第302話 腰抜け

「ふぅーッ、ふぅーッ……」


 最初のうちは軽やかだった足取りも、ほんの300メートルほどの道のりを進み終わるころにはゴーレムの歩みの如く重いものへと変貌していた。その吐息も、また春先の風の如く荒れている。


「ありがとう♡ グリムナ……」


 そう言ってラーラマリアはグリムナの首に絡めるようにして体重を支えていた両手をぎゅっと引き寄せて彼の胸元に頬ずりするように力を込めた。


 やっと着いた、そう判断したグリムナは左手に抱えていた彼女の脚をゆっくりと地面におろす。雑貨屋の前から飲食店街までの道のり、自分と同じくらいの身長の彼女を『お姫様抱っこ』してここまで抱えてきたのだ。疲労困憊であった。


 一方対照的に抱えられていたラーラマリアの方はキラキラと目を輝かせて、喜色満面の笑みである。ほんの少し前まで黒髪の少女を前に異常な取り乱し方をしていたのが噓のようである。


 二人は目の前の食堂に入っていった。テーブルに着席してもまだラーラマリアは満面の笑みを崩さないでいた。


(ああ、本当に、なんて幸せなのかしら)


 白い部屋から出て、5年間の眠りから覚め、それ以来グリムナと共に、二人きりで旅を続けてきた。


 毎日毎日が彼女にとって『最高の一日』であった。


 一日一日が『昨日よりも良かった日』だった。日が西に沈む度、今日が自分の人生のピークなのだろうと感じる。こんな幸せが明日も続くはずがない。きっと、こんなガラスのようにキラキラ光った毎日は明日にでも、そう、まるでガラスのように粉々に砕け散ってしまうに違いない。そう思いながら枕を涙で濡らし、ベッドで横になる。


 だが、日が東から昇り、新しい一日が始まると、今日が昨日よりもさらに『良い一日』だったのだと気づく。


「あの時、死ななくて本当に良かった……」


「そんなにお腹すいてたの……?」


 気づけば、二人の前には昼食に頼んだものがすでに並べられていた。


「ああいや、なんでもないわ。こっちの話よ」


 グリムナの言葉に、ラーラマリアは曖昧な言葉で会話を濁す。しかし食事を始めながらふとラーラマリアは先ほどあったことを思い出した。


 まさかこの町にグリムナのかつての仲間、それもよりによってヒッテがいるなんて、思いもよらない事態であった。


 いや、よくよく冷静になって考えてみれば思い至らなければならない事態ではあったと考えた。


 ― この町を早く離れるべきだ ―


 彼女の結論はこれである。


 思えば、この町ではいろいろなことがありすぎた。全ての悪夢の始まりはこの町だったように感じられた。


 圧政を敷く代官ゴルコークの成敗、そこからラーラマリアにとっての『狂い』は始まったのだった。そこからグリムナの『ホモ疑惑』が首をもたげ、そして『レニオにグリムナを取られる』という恐怖心から彼を追放するという愚行をとってしまった。


 その後の彼の足取りはラーラマリアは知らないが、もしかしたらヒッテとはこの町で出会ったのかもしれない。だとすればこの町にヒッテがいるのはごく自然なことである。


 そしてグリムナは今部屋を取っている宿にも泊まったことがあると言っていた。だが、ラーラマリアと一緒にいた時はあんな安宿には泊まっていない。という事は『自分以外の誰か』と泊まっていたことになる。『この町に長く滞在するのは危険だ』


「ゴルコークの事とかは、何か思い出さない?」


 その名前を出すとグリムナは少し顔色が悪くなった。


「く……ゴルコーク、裁判所、アナライズ……うっ、頭がッ!」


 また何か心の琴線に触れてしまったようだ。この男、トラウマが多すぎる。


 通常この国の制度では代官は汚職と癒着の対策のため数年で任期が切れるのだが、しかし10年ほど前よりこの地を治めるゴルコークは善政を敷くようになり、住民の嘆願もあって引き続きアンキリキリウムの町を治めている。この町はもはやピアレスト王国の北方の要衝となり、王都にも比肩するほどの発展をしているらしい。


「別の町に行きましょうか、グリムナ」


 新たな町に行けば新たな危険があるかもしれない。しかしこの町にいるよりはマシなように思えた。グリムナは一瞬顔を上げたが、すぐに手元のスープに視線を落として、何か考え事をしているようにしながら答えた。


「いや、どうだろうな……? もう少し、この町で『記憶探し』をしてみようかと思うんだけど……」


 グリムナの脳裏に浮かんだのは、先ほどの黒髪の少女、『ヒッテ』である。彼女の事を思い出そうとすると、いまだに胸が痛む感覚がする。


 そしてそれこそが、ラーラマリアの最も恐れているものである。


 先ほどは首尾よく(?)狂人(?)のふり(?)をして難を逃れた(?)のだが、依然脅威は去ってはいないのだ。次はうまくごまかせるかは分からないし、そもそもグリムナにあまりヤバい奴だと思われるのも面白くない。


「かっ、帰りましょう!」


「帰るって……もしかしてトゥーレトンに?」


「そうよ! 一旦帰りましょう! それがいいわ」


 トゥーレトンとはここからはるか西へ行った先、海に面する国、フェラーラ同盟の小さな村であり、グリムナ達の出身地である。


「いや、でも、トゥーレトンでの記憶は普通にあるし……旅に出てからの記憶がないから……」


 ラーラマリアとしてはそこがねらい目なのだ。旅の軌跡を追って歩き回るようなことはあまりしたくない。実家のあるトゥーレトンならば安全に、記憶を取り戻すこともなく、静かに暮らせるのではないか、そう考えたのだ。


「ほら、もしかしたらレニオ達が帰ってるかもしれないじゃない? 何か話ができれば記憶も戻るかも……」


 この提案は正直言ってラーラマリアにとっても賭けである。レニオと最後に会った時は敵対していたのだから、彼がまだラーラマリアを敵視している可能性はある。しかしそれでもあの女……ヒッテの近くにいるよりはましだと考えての事だった。


「まあ、そうだな。父さんと母さんにも長いことあってないし……あ」


「どうしたの? グリムナ?」


「いや……婚約したなら……互いの両親に報告しなきゃならないよな……?」


「…………!!」


 ガタン


 二人が食事をしているのは安いトラットリア大衆食堂、当然設備も大してモノではなく、座っているのも背もたれの無い簡易的な丸椅子であった。


 ラーラマリアはグリムナの言葉を聞いた瞬間、のけぞり、椅子の上から尻を床に落として尻餅をついていた。


「ら……ラーラマリア? 大丈夫? どうしたの」


「こ、腰が抜けた……」

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