぬか……人は間違いを犯し、繰り返し続ける。このまま静かに眠らせてやるのがせめてもの情けなのじゃ』


 グリムナは涙を拭いてベルアメールを睨みつける。彼が言葉を何か発する前にベルアメールとグリムナの間に触手が生え、彼に襲い掛かった。


 それを紙一重で躱すが、次々と新しい触手が現れグリムナに襲い掛かる。それを間合いを開けてグリムナはかわし続ける。雨でぬれた竜の背の上でも、グリムナの重心はぶれることなく、超人的ともいえる反射神経で安全な位置を確保しつつ逃げまわる。


『逃げるだけか! お主に何ができる!? メザンザも、ラーラマリアも!! 竜の前では蟻に等しい。回復術しか使えぬお主に何ができる!!』


 触手を躱しながらも、周囲には不規則に雷が飛ぶ。もはや反射神経で躱しているのではない。グリムナは何かに導かれるように走る。走る。


『お主の役目は戦うことではなかった! こうなる前に民を導くことだった!! それもできずにッ!!』


 ベルアメールの表情には怒りが見て取れた。何に対する怒りなのか。グリムナなのか、民に対してなのか、この世界へか。


 しかし一瞬のスキをとらえて触手がグリムナを捉えた。何とか両腕で防御の体勢をとるが、グリムナは触手で叩かれ、大きく後ろへ吹き飛ばされる。だが触手の追撃はそこで止まり、同時に浮遊するように彼を追っていたベルアメールの姿も停止した。


 同心円状に広がる畝、その中心、突き刺さった何かに寄りかかるようにグリムナは立っていた。緑色の宝石が怪しく光る。


「俺は、この光を頼りにここまで来たんだ……」


 ゆっくりと、グリムナは竜の背に突き刺さっていた聖剣エメラルドソードを引き抜いた。


 メザンザが作った、その場所に聖剣を託したラーラマリアの意思。そこにグリムナはたどり着いたのだ。


「みんなの想いが、俺をここに呼び寄せたんだ……」


 グリムナが聖剣を構える。剣からはこれまでとは明らかに違う力が溢れていた。淡い緑の煙のような光が、刀身全体から漏れ出ている。グリムナは一転間合いを詰める。


『むぅっ!?』


 触手が束になりグリムナに襲い掛かるが、彼は一閃、一太刀で触手を薙ぎ払う。ベルアメールはつかず離れずで距離を保っている。


『そんな剣一本で竜を倒せるつもりか』


 その言葉と共に触手が無限に湧き出てグリムナに襲い掛かる。しかしグリムナは剣を振り回し難なく撃退していく。体術に関してはかなり旅を通して鍛えられているものの、しかしグリムナは剣については素人同然である。そんな彼でも、聖剣を手に持つと、体から力が溢れてくるように感じ、触手を危なげなく切り払っていった。


 先ほどの竜の跳躍からすでに4時間が過ぎている。積乱雲が空を包み、日はもう沈んでいるだろうが、どちらにしろ暗くて時間はもう分からない。しかし竜への、着地の衝撃によるダメージは甚大で、まだ体を再構築するのが終わっていないため再び跳躍するのには時を要するだろう。


『だからといって人間一人の力で……』


だからといって、剣一本でこのな竜を倒せるのだろうか。


『時間の問題じゃぞ』


 もはや草原のように触手はグリムナを取り囲んでいる。だがグリムナの目に悲壮感はない。


「一人じゃあない! 多くの人に導かれて、ここに来たんだ!」


 グリムナがそう叫ぶと、エメラルドソードの剣身が一層緑色に輝いた。彼が叫び声をあげながら剣を振るうと、アルゴンレーザーの如く剣が輝き、刃の触れていない部分までもが触手と、そして竜の体を切り裂く。


『おおおお!?』


 思わずベルアメールがのけ反る。竜の体に大きく亀裂が走った。それでもまだ残ったところから触手が襲ってくるが、グリムナは二度、三度と剣を振り、同じように竜の体を切り裂く。


 ベルアメールはグリムナを強く睨んだ。


『自惚れるなよ……それではまだまだ足りぬわ』

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