第279話 たとえ話がヘタすぎる
「お……おおおお……」
椅子から転げ落ちたフィーが鼻血をダラダラと垂らしながらゆっくり立ち上がった。
「す、すいません。ついイラっときてしまって……」
ヒッテは自分の行動自体が意外だったのか、おろおろとしている。
事実、彼女自身、自分の心の変化に驚いていた。5年前に記憶を失って以来、おおよそ心の情動というものが失われていたからだ。
何かを考えようとしてもうまく考えがまとまらない。
無論、何か行動の指針を立てたりだとか、計算をしたり、物事を計画的に進めるにあたって障害があるわけではない。そういったものは普通にできるのだが、しかしこと心の情動に当たってはそういった起伏がまるでなかった。
怒り、悲しみ、喜び、恐怖、そういったものについて考えることが極端に苦手になっていた。
それは、例えば夜道に男に襲われたりだとか、そういうときには恐怖に支配されずに冷静に対処できるので大変便利であったが、しかし何か、自分が空虚な人間なのではないかという漠然とした不安は抱えていた。
……のだが。
目の前のこのダークエルフ、フィーの行動にはイラっときた。
何かこう、的確に人の心をかき乱すポイントを突いてくるのだ。
「すいません、ヒッテは普段はあまり人に怒ったりすることはないんですけど、なにかこう……耐えられなくって」
「う、嘘だ……私、ヒッテちゃんに何回か蹴られたことあるわよ……」
どうやら記憶をなくす前からこの女にイラつかされていたようである。それにしても記憶を失うとともに感情の起伏が乏しくなったヒッテ、よりによってそれを回復の糸口となったのがフィーのイラつく言動になるとは。
フィーはハンカチで血をぬぐってから椅子に座りなおしてヒッテに話しかけた。
「まあ、まあまあまあ……それは置いておいてよ。本当に記憶なくしちゃったの? グリムナの事は覚えてないの?」
「グリムナ?」
ヒッテは思わず聞き返した。しかしそのリアクションに逆にフィーは驚き、口に手を当てた。
「うそ……グリムナの事も覚えてないの……?」
グリムナ……覚えてはいないが、しかしその名は知ってはいるのだ。奴隷商館の親父から聞いた、自分の身柄を買った男の名、それがグリムナであった。
しかしその名について思い出そうとすると、どんな人物だったのかを思い出そうとすると、頭にもやがかかったかのように思考が鈍り、何も思い出せなくなる。
まるで呪いにかかったように。
フィーは椅子に座ったまま体を横に向けて、また何やら考え込んでいる。
(どういうこと……? 忘れたのは、一人じゃないってこと? でも、そういえばさっき『5年前のことは何も覚えてない』って言ってたわよね)
「ねぇ、ヒッテちゃん。もしかして、5年前の事って、『誰か』の事を思い出せないとかじゃなくて、5年前のことは何も思い出せないの?」
フィーにそう聞かれると、ヒッテはぽりぽりと頬を掻き、虚ろ気に視線を彷徨わせ、うろうろとした落ち着かない挙動を見せた後、ゆっくりと答えた。
「何も……というわけじゃないんです。誰かと一緒に旅をしていただとか、その旅の途中に何があったか、例えば北の方で世界樹を見」
「あ! それ! 私の実家!!」
唐突に食いついてきた。
「そうそう! 行ったのよね、世界樹! あ、ねぇねぇ聞いてそう言えばさあ、5年前のあの事件の後私一旦実家に帰ってたんだけどやっぱりお母さんが結婚結婚うるさいからすぐに家を出ちゃってね……」
何か始まってしまった。
「いや、断片的には思い出せるんですけど、」
「ねえ結婚って言えばさあ、知ってる? アムネスティっていたじゃん! 覚えてない? ホラ、人権騎士団の! この間あいつに会ったんだけどさあ……あれ? でもあいつ結局殺人事件の追及されなかったのかなあ? ほら、アイツ牢番を殺してたじゃん。あの……なんだっけ、アニャル?」
「アヌシュです」
「そう! そのアヌス! っていうかえらい断片的なところをピンポイントで覚えてるわね。ツッコミを入れると記憶が戻るのかしらね? そうだツッコミと言えばちょうどこの町の代官じゃなかったっけ? ゴルコークって。ゴルコークの指がグリムナのアナルにつっこまれ」
ゴッ
鈍い音が食堂に響いた。
どうやら何者かがフィーの鼻っ柱に鉄拳でも叩き込んだようで、また鼻血を垂らしている。
「人の話を最後まで聞けないんですか……」
「スイマセン……」
というか食堂でアナルの話なんかするな。
とにかく、フィーのあまりにもとりとめのない話は一旦打ち切られ、代わりにヒッテが口を開いた。
「だからですね……」
ヒッテは椅子に座りなおし、ゆったりとした動作でお茶の入ったカップに手を伸ばす。
ウルクはヒッテの事を『感情の起伏が無くなった』と言っていたが、しかしフィーから見るとヒッテはあまり変わっていないように見えた。
それは昔の仲間に実際に会ったからなのか、それともツッコミどころの多いフィーの前ではそうならざるを得ないのかは分からなかったが。
しかし改めてフィーがヒッテを見ていると、カップに入ったお茶をゆっくりと飲む仕草など、一つ一つの所作を見ていると随分とやはり大人になったと感じられた。
5年前のヒッテとグリムナは正直言って兄妹のようにしか見えなかったが、しかし今のヒッテならグリムナの隣に並べば恋人同士といっても差し支えないようにフィーの目には映っていた。
「断片的な記憶はあるんですよ。思い出しづらくはありますが、どこで何を見ただとか、どんな話を聞いただとか。でもそれが、うまく繋がらないせいで、なんだか他人の記憶をのぞき見してるような、そんな感覚になっちゃうんです」
フィーはその話を聞いて、少し考えてから話し始める。
「こう……たとえばね? 大きな幹があるとするじゃない?」
フィーは両手で自分の前に縦に手を振りながらそう言った。ヒッテは首をかしげて少し考えてから聞き返す。
「ミキ? って……木の幹ですか?」
「そう。木の幹ね」
例え話が唐突すぎてついていけない。正直ヒッテはよく今の反応できたと思う。
「でね? この幹が無くなっちゃったせいでね……枝や葉っぱが残っててもそれが構成できないっていうか、まあ、そんな感じなんじゃないかな?」
「…………」
しばし沈黙の時が流れた。
「……何がですか?」
「え? 記憶の話でしょ?」
「……?」
またも沈黙の時が流れる。
「ええとですね……まず、木の幹っていうのは、何を現してますか?」
まるで心理テストの答え合わせの様な問いかけである。
「グリムナに決まってるじゃない。そもそもあの旅はグリムナが始めたものなんだから」
ヒッテは初耳である。というか『記憶をなくしている』と言っているのだから知っていることを前提で話を進めるな。
「ああ、つまり、そのグリムナって人が中心になって旅をしてて、肝心のグリムナさんの記憶が無くなったから全体の統合性が失われてゲシュタルト崩壊を起こしたと、そう言いたいんですね?」
「……ゲ、ゲシュタポ? 等号性? え……ちょ、え……?」
IQが20違うと、会話が通じない、と言われている。
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