第286話 なぜ泣くんだい?

「ケガはない? 大丈夫?」

 

 黒髪の青年はヒッテにそう尋ねた。町を歩いていれば誰もが振り返るような美形、ではない。はっきり言って外見的には特に目立ったような特徴のない男性だ。ただ、服装や荷物から、どうやら旅人らしく、筋肉質で、脂肪の少ない、均整の取れた体つきをしている。本当に取り立てて特徴のない男だった。

 

 声にも、顔にも見覚えはない。ないのだが、少し気になる。そんな奇妙な感覚を受けながらも、ヒッテは礼を言って、自分で立ち上がる。

 

「いえ、大丈夫です……あの……」

 

「なに?」

 

 声をかけたものの、しかし何を聞こうというのか、それが自分でもよく分からない。そんな状態でもじもじしていると、彼の後ろから女性の声が聞こえた。

 

「ねえ、グリムナ、早く行かないと混んじゃうわよ? 行きましょう」

 

 先ほど雑貨屋で聞いた声である。この女性の声には確かに聞き覚えがある。ちらり、とそちらを見ると、身長がかなり高い。170cm以上はありそうだ。端正な顔立ちに目立つ色の金髪。それに大きな胸としなやかな筋肉。絵にかいたような美しい女性だった。

 

 一度見れば忘れないような美しい女性であったが、しかしヒッテはこの女性をどこかで見た記憶があるような気がした。

 

「ごめん、ラーラマリア。すぐ行くよ」

 

 青年はそう言って振り返って歩き出そうとしたが……

 

「あ、まっ……待って……」

 

 ヒッテがそれを呼び止める。しかし呼び止めてどうしようというのか。正直言ってヒッテには女性の方はともかく、この青年については全く見覚えがない。

 

 『グリムナ』という名はヒッテの数日前までの奴隷としての主人の名と同じであるが、それだけでヒッテと何か関係があるとは言い切れない。それに実際に彼の顔を見てみてもヒッテには正直何の感慨もわかなかった。

 

 フィーやネクロゴブリコンはじっくり見ていると、何か記憶の奥底からにじみ出てくるような、そんな感覚があった。だがこの男性には何も感じない。

 

 感じないのだが、記憶にはないのだが、自分でもうまく説明できないが、考えるよりも先に、この男性を呼び止めてしまった。自分はいったい、何がしたいのか。それすら彼女は上手く説明できない。

 

「あの……」

 

 とりあえず言葉を発する。

 

 青年は優しげな表情で首をかしげる。人当たりのよさそうな人物ではあるが、しかしやはりヒッテは彼に対して何か感慨があるわけではない。

 

「その、私は……ヒッテ、です……」

 

 考えた末の言葉であった。

 

 なにも思い出せないが、しかし、この男がフィーやネクロゴブリコンの言っているグリムナならば、自分の事を知っているのかもしれない。5年の内にヒッテも成長して外見が随分変わったが、しかし名前を言えば思い出すのではないか。そう考えての発言であった。

 

「あの、ヒッテの事を知っていませんか……? グリムナさん」

 

 からからに喉が渇いていた。まるでこねても焼いてもいない小麦粉を口の中に放り込んだようだった。それなのに額には汗が浮かぶ。ヒッテは、それでも自分が何に対して緊張しているのか、それすら理解できなかった。

 

 それは、ほんの数秒の出来事であった。ヒッテが問いかけてから、青年が答えるまで。

 

 しかしヒッテにとって、その時間は判決を受ける罪人のように緊張した時間であるとともに、愛しい人を待ち続けるかのように長い時間であった。

 

 自分の鼓動だけが聞こえる中、なにに緊張しているのかもわからないヒッテに、青年の答えが投げかけられた。

 

 

「いや、知らないな……初めましてじゃないかな?」

 

 

 ふうっと、ヒッテは息を深く吐いた。もしかしたら問いかけてから答えを受け取るまで、自分はずっと息をしていなかったのだろうか、彼女は冷静に、そんなことを考えていた。

 

 やはり、名前が同じだけで、別人なのだ。

 

 目当ての人物が、これから大陸中を探して見つけ出そうという人間が、そう簡単に見つかるはずがないのだ。赤の他人だったんだ。

 

 ヒッテはそう思って彼の顔をまじまじと見る。

 

 やはり何も感じないし、なにも思い出さない。そうだ。知らない人だ。

 

 先ほどまであれほど緊張していた体と脳が急激に冷静さを取り戻していくような感覚があった。

 

「すいません、人違いでした」

 

 ヒッテはそう言って謝り、フィーのいる宿に帰ろうとしたのだが、今度はその彼女を青年が呼び止めた。

 

「待って」

 

 ヒッテは足を止めて、青年の方に振り向く。

 

「人違いなら……」

 

 落ち着いた声であった。なぜ彼はヒッテを呼び止めたのか、そんなことを考えていたのだが、青年が発したのは意外な言葉であった。

 

「何故君は、涙を流しているんだ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る