第163話 楽しい同棲生活

「いつまでも帰ってこないと思ったら! 男なんて咥え込んできやがって!!」


 メキの母の手には竹で作られた『しつけ用』の鞭が握られていた。普段は快活で朗らかな表情を他人に見せるメキであるが、自分の両親の前ではまるで人形のように感情の消え失せた表情をしている。彼女の頬には一条の鞭の跡があった。


 メキの母はチッと舌打ちをして鞭を片付けた。すぐ横にはヤーンが二人を見ている。普段なら彼女が何か不手際を働けば自分の気がまぎれるまで鞭を打ち続ける母であったが、さすがに客人の前では少しは……ほんの少しではあるが、控えるようである。


 配達の後、まだまだ仕事をさせるつもりであったのに、帰りが遅くなったばかりか、「命の恩人だ」などと言って若い男を連れ込んできた。「お前を食わせるために私がどれほど苦労していると思っているのか」、それが母の正直な気持ちである。実際にはその仕事も大部分がメキに手伝わせているのだが、人というものは不満があれば自分の記憶など簡単に改ざんするのだ。


「恩人だろうが飯の用意なんてないからね! あんたのを分けてやるんだにゃ!!」


 思い出したように母は語尾ににゃをつけて、まだ少し早い時間であったが寝室にこもってしまった。寝室からはもう帰ってきていたのか、父親のいびき声も聞こえる。メキの母親は彼女のさらに親から受け継いだ靴屋を細々とやっているが、メキの父親は日中は外へ働きに出ている。幸いなことに勤め先は彼女を攫おうとしたガラテアファミリーの系列ではなく、メッツァトル商会の系列で荷運びの仕事をしている。今日はよほど疲れたのか、もう寝てしまっているようだ。

 メキは少し笑顔を見せた。とにかくこれで、今日はもう鞭うたれることも、怒鳴られることもない。ヤーンを家に連れてきたのは純粋な親切心と、恩返しの気持ちもあったが、客人が来れば母の癇癪も少しは鳴りを潜めるのではないか、その気持ちもあったのだが、作戦は大成功であった。


「あの人は君の母親じゃないのか……? 随分暴力を振るわれてるみたいだけど」


 ヤーンはメキに「自分の部屋だ」、と案内された部屋に入ってからそう尋ねた。その部屋はまるで物置の様であった。というか実際には物置なのかもしれない。所狭しと売り物の靴と、修理の依頼が出ているのだろう、使い古した靴、それに木箱が並んでおり、下駄箱のようなすえた匂いがする。これならば風が吹いてさえいなければ外の方が環境がまだいいかもしれないとさえヤーンは思った。


「え? 親子なんてこんなもんでしょ? どこだってそう変わらないわよ」


 そう答えるメキにヤーンは首をかしげる。彼の記憶の中には実の母親が占めるものはほとんどない。しかし物心ついてから彼を育ててくれた母親代わりの女性、カルケロは彼に惜しみない愛情を与えてくれた。その記憶とメキの家族は、あまりにも一致しなかった。


 嗅覚は最も早く人間に身の危険を知らせてくれる感覚であると同時に、最も早く環境に慣れてしまう器官でもある。早くも匂いに慣れたヤーンは靴をきれいに並べて、自分の寝床を作り始めると、そこにどかっと座り込んで、メキにもらったわずかなパンとカップに入れられたスープに口をつけ始める。いくら匂いに慣れたといっても靴だらけの空間でとる食事はなかなかに嫌なものである。


「今の質問もそうだけど、あなた不思議な人ね。浮世離れしてる、というか……この町でいったい何してるの?」


「ずっと山奥で……暮らしてたからな……こんな都会とは違うからそう感じるんじゃないのか? この町には人目を避けて逃げて来ただけだ。何か目的があるわけじゃない」


 ヤーンは「山奥で……」の後に「母親と二人で」と言おうとして、やめた。彼にとってはもう思い出したくない記憶だ。答えながらヤーンは「本当に、自分は何をしているんだろう」と思った。ただヴァロークにつかまりたくない一心で、彼らから逃げて、こんな南の大都会まで来てしまったが、自分はいったいこれからどうするつもりなのか、今まで必死で考えてもいなかったが、メキに尋ねられて、冷静になって、それを考え始めてしまった。


