第194話 ほとんど水

 ネオムの村には今日も強い風が吹いている。草原の中にぽつんとある交易の中継地点。風を遮るものが無く、細かい砂を運んでくる強風にグリムナは目を細める。


 しかし彼は今それどころではない。正確に言うと、彼とベアリスの二人はそれどころではなかったのだ。


 ……腹が、痛い。


 グリムナとベアリスは腹を抱えて宿屋の部屋でうずくまっていたが、「ぎゅるる」という腹の音がしたかと思うと、即座にグリムナは廊下に駆けていった。


「な……何でこんなにおなかが痛いんでしょう……ぜんぜん心当たりがありません……」


 脂汗を額に浮かべながらそう呟くベアリスであったが、ヒッテ達の視線は冷ややかなものであった。


(明らかにこの間の泥水を飲んだせいだろう……)


 グリムナとベアリスの再開から3日が経った。グリムナはベアリスと共にネオムの村に戻ってすぐにビュートリット宛にふみを出したが、その直後であった。不意にベアリスが腹を抱えて膝をついた。一瞬何事かと思ったグリムナ達であったが「ぎゅるる」という腹の音で誰もが何が起こったのかを理解した。


 グリムナは笑いながら「変なものばっかり食べてるからですよ」と言ったが、しかし彼の笑顔も長くは続かなかった。


 彼もまた膝をついたからである。おぞましい低い音を立てながら苦悶の表情を浮かべる二人を前に、ヒッテ達は(さっきの水だな……)と全てを理解した。グリムナは何とかピークをこらえたようで、なんとか立ち上がりながらベアリスに話しかけた。


「と、とにかく俺達がとっている宿まで行きましょう……そこまで我慢できそうですか? ベアリス様……」


「グリムナさん……」


 ベアリスもなんとか立ち上がって、中腰の姿勢で彼の言葉に答えた。


「今の私は王族でも何でもありません。『様』をつけて呼ぶのは……」


「今そう言うのどうでもいいから!!」


 訳の分からない押し問答をしながら二人はよろよろと歩いていく。正常性バイアスと言うものか、「うんこを漏らしそう」という現実から逃げているのであろう。少し違うような気もするが。とにかく、元王族のベアリスが、これからまた王族に復帰しようとしている彼女が、人前で大を漏らすようなことがあればさすがに面目が立たない。人がいなければいいのかというとまたそういうわけでもないが。


 激痛をこらえて歩きながらベアリスがグリムナに問いかける。


「グリムナさん、こういうのって回復魔法でどうにかならないんですか……?」


 当然といえば当然の思い付きではあるのだが、しかしグリムナはこの問いかけに否定の意で答える。


「こういうのは水の中に住んでいる悪い精霊により引き起こされると聞きます……ベアリス様が木炭とか砂で濾し取ろうとしてたものですが……回復魔法をかけると、自分の免疫力も向上しますが、そういった悪い精霊も活発化してしまうんで、結局治せないんですよ……」


 回復魔法も意外に融通が利かないようである。数度のピークをなんとか抑えながら、二人は鬼の形相で宿を目指す。普通の小説ではどうか知らないが、この世界では貴人であろうとも普通にうんこを漏らす世界観である。それは聖騎士ブロッズ・ベプトが証明してくれた。この世界に安全な場所などないのだ。

 そうこうしているとなんとか宿屋の敷地内にまでたどり着くことができた。二人のあとを心配そうな表情でついていっていたヒッテ達もようやく安堵の表情を見せる。ベアリスは宿屋のフロントまで行って脂汗を浮かべたまま店主の親父に話しかける。


「す、すいません……おなかの調子が悪くて……庭先をお借りしてもよろしいでしょうか……」

「トイレを借りてください」


 慌ててグリムナが彼女の発言を訂正する。どうやら彼女が人里の生活に慣れるのにはまだ随分時間がかかりそうである。彼女の社会復帰のことは置いておいて、ベアリスがまず先にトイレにこもってバトルの始まりである。トイレは宿屋の敷地内の、少し離れた場所にある。下水システムの整備されていない地域であるので当然トイレは汲み取り式だ。ベアリスを待ちながら、グリムナは依然脂汗を浮かべて辛そうな表情をしている。


「ご主人様、大丈夫そうですか?」


「…………」


 ヒッテが問いかけるが、しかしグリムナは答えない。どうやら必死にこらえているようである。彼が背もたれにしている便所小屋からは今もベアリスが元気に出産している音が聞こえてくるが、もはや野生動物と成り果てた彼女はそんなことなど気にしないのだろう。音姫など存在しない世界である。

