第374話 聖者

 その日の夜、ベルドは陽が落ちても、夕食が終わっても、いつまでも寝所に入ることなく家の外で外壁を背によりかかり、月夜を眺めていた。


 どこで手に入れたのか、この村では贅沢品に属する、素焼きの瓶に入った蜂蜜酒ミードを大切そうにひと口飲む。


「ふぅ……」


 酒が入ってもまんじりとせず、ただぼうっと丸い月を眺める。


「眠れないのか? ベルド」


 声をかけたのはグリムナであったが、ベルドは彼の方を一瞥するだけで、特に返答もせず、また一口蜂蜜酒を飲んだ。


「昼間の事で、悩んでるみたいだったが……」


 そう言ってグリムナはベルドの隣に腰を下ろした。ベルドはそれでもはじめは彼の事を無視していたが、グリムナが居座るつもりだと分かると少しずつ話を始めた。


「いや……俺が勝手に期待しすぎてたんだってことは分かってるんだがよ……最後に望みを持ってた『人と人とのつながり』ってもんの正体がまさかあんな個人の能力頼みのスキルみたいなもんだとはな……」


 ベルドはがくりと項垂れて言葉を続ける。


「分かっている……分かってはいるんだ。そんな簡単な答えを求める方が間違っているなんてのはな。人間同士の繋がりに、そんな近道なんてないんだって……でもなぁ……」


 グリムナは穏やかに笑って、項垂れるベルドの背中をポンと叩いた。


「俺達だってだってきっとコルヴス・コラックスの血を引いてるんだから全くアテが外れたってわけでもないだろう。リヴフェイダーも前にそう言ってたし……」


 ベルドは顔を上げ、しかしまだ元気なさそうに弱弱しい声で答える。本当に、出会った時の凶悪な人間と同一人物とは思えない。


「ああ、だが、それが結局竜という惨劇を巻き起こしてる。どうあってもどんづまりなのさ、俺達人間はよ」


「そんなことはないさ」


「『近道はない』って分かっただけで、『辿り着けない』わけじゃない。相手の気持ちを知ることは出来なくても、こちらの気持ちを伝えることは出来る。人は……一人じゃないんだ」


 グリムナは昔の事を思い出す。それは、白い部屋の中での記憶。


 時の流れさえも曖昧だった部屋の中、同様に記憶も曖昧であったが、しかし不思議な感覚を覚えている。……人は、一人ではない。


 ニブルタは、ヤーンは記憶の中で生き続けていると言った。あの部屋の中で、死んでいるはずの彼の幼馴染と、生き返ったグリムナの間にそれほどの大きな違いがあっただろうか。生と死の境はやはり同様に曖昧であった。


 そして、刺激というものの一切ない部屋の中で、『自』と『他』の間も曖昧であった。どこまでが自分で、どこからがそれ以外なのか、それも揺らいでいたのだ。


 すがたとはすなわくうであり、同時に空とは即ちすがたである。


 『空』とはうつろという意味ではない。それは無であり、有であり、世界の全てでもある。


 自であり、同時に他であるならば、まさしく相手の心が分からないことなど何も問題はないのだ。


 ないのだが。しかしそれを口でベルドに伝えてもそれは詮無き事。重要なのはる事ではなく理解わかることだからだ。


 ベルドならば、自分が導かなくてもきっといつかそこへたどり着くような、そんな気がした。


「コルヴス・コラックスは『自』と『他』の間に、そんな大きな違いなんてないってことを、教えてくれそうな気がするんだ」


 そう言った時に、グリムナの中にある歌が思い浮かんだ。



 人の世の幕の終わりにあたりては


 一なるものは 百なるものの如く


 百なるものは 一なるものの如くなり


 は始まりにして終わりなるもの


 竜よ 竜よ 目を覚ませ


 竜よ 竜よ 我に応えよ



 はて、どこで聞いた歌であったか。


 歌の中に『竜』と出てくるからおそらくはウニア絡みの事だとは思う。歌と言えばヒッテであるが、しかしこれはえらく低い声だったような記憶がある。


「竜は……人が作った……そうじゃなくて、竜は、人自身なんじゃないのか……?」


「どういうことだ?」


 グリムナが呟いた言葉にベルドが聞き返す。


「一なるものは百なるものの如く、百なるものは一なるものの如し……」


 ベルドは彼の呟く言葉に「なんだそりゃ」と言ってあきれた表情を見せたが、しかしその彼の表情を見てグリムナは思い出した。2メートル前後の巨体に彫りの深い岩のような顔、彼の思いだした人物は、大司教メザンザである。


 そうだ。竜が現れる際にメザンザが呪文のように歌っていた祝詞のりと。あれに意味があったのかは分からないが、しかしあの直後竜が現れた。それが竜を呼び覚ます呪文だったのかどうか、それは今はどうでもよい。


「あの時、メザンザは、竜の正体に気付いてたんじゃないのか……」


「どういうことだ? 竜の正体? 『人が生み出した』とかニブルタは言っていたが……」


「『生み出した』ってレベルじゃない。おそらく、竜は、人々の『意思』そのものなんだ。竜こそが、人の心が通じ合っている事の証左なんじゃないのか……?」


「大層な推理だな……」


 ベルドは納得がいかなかったのか、グリムナから視線を外して、空中を眺めてから、残りの蜂蜜酒をぐい、と一息に飲み干した。


「だが、もしそうならなんだっていうんだ? 竜が人そのものなら、『竜を倒す』なんて考え方がそもそも間違ってることになる。あれをどうこうする方法なんて無いってことだ」


 そう。ベルドの言うとおりだ。自殺を望む人間に、それを力づくで止めたからといってあまり意味はない。重要なのはその原因を取り除くことである。


 必要なのは『竜と戦う力』ではない。


 人に寄り添い、共に歩み、そして導くことなのだ。聖者のように。


 そして、人々が罪から解放された時、本当に竜から逃れることができるのだろう。


 それは当然『罪を気にしない』ということではない。人々がほんの少しだけでも他人を思いやり、他人のために行動できるようになって、隣人を愛することができるようになったら、その時こそ人は自身を苛む罪から解放されるのであろう。

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