 甘い言葉に誘われて、ヴァロークの仲間入りをして、結果としてそれが母であるカルケロを死なせることになってしまった。そのうえで自分はいったい何がしたいのか。


 ヴァロークに復讐……それも何か違う気がする。そもそもが自分がヴァロークと積極的にかかわろうとしなければカルケロ殺害は容易に避けられたことのような気がする。彼らを恨むのは何か筋違いのような気がした。他に思いつくことと言ったら、たとえば、自分の本当の両親を探す。しかし、それも他にやることがないからと言って思い付きで探すものではないだろう。


 そんな時、カルケロの死の前に最後にあった青年の顔が思い出された。遺跡の探索に向かう途中、彼の旅の目的も聞いたが、あきれるようなお人好しであった。一瞬、今の汚れきった自分でも彼なら受け入れてくれるのではないか、という考えが頭をよぎったが、すぐにそれを打ち消す。状況から考えて彼らはヤーンをカルケロ殺害の実行犯だと思っているはずだし、もしそんな彼を快く受け入れてくれるとしたら、それこそヤーンの心は劣等感と、罪の意識から張り裂けてしまうような、そんな気がした。


「ねぇ、あなたさえよければ、だけど……もしよかったら、しばらくここに寝泊まりしない?」


 メキはいたずらっぽい笑顔で笑いながらヤーンにそう話しかけてきた。


「母親には思いっきり迷惑そうにされてたけど……本当にいいのか?」


 夕飯を食べ終わり、ぺろり、と唇を舐めてからヤーンはそう答えた。さきほど、メキの母親はヤーンの方を見て舌打ちをしていた。とても歓迎されているようには見えない態度であった。


「まあ……確かに酷い態度だったけど、邪魔しなくて、靴の修理でもちょっと手伝ってくれれば文句なんてないはずよ! ね、それがいいわ。すごくいい考えよ。やっぱりしばらくここで一緒に暮らそう?」


 メキは両手で彼の手を握り、キラキラした瞳でそう言った。ヤーンはそこまで他者とのコミュニケーションに問題のある人間ではないが、年頃の女の子にこんなに積極的に言い寄られるのは実を言うと初めての経験であった。猫の特性を受け継いでいるのか、それとも彼女の個人的な性格なのかは分からないが、メキの立ち振る舞いはヤーンにとってほとんど抗いがたいとしか言いようのない魅力的なものであった。


「わ、分かったよ……そうするから、手を放して」


 ヤーンは顔を赤くして、目をそらしながらそう答えた。そう答える以外の選択肢が浮かばなかった。


 手を放し、毛布にくるまりながらヤーンは考える。何が一体この少女の心の琴線に触れたのか、なぜこんなに気に入られたのか。それが分からなかった。目の前で化け物に変化し、人を二人殺した。そんな危険人物をこうも簡単に自分の家に招き入れるとは。

 確かに結果的には悪漢に襲われている彼女を助けたことにはなったが、そもそもがその悪漢が自分に唐突に絡んできたことが原因で、こちらから積極的に助けたわけではない。それどころかメキが戻ってきてくれなければ自分の方こそ危なかった気がする。そこまで考えてヤーンはバッ、と毛布をはねのけて上半身を起こした。


「な、なに? 急に」


 急に起き上がったのでメキも驚いているようである。


「そういえば、助けてもらったお礼を言っていなかった、ありがとう」


 あまりにも唐突な、それでいて律儀な言葉にメキは思わず目を丸くし、しばらく固まっているが、やがて堰を切ったように笑い出した。


「にゃはははは、なにそれ! 助けてもらったのは私の方なのに、変なの!」


 メキはそのまま笑い続けていたが、ヤーンはそれに気を悪くしたのか、毛布にくるまって、そっぽを向いて寝転んでしまった。メキがヤーンを家に呼んだ一番大きな理由、それは論理的に説明できるものではなかったが、彼ならば、閉塞感の強く感じられるこの生活に風穴を開けてくれるのではないか、そう感じたからであった。

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