 これはいよいよやばいかもしれない、そう考えて最悪の事態に備えてヒッテはフィーにいらない布切れを、バッソーには水を汲んでくるように指示を出した。何かトラブルが起こると二人はもう完全にヒッテのラジコン状態になる。


「ヒッテ……」


 か細い声でグリムナがそう呟いた。そのあまりに弱弱しい声に、ヒッテは不安になりながらグリムナに何事かと聞き返す。


「どうしたんですか、ご主人様? 何か欲しいものでもありますか? もう少しの辛抱ですよ……」


「……いままで、ありがとう……」


「ご主人様!? ご主人様ぁーーーっ!!」


 ……グリムナは犠牲になったのだ……ベアリスの王女としての体裁を保つため決められたトイレの順番……その犠牲にな……




 と、いうようなことがあったのだが。




 まあ、それは置いておいて、今現在は、ビュートリットに文を飛ばして、その返事待ちの状態である。いくらか金を包んでターヤ王国方面へ行く予定のある行商の男に手紙を渡し、ビュートリット宛に手紙を持たせる。手紙にはベアリスを発見、ステップ地方のネオムの村に滞在しているため指示を待つ、といった内容である。

 そんな内容の手紙を確実性を上げるために何人かの男に手渡した。こういった専門の業者ではなく『ついで』の頼みの手紙というものは確実性を上げるために同じものを別ルートで何件か頼むというのがセオリーである。今回は使用しないが伝書鳩などを使うときも同様。鳥の帰巣本能には確実性はないうえに、途中猛禽類に襲われることもあるからだ。


 ここ、ネオムの村はステップ地方に住むタンズミッミルとオクタストリウムの商人をつなぐための交易のハブであるため、行商人はいくらでも見つかるが、政情不安のあるターヤ王国に行くという者は少なかった。しかしそれでも数人は見つけることができたのは幸いであった。あとはビュートリットの返事を待つのみである。


 待っている間退屈すると思ってはいたのだが、まさかこんなイベントが起きて脱水症状になるとは夢にも思わなかったグリムナである。


 小康状態となってグリムナが水分補給をしていると、ベアリスも部屋に戻ってきた。


「ふぅ……ほとんど水ですよ……」


「経過報告しなくていいです」


「こう……初めてではないですけど、出るものが無くなると、シャーって、お水みたいのが出るんですよね……」


「だから報告しなくていいですって!」


 変な問答がひとしきり終わったところで、グリムナは息を落ち着けてから部屋にいたフィーに話しかけた。


「フィー、一つお願いがあるんだけど、いいか?」


「ん……? なに?」


 グリムナのフィーへの依頼、それは、自分達よりも先行してターヤ王国に行き、内情の調査をすることであった。もっと詳しく言えばビュートリット、彼が本当に王政派なのかどうか、彼の実際の評判がどうなのか、その調査であった。


「随分慎重なんですね、グリムナさん……」


 心配そうな表情でベアリスがそう呟く。しかし彼女は知らないがグリムナはつい最近ヤーンを助けられなかったことが大変に心的ストレスとなっていた。同じようなミスを二度と犯したくないのだ。もしビュートリットが王政派ではなく改革派であったなら、ベアリスを渡すことはオオカミの群れの中に羊を突っ込むようなことになる。

 もしそうでなくとも、彼が今ターヤ王国の中でどういった立ち位置なのか、本当に王政派の筆頭なのか、王政派と革命派の力関係はどうなっているのか。その結果如何によってはベアリスを引き渡すことは取りやめたほうが良いかもしれない。そう考えての潜入調査をフィーに依頼したのである。


 体力的なことを考えるとバッソーに一人で旅をさせる、というのは少し不安が残る。ヒッテは論外だ。子供の一人旅など常識はずれもいいところである。はじめてのおつかいなど実施すればわずか数分で野盗や魔物に食い散らかされる世界である。

 フィーに依頼すると今までと同じようにまた自分の欲望のままに行動してろくに指示に従わないかもしれない、という可能性もあるが、しかしフィーだっていつまでも子ども扱いして仕事を任せられないのでは今後の旅にも影響がある。62歳児のままでは困るのだ。ここはあえて彼女に任せて成長をさせたい、という気持ちもある。

 そう考えてグリムナはこの斥候の仕事を彼女に任せることにした。



 手は尽くした。あとは、脱水症状と戦いながらビュートリットの返答を待つのみである。

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