第178話 トロールフェスト
ヤーット クルー ハジメルー ジカンダー
トロールノヨルダー コンカイハー カーツーゾー
甲高い歌声と共に、もはや肉塊のような姿と成り果て、破壊と憎悪をまき散らす魔人と成り果てたヤーンに小さい動物が手に持った小さい棍棒を得物に襲い掛かる。ヤーンはすでに丸太よりも太くなった無数の触腕でそれを打ち払い、絞め殺し、体に取り込む。
しかしそれでもその小動物は怯むなくことなくヤーンにとびかかり、触腕をかいくぐってこん棒を打ちつける。
「コトシノ マツリハ スゴイゾ!」
「イママデ コンナノ ナカッタ!」
その小動物は身長は1メートルと少し、緑色の毛むくじゃらの体に大きな鼻と耳を持っている。一見するとゴブリンのようであるが、それはヤーンやリヴフェイダーに比べると大分小さいが、トロールであった。
「オオォォオ!!」
ヤーンが唸り声を上げながら、躍起になって触腕を叩きつける。逃げ遅れた人間が巻き込まれているが、お構いなしにトロール達はヤーンに襲い掛かる。戦うために生まれてきたような素早い身のこなしに、ヤーンは間合いを取ろうと苦戦しながら後退する。ヤーンの足はすでに動物のそれではなく、タコのような野太い触手に変わっていた。
「随分酷いことになっちゃったわねぇ……」
ベルドが姿を消してから少しして、グリムナがバッソーのけがを治療していると、聞き覚えのある間延びした声が聞こえてきた。グリムナが振り向くと、絹のような美しい黒髪に真っ赤なドレスをまとった、避難民でごった返す町の広場に似つかわしくない女性が立っていた。リヴフェイダーである。
「リヴフェイダー、まだこの町にいたのか」
「当り前じゃなぁい」
グリムナの言葉に、リヴフェイダーはにこりと笑って人差し指を立てて答えた。
「今日が何の日か忘れたのぉ? トロールフェストのお時間よぉ」
グリムナがヤーンと戦い、意識を失ってからかなり時間がたっており、時はすでに深夜、日付は変わっていた。そう、今日はトロールフェスト。みんなが待ちに待ったお祭りの日である。遠くでまだ暴れているヤーンの破壊音はまるで祭囃子のようだ。当然出店は出ていない。
「でもねぇ……ちょっと困ったことになっちゃったのよぉ……」
リヴフェイダーはいつもの余裕たっぷりの表情から一転、眉をハの字にして困ったような顔を見せる。
「アタシのお友達がねぇ、みんな興奮しちゃってヤーンに遊んでもらおうと襲い掛かっていったんだけど、どんどん殺されて、食べられちゃってるみたいなのよねぇ……」
この言葉に全員が驚愕した。
「トロールが食べられ……吸収されているという事か……! それは……まずいんじゃ……」
バッソーが目を丸くして驚くとフィーも同様に焦った表情になる。
「トロールを取り込んでさらにパワーアップしてるってこと!? さっきの状態でも手に負えなかったって言うのに!」
ヒッテはグリムナの方を振り向き、恐怖を押さえながら、話しかけた。
「ご主人様、逃げましょう……もう人間の手に負える相手じゃあないですよ……」
しかしグリムナは顔をしかめたまま動かない。逃げることは簡単だ。しかし自分がここを離れたら、いったい誰がこの町の人々を守るというのか。暗黒騎士団もあてにはできない。ヤーンを止めることができるのはグリムナしかいないのだ。さらにリヴフェイダーもグリムナに懇願するように縋りつく。
「ねぇ、お願い! トロール達を助けて! このままじゃみんな死んじゃうわぁ。人間やトロールだけじゃない。魔物も動物たちも、みんなあいつに食べられちゃう。一緒にヤーンを倒しましょう!」
「何を言ってるんですか! そもそもあなたがヤーンにトロールの力を分け与えたのが事の発端でしょうが! 大体人間も大勢殺されて避難民が出てるって時にトロールの事なんか助けてる余裕ありませんよ! トロールと人間の命の重さが同じだとでも思って……」
リヴフェイダーの言葉にヒッテがすぐに反論したが、しかしそれを口にしながら、ふとグリムナの方に振り向いてぎょっとした。グリムナも自分と同じ考えだと思っていたのだが、しかしグリムナはリヴフェイダーの言葉に、真剣な表情で考えこんでいたのだ。
「ご主人様……まさか……人間の命と、トロールが同じだなんて……考えて……ないですよね?」
ヒッテがそう問いかけるが、しかしグリムナは苦悶の表情を浮かべたまま考えこんでいる。彼は本気だ。
「俺だって、生きとし生けるものが全て同じ命だ、なんてきれいごとを言うつもりはない。腹が減れば牛や豚を食べるし、この大陸に生きる全ての命を救うなんて大それたことを考えているわけじゃない……でも……」
グリムナが顔を上げる。彼の瞳にはすでに苦悶の色はなかった。ただただ、決意を固めた男の、強い意志だけが見て取れた。
「でも、助けを求めてきたその手を、振り払う事なんてできない!!」
グリムナのその言葉に、ヒッテは、あきらめの表情と共に、しかし同時に彼に対し羨望のまなざしを送った。どんなときだろうと、誰であろうと、自分の考え方を曲げずまっすぐ突き進む。彼女がグリムナのことを好きになったのは、まさにそんなところだった。その強い意志があるからこそ、ヒッテだけでなくバッソーやフィーも彼についてきたのだ。他にも邪な考えもあったが。
「だが……俺はヤーンを倒すつもりはない。何とかして彼を助けたい。どうにかして、彼と話をすることはできないだろうか……ヤケを起こして暴れまわっているだけで、決して根っからの悪人ってわけじゃないんだ。何か方法はないか?リヴフェイダー……」
グリムナがリヴフェイダーの『お願い』に肯定的な意見を示すであろうことは全員なんとなく予想はしていた。グリムナなら、自分の危険など顧みずにたとえ人だろうが、トロールだろうが、ともかく彼らを助けるために自分の命をなげうってでも戦うだろうと。しかしこの発言にはさすがにヒッテは呆れた顔を隠すことすらできなかった。
ヒッテはおそらくヤーンがまだ暴れているだろう方向に視線をやった。そちらからは低い破壊音と共に怒号、叫び声などが入り乱れてここまで聞こえてくる。おそらくは事態を収拾せんと、この国の軍隊も動いているのだろう。戦闘音はその激しさを緩めることなく、より大きくなっているようにすら感じられる。
季節はそろそろ夏に差し掛かろうとするころであるが、空が白んでくるにはまだまだ早い時間である。しかしヤーンが暴れている方向は空が明るく染まり、黒煙も上がっている。もはや個人の大暴れや暴動と言ったものよりは天災に近いような存在と言えよう。
その景色を少し見てから、ヒッテがグリムナを咎めるように話しかける。
「この町の惨状を見て、まだそんなことが言えるんですか? さすがに看過できる発言じゃないですよ! もはやたとえ命で償ったとしてもつり合いの取れる罪じゃないんです! その上でヤーンを助けるっていうんですか!?」
「俺は判事でもなければ衛兵でもない。俺に罪を裁く権限なんてない。すべて事が済んで、それでも彼が法律で罰せられるなら当然それを止めるつもりはない。それを分かったうえで助けようっていうのはそれほど罪なことか? なあ、リヴフェイダーでもヒッテでもいい、何とかしてあいつの心に語り掛ける方法はないか? 何とかしてあいつを止めたいんだ!」
確かに、グリムナの言うことは道理は通っている。しかし通っているからと言ってとてもそれを受け入れられる人間はいないだろう。人間ならそうだろう。リヴフェイダーはグリムナの発言に笑顔を取り戻し、少し興奮して赤らんだ表情で、嬉しそうに答えた。
「ありがとぅ、グリムナ……やっぱりあなたはアタシが見込んだ通りの男よぉ……賭けにはなるけれども、一つだけ方法があるかもしれないわぁ……何か、密封できる容器のようなものは、あるかしらぁ?」
リヴフェイダーがそう言うと、フィーがポーチから小瓶を取り出した。これは以前にスライムローションを封入していた小瓶であり、グリムナが丸々二瓶使ったために空いた空瓶である。
スライムローションも貴重なものだが、ガラスの瓶自体も貴重なため、国境なき騎士団との戦闘の後、彼女は瓶を回収していたのだ。
フィーがそれをリヴフェイダーに渡すと、リヴフェイダーは瓶のコルクを開けてから、左手の手首の内側を自分に向け、口を開け、がぶりと静脈を噛みちぎった。
そのままボタボタと落ちる血液を瓶一杯に入れると、すぐにコルクで蓋をした。
「お前の血……? それで何をしろと?」
グリムナが問いかけるとリヴフェイダーは小瓶を顔の横に掲げて、笑顔で答えた。
「秘密の薬よ……ヤーンはアタシの血を分け与えられてトロールになったのぉ……アタシの方が上位の存在になるから、いざとなったら、この血を体に取り込めば、おそらくヤーンに取り込まれることはなくなるわぁ」
「それって、ご主人様も、トロールになっちゃうんじゃあ……」
ヒッテが不安そうな表情でそう呟く。確かにここまでの説明を聞いているとそうなる可能性が高い気がする。
「このくらいの量ならきっと大丈夫よぉ……それに、今用意できる方法の中じゃ、これくらいしか使える
『おそらく』とか『きっと』とか、不確定要素の多すぎる手段である。しかし現状ヤーンの力の正体が分からない以上、リヴフェイダーの提示した案に従うしか方法は他にないのだ。ヒッテは咎めるような視線でグリムナを見つめてながら言う。
「ご主人様……最悪の場合、全部リヴフェイダーに『担がれていた』って可能性もあります……最初から、ご主人様をトロールにするために、今回のことを全部仕組んでいた可能性も……」
その言葉を聞いてグリムナはハッとした。己の内なる声……『力が欲しいか』と問いかけた声。彼にも思い当たるところはある。しかし彼はリヴフェイダーの瞳をまっすぐに見つめ、決意した表情で語り掛けた。
「俺は……リヴフェイダーを信じる……」